<<前編



 以前、ウサギの人形について尋ねたことがある。
『可愛くてぴったりだよね。私だったらモグラの人形とかになっちゃうし…』
『自分から決めつけてどうすんのよ。ま、うさちゃんは私の大事なパートナーだしね』
『でもウサギって寂しいと死んじゃうんだよね。伊織ちゃんと全然結びつかないですぅ』
『アンタ、人を何だと思ってるのよ…』
 伊織は話してくれた。いつも一人だったこと、この人形にだけ心を開けたこと。
 そんなことを堂々と話せるのが、彼女の強さなのだろう。
 そう思いつつも、何か複雑な気持ちが巻き起こる理由が、その時の雪歩は分かっていなかった。


*        *        *


 伊織が出ていった後の扉を、雪歩は暫く無言で見ていた。
 自分のしたことに実感がない。
 まるでステージの上の自分を、後から冷静な目で見ているような――
「…あー」
 ノックの後、人影。
 決まり悪そうに入ってきたのはプロデューサーだった。
「忘れ物を取りに来たんだが…それどころじゃなくなったな」
「…聞いちゃいました、よね」
「敬語を使って欲しかったのか?」
「そんなわけ無いじゃないですか…さっき言ったことは、全部嘘です」
「なら、何故あんなことを言ったのか教えてくれ」
「それは…伊織ちゃんの、足を引っ張りたくないから」
 ぼそぼそと、機械音みたいな言葉が紡がれる。
「伊織ちゃんは優しいから、あのままじゃいつまでも私を見捨てられないでしょう?
 私なんて良くて中堅。伊織ちゃんはトップアイドルになれる子です。
 私のことなんか気にせず、ずっと頂点を見て走り続けてほしい。それが伊織ちゃんの将来のためだし…」
「そうか。でも、それも嘘だな」

 プロデューサーの言葉は淡白で、理解できたのは数瞬が過ぎた後だった。
「え…? あ、あの、プロデューサー…?」
「いや、多少はそんな気持ちもあったろうが、それだけならもっと優しく言うはずだ、雪歩ならそうするはずだ。
 さっきのは明らかに悪意が入っていた。
 どうしてだ? 俺はお前達は、何だかんだで仲がいいと思ってたんだが」
「それは…」
 胸の奥底に必死で押し込もうとしていたのに。
 プロデューサーのせいで、それは膨張して、勢いを増して…。
「伊織ちゃんが――泣き出しそうだったからですよっ!」

「伊織ちゃん、私と離れるのを寂しがってた。
 嬉しいけど、嬉しい気持ちもあるけど、でもそれ以上に許せない。
 伊織ちゃんはもっと強いはずなのに――」

 始めて出会った日から。
 水瀬伊織という女の子は、雪歩の憧れそのものだった。
 いつも堂々としてて、自分の言いたいことをハッキリ言えて、あんな風になりたいって。
 それが、あんな弱々しげな姿を見せるなんて!

「伊織ちゃんは私なんか好きになっちゃいけない。
 私の優しさに縋ったりしちゃいけない。
 彼女はいつだって強くて、誇り高くて、本当のアイドルで――」
 語尾が嗚咽になって消えていく。

「私みたいな、地面を這ってる小虫の方なんか見ちゃいけないんですよぉ…」


 黒い塊が発散された後、残るのは後悔だった。
 伊織に酷いことを言ってしまった。
 自分の理想を押し付けて、年下の女の子を、傷つける言葉を投げてしまった。
(――でも)
 言い訳が心を支配する。憧れを投影した。そう、でも正当化できるよね?
 だって彼女はアイドルだ。アイドルとは――そういうものなんだから。

「…仲直りする気は、ないのか」
 困ったようなプロデューサーの言葉に、俯いたまま首を横に振る。
 だってこれで丁度いい。嫌われてくれた方が、お互いのためにずっといい。
 それが逃げだってことも分かってるけど。
 のろのろと立ち上がって、重い足を引きずり歩き出す。こんなことになっても、アイドルを続けなくちゃ。
 それは多分――辞める勇気がないからだ。


*        *        *


 同じ事務所にいるのに、一度も顔を合わせなかった。
 まるで計ったように、すれ違う日々が続いた。
 代わりに会うのはテレビの中、雑誌の中、ポスターの中で微笑む彼女。
 それが演技で、心からのものではないことを今は知ってる。でも、そんなのアイドルなら当たり前。本心から楽しくて笑ってるなんて、ファンですら思っていない。
(…でも、それなら伊織ちゃんは、いつ笑えるんだろう)
 浮かぶ懸念を振り払う。自分になんか、心配する資格はない。
 それでも、伊織が気にしてはいけないからと、仕事だけは懸命に取り組む。取り組みながら自嘲する。今更、彼女が自分なんか気にするわけないのに。
 そのはずだったのに…。

