世界の狭間
夜中に街を覆った雪は、翌日の晴天下でも存在を主張していた。
人も通らぬ街角の路地裏では尚更だ。
少女の姿をした人影がふたつ、その中でぽつりと浮かび上がる。ひとりは立って、ひとりは地に倒れて。
肩で息をしながらも立っている方のひとり、霧間凪は、生まれて初めての困惑に直面していた。
彼女は正義の味方だ。
正確に言うなら、「正義の味方がいて欲しい」という時に限ってそんなものは現れないため、自分で行っている。
今回もそうだった。
そこに倒れているのは、人であって人ではない。一応女子高生の外見をしているが、人間以上の特殊能力を持ち、麻薬を撒いている組織の一員だった。
尻尾をつかんだ凪は、この場所へとおびき出し、不意打ちで何とか倒した。
そして即座に直面したのがこの困難だった。
彼女に――
「止めをささないのかい」
中性的なボーイソプラノの声。息が止まり、瞬時に身構えながら視線を走らせる。
白い塀の上に黒い影が腰掛けていた――少し前までは確かに何もなかった場所に、世界から浮かび上がるかのように。
黒帽子と黒マントの、伝説の死神。
ブギーポップ。
「おまえか…」
よく知っている相手とはお世辞にも言えないが、少なくとも顔だけは何度も合わせている。
目の前の難問から一瞬でも開放されて、凪はほっと息をついた。
「相変わらず、タイミングが一足遅い奴だね。もう事は済んじまったぜ」
その言葉に彼は、左右非対称の奇妙な表情を作る。
無言であったが、凪にはぴんと来た。
「そうか…。
そっちはそっちで、何かを片づけてたってわけか。オレの知らないところで」
「さて、ね」
彼に話す意志がないのなら、凪にはそれ以上知る手だてはなかった。
彼が相手していたのがより大きな、世界の危機のようなものだったとしても。
凪の手の届く範囲に既に壁があるのだから。
「殺さないのか、”炎の魔女”」
黒帽子の怪人が淡々と言い放つ。
それが今ある壁だった。
実のところ凪は一度も敵を殺したことはない。
初めて来生真希子と戦ったときも。
マンティコアや早乙女正美と戦ったときも。実質的にそれは死神の役目であり。
もちろん必要ならば自らの手を汚す覚悟はあったが、こうして少女の姿をした敵が目の前で気を失っているのを、容赦なく殺せるほど壊れてもいなかった。
「彼女は人間じゃない。統和機構の作りだした合成人間だ。
殺しても罪にはならないよ」
抑揚のない声が、『法』という逃げ道を塞ぐ。
「…でも、綺みたいな事情があるのかもしれないじゃないか」
「さてね。ぼくもそこまでは知らない。ただはっきりしているのは…」
分かってる。
「次に戦えば、オレに勝ち目はない――だろ?」
今回の勝利は相手の油断を突いた、ただの幸運だった。
倒すとしたらこれが最後の機会なのだ。
雪を踏みしめる安全靴に力が入る。
「君はこれからのことを考えているのか」
黒帽子は視線を上にあげ、晴れた空を見た。
「今日は末真和子に呼ばれているんだったな」
「…なんで知ってるんだよ」
「宮下藤花も呼ばれている」
彼の宿主の記憶は、彼も知り得るらしい。
「君はこう考えてるんじゃないのかい。
こいつを殺した血塗れの手で、どうやって友人たちに会えばいいのか。
人ひとり殺した後で、笑顔で彼女らに挨拶できるのか、と――」
それを指摘されても凪は動揺はしなかった。
分かってる。戦いの人生を始めたときから、こんなことは分かっていたはずだ。
心の中で、何人かの友人に別れを告げた。
「仕方ないさ…!」
そう吐き捨て、『敵』の首筋に手を伸ばした。
こいつは麻薬を撒いていた。仕方ない、だって他に方法は――
凪の動きが止まる。
目の前のワイヤーを見つめ、その向こうの影を怪訝そうに見る。
「何のつもりだよ」
「今日は特別だ」
音もなく塀から飛び降りると、ブギーポップは再び腕をマントの中にしまった。
「後始末はぼくがやろう」
「お、おい…」
いとも簡単に問題が取り払われて、かえって凪は慌てる。
それでいいのか。
そう言いたげな彼女に、ブギーポップは歌うように言う。
「ささやかなクリスマスプレゼントさ――世界からの」
‥‥‥‥。
そうか。今日はクリスマスだったか。
それで和子にも呼ばれたのだった。
少しの無言の後、凪は気の抜けたように息を吐いた。
「おまえも大変だな」
「ぼくかい?」
肩をすくめる。
笑っているような、怒っているような、その左右非対称な表情の奥にあるものは、凪であっても読みとれなかった。
「ぼくはそのために存在している。終われば泡と消える身だ、その意味では気楽なものさ。
大変なのは君だろう、炎の魔女。平和な日常と、危機に満ちた戦いの、両方に足を突っ込んでいる君は――」
一息置いて、死神は冷徹に言い放つ。
「世界の狭間の境界線を、辛うじて綱渡りしているようなものだ。いつ転げ落ちるとも知れないな」
『敵』が呻き声をあげた。間もなく気がつくだろう。
それ以上話すこともなく、凪はくるりと背を向けると、雪を踏みしめながら足早にその場を立ち去った。
少し大きな通りに出る。
白く彩られたクリスマスの街を、人々がせわしげに行き交う。
凪に目を留める者もなく。
長い髪を一振りすると、腕時計に目を落とした。
「うわ、もうこんな時間かよ」
末真和子が指定した時間まであと僅か。
それでも、なぜか急ぐ気になれず、凪はゆっくりと歩き出した。
(これで良かったのか?)
(ただ先延ばしにしただけじゃないのか?)
そう。
大事な人を危険に巻き込みたくないのなら。
正樹とは姉弟の縁を切るべきじゃないのか?
健太郎とは友人関係を止めるべきじゃないのか?
これから、和子のところへ行ってはいけないんじゃないのか…?
「やばっ、遅刻遅刻!」
素っ頓狂な声と共に、凪が今出てきたばかりの路地から、少女が一人駆けだしてくる。
大きなスポルティングバッグを小脇に抱えて…
「あ、霧間さん!」
彼女――宮下藤花もこちらに気づくと、息を切らせて駆け寄ってきた。
「何してんの? 末真に呼ばれてるんでしょ、遅刻しちゃうわよ!」
「ああ」
苦笑して、凪も歩調を早める。つい先ほどまで黒ずくめの怪人だった少女に言われては、苦笑するしかない。
「でもあんた、今日は彼氏といなくていいのかい」
「‥‥‥‥。いいのよあんな奴っ!」
さらに歩調を早めながら、今度は肩をすくめる。痴話喧嘩か。そういえば和子が彼氏君――竹田といったか、彼も呼んだと言っていた。席上で仲直りさせようという腹なのかもしれない。
「あんたも大変だな」
とうとう走り出しながらそう言う凪に、藤花は前を向いて呟いた。
「…霧間さんもさ、色々大変だとは思うけど。
まあ、なるようにしかならないのよね。ただの人間としては」
思わずその顔を見る。ブギーポップ? いや…
「何でそんなこと言うんだ?」
「ん、何となく。気に障ったらゴメン」
ブギーポップでいる間の、”無意識”からの言葉だろうか。
「いや…その通りだろうよ」
確かに。
和子のクリスマスパーティへと走りながら、霧間凪はそう思う。
どちらも捨てることはできない。
世界の狭間を、落ちないように歩いていくしかないのだ。
<END>