「伊織が不調らしい」
 プロデューサーがしかめっ面で、そんなことを言ってきた。
「で、でも、お仕事は順調そうでしたけどっ…」
「けど、いまいち覇気がない。気ばかり焦って空回りしてる。
 向こうのプロデューサーは有能だから、雪歩が原因だろうって分かってる。俺も洗いざらい話した。悪いが、もう逃げられないぞ」
「ま、待ってください! 今更、私にどうしろって言うんですか」
 まだ縁が切れないなんて思わなかった。繋がっているから、いつまでも未練が出てしまうのに。
「い…伊織ちゃんなら大丈夫ですよ。不調だなんて信じられない。私が原因なんてあり得ない。勘違いじゃないんですか?」
「伊織だって、まだ14歳の女の子だぞ…」
 聞きたくない言葉が、耳の奥へと入り込む。それは分かってる、分かってるけど…。
「とにかく、ちゃんと話し合ってわだかまりを解くこと! 高校生にもなって、いつまでも中学生相手に逃げ回ってるんじゃない!」
「はぁい…分かりました…」


 約束の1時間前に来て、喫茶店の隅で縮こまっていた。
 本来なら、伊織に会わせる顔なんてない。早く来たのはせめてもの謝罪のつもりだが、もちろん何の詫びにもならない。
「こんにちは、萩原さん」
 どくん、と心臓が跳ね上がる。
「あ…。伊織、ちゃん」
 伊織がいた。同じ時間を過ごした彼女ではなく、テレビの中の彼女だった。
 どこにも隙のない、優雅な微笑み。
 久し振りに聞く声なのに、まるで現実感がない。
 向かいの席に座る彼女を見られず、目線が泳ぐ。
「ごめんなさいね、お互い忙しいのに。
 全くプロデューサーったら、必要ないって言ってるのに、無理矢理セッティングするんですもの。本当、困ってしまいますね」
「そ…う。そう…」
 敬語…。
 何か言おうとしても、言葉が出てこない。笑おうとしても、顔が動かない。どうしたら…。
「…って、ねえ…」
 だから、伊織の声が急に低くなったことに、頭がついていかなかった。
「一体、何のつもりよ…」
「え!?」
「確かに目上への態度がなってなかったかもって、私なりに反省して、会話だって練習してきたのに」
 顔を上げたそこには、伊織の険しい目。混乱する。どうして、何で怒ってるの?

「何よ、そのあからさまに落胆した顔は!!」


 しまった――。
 両手で頬を覆うがもう遅い。顔に出てしまっていた。
 だって本当は、敬語なんて使って欲しくない。以前みたいに、強気で口の悪い伊織でいて欲しい。
 そんな身勝手な願望を、隠し切れなかった…!

「ご、ごめんなさい…」
「謝れなんて言ってないわよ! もう、何がなんだか分かんないっ…!
 一体アンタは、私にどうして欲しいのよ!?」
「ごめん…。ごめんね…」
「泣いたって許さない。白状するまで帰さないんだから! さあ言いなさい、雪歩は私にどうあって欲しいの!?」
「言えないよぉ…。すごく勝手なこと、考えてるもん…」

 前みたいに、無遠慮に接して欲しい。
  でも、自分なんかと仲良くして欲しくない。もっと高いところにいて欲しい。
 けど、自分と離れることに動揺してくれた、それがどれだけ嬉しかったか…
  なのに、そんな醜い自分が許せない。そんな状況を作った伊織を認められない。

「完璧で、礼儀正しいみんなのアイドルの私がいいの!?」
「…ううん…本当は、外行きの顔なんて見せて欲しくない…」
「じゃあ性格がキツくて、我が侭で、その…雪歩と一緒にいるのがちょっぴり楽しかった私がいいの!?」
「…ううん…伊織ちゃんはそんな普通の女の子じゃなくて、特別な存在であって欲しい…」
「どっちよ!?」
「だから…ごめんなさい…」

 情けなくて、ぽたぽたと涙が落ちてしまった。
 こんな勝手な気持ちを押しつけられて、泣きたいのは伊織の方だろう。
 それでも、矛盾する願望は消えてくれない。ただただ謝るしかない。

「ごめんね伊織ちゃん、ごめんね…」
「もう…いいわよ。私はアイドルだもんね。この程度は慣れっこよ」
 いつも心にあった言い訳を、伊織が肯定してくれた。少し軽くなって、顔を上げる。
 伊織は憮然として、人差し指でテーブルを叩いていた。
 そっぽを向いた彼女に、雪歩が何か言う前に、先に伊織の口が開く。

「それに…私だって同じだもの」

 面食らっている雪歩の前で、伊織の表情が、怒りから悔悟に変わっていく。
「雪歩に強くなれって言って、少しずつ成長するアンタが頼もしい気持ちもあって…」
 そう、伊織に叱責されて、少しでも応えようって、あの日までは必死で頑張ってた。
 でも…?
「でもどこかで、雪歩は弱いままの方がいいって――いつまでも私に守られてればいいって、そう思ってたの。本当、最低だわ」

「…伊織ちゃん…」
 止まっていた呼吸を、ゆっくりと吐き出す。
「あ…の、あのね…」
「何よ、幻滅した? 悪かったわね、アンタの理想を裏切って。私なんて所詮こんなもんよ」
「そ、そんなわけないよ。そんなわけ…」
 ぶすっとした伊織に対し、あわあわと狼狽える。幻滅なんて欠片もなくて、どうやってフォローしようって、そんなことだけが思い浮かぶ。
「あ、あの、伊織ちゃん。私、どっちの方がいい?」
「は?」
「その、強い私と、弱い私と、敢えて選ぶなら、どっち?」
「弱い方がいいって言ったら、そうするわけ?」
「だって、伊織ちゃんには散々迷惑をかけちゃったから…。せめて、伊織ちゃんの好きな私になろうって」
 精一杯の償いを考えたつもりだったが、混乱した頭では的外れだった。苦虫を噛みつぶしたような顔を見せられ、雪歩はしゅんと縮こまる。
「一つだけ言えるとしたら」
 ウェイトレスが注文を取りに来る。勝手にオレンジジュースを二つ頼んで、去っていくのを確かめてから、伊織は真っ直ぐに雪歩へ告げた。
「私の理想を映しただけの雪歩なんて、ご免こうむるって、それだけだわ」

「そっ…か…」
 少し経ってから、雪歩は吹き出す。
「な、何よっ」
「ううん…そうだよね、私もそう」
 何かの呪縛を、伊織の言葉が吹き消した気がした。
 こんな簡単なこと、どうして気付かなかったんだろう。
 可笑しくて、笑いが止まらない。
「ごめんね伊織ちゃん。大好き」
「わっ…私は、雪歩が思ってるほど強くないかもよ…」
「うん、理想通りじゃないところもあるかもしれない。でも、それも含めて伊織ちゃんが好き」
「…雪歩より勇気がないなんてのは癪だから、私も言ってやるわ」
 伊織は怒った風に、でも、その実は笑いをこらえているのを、雪歩は見逃しはしなかった。

「私だって、雪歩のことが好きよっ!」


*        *        *


 二人で話し合って、アイドル活動はこのまま分かれて続けることにした。
「伊織ちゃんのプロデューサーさんに、今更帰れとは言えないですしね」
「そりゃあ、なあ」
「それに…お仕事中は、やっぱり私たちはアイドルですから。そのへんはきっちり分けようって」
「つまり裏を返せば、仕事以外では二人で一緒に、素顔の時間を過ごさせろってわけだな」
 にっこり笑って雪歩は肯定する。
「はいっ。向こうと調整して、お休みは合わせてくださいねっ」
「分かったよ、しかし雪歩も強くなってきたなぁ…」
「それはもう、伊織ちゃんが協力してくれますから」
「ふうん?」


 二人きりになると、伊織はきょろきょろと周りを伺い、部屋に鍵をかけてしまう。
「伊織ちゃん、そんな警戒しなくてもいいのに」
「う、うるさいわねっ。雪歩といる時の姿なんて、他の奴に見せられるもんですか」
「ふふっ、可愛いなぁ」
 後ろから抱きしめると、伊織はすっぽりと両腕に収まる。雪歩の細い腕でも包める、小さな身体。
「な、何よっ。雪歩のくせに生意気よっ」
「私の成長に協力してよぉ。伊織ちゃんみたいに強い子を独占できたら、私も強くなれた気がする」
「人を踏み台にしてんじゃないわよっ。気がする、だけじゃ仕方ないでしょ。ったく…」
「そんなことないよ。自己暗示って大事だよ?」
 伊織のリボンに頬を寄せる。解きたくなって手を伸ばすけど、思い直して撫でるだけにする。今はまだ駄目だ。
「ねえ、伊織ちゃん」
「なによ」
「いつか、追いつくからね。伊織ちゃんのいるところまで登っていくから」
「…待っていてほしい?」
「待ってても、待ってなくてもいいよ。どんな事があっても、絶対に捉まえる」
 きゅ、と伊織の両手が、雪歩の回された両腕を掴む。
「雪歩って、つくづく予想を裏切るわよね。…だから好きになったんだわ」

 私達はアイドルだ。
 外からの憧れを映す、背中合わせの二枚の鏡。
 だからその内側は、誰にも見えない――本当の、秘密の花園だ。






<END>




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