ムウSS: 静かな光






「今日はこのくらいにしておきましょう」
「はいっ、ありがとうございました!」
 チベットの人里離れた山奥に、ジャミールと呼ばれる場所がある。周囲は荒れ果てた岩ばかり、常人ではたどりつくことすら出来ないこの地で今日も貴鬼はムウから聖衣修復の手ほどきを受けていた。オリハルコンにガマニオン、それに銀星砂のそれぞれの用途をたたきこまれ、頭がこんがらがりそうになりながらもなんとか技術も向上している貴鬼である。
「今覚えたところはよく復習しておくように。いつあなたの力が必要となるかもわからないのですから…」
「そ、それってまた新たな聖戦が起こるってことですかっ!?」
「それはわかりません。用心に越したことはないということです」
 貴鬼の質問は明らかに期待を込めたものだったが簡単にかわされてしまった。そのまま自室に引き上げようとする師に、あわてて扉の前に回り込む。
「なんですか、貴鬼」
「ムウ様…そろそろおいらにも聖闘士としての修行をさせてくださいよぉ〜〜っ」
 冥王ハーデスとの戦いから既に数ヶ月。星矢たちも日本に帰り平和な日常が戻ったかに見える。だが戦いのたびにおまけ扱いされる貴鬼の鬱積は確実に蓄積され、星矢や氷河の戦いをそばで見ながらいつか自分も…とは毎度思うことだが、肝心の師匠はノミのふるい方は教えてくれても拳のふるい方は教えてくれないのだ。
「ほら、ムウ様ってあんまり自分から戦いに行くことないじゃないですか。だからおいらがムウ様の技を受け継いで代わりに…」
「まだ早いです」
 あっさり言ってそのまま部屋を出ていくムウ。静かに閉じられた扉を前に貴鬼はしばらくぽかんとしていたが、徐々にめらめらと怒りがこみあげてくるのをどうすることもできなかった。
「なんだよムウ様のケチ!聖衣も技もちっとも使わないんだからおいらに譲ってくれたっていいじゃんか!」
 実際ムウが先陣を切って戦うことは滅多にない。それはアイオリアやミロの役割であり、穏和な人格者とされるムウはサポートに回ることが多かった。ムウが本当は黄金聖闘士の中でも1、2を争う実力の持ち主であることを知る貴鬼にはそれがなんとも歯がゆかったのだが…。
「それだからいつも傍観者だとか陰口たたかれるんだちくしょーーっ!」


「まだほんの数ヶ月ですか…」
 星の動きを見ながらムウが呟く。聖戦は通常約250年ごとに繰り広げられる。この通りならハーデスとの聖戦を終えた今あと2世紀半は平和が続くはずなのだが、一方ですでに最終黙示録戦争(ハルマゲドン)が近づいており、ポセイドン、ハーデスとの連戦はその前兆でしかないという者もいる。もしそうなったら最後の相手――敵と呼ぶには偉大すぎるあの神々に対し自分たちはいかほどの力を有するのかと、天を見上げながらそう思わざるを得ないムウだった。
 夕食の時間になったのでテレポートで階下へ降りる。しかし台所に火はなく、いつもなら質素ながら一生懸命作った料理の並べられるテーブルの上は空っぽで、代わりに貴鬼が部屋の隅で腕組みしながらこちらに背を向けていた。
「貴鬼、これはどういう…」
「ヘン! ムウ様が戦闘訓練をしてくれない限りもう食事当番はごめんだい!」
「‥‥‥‥‥」
 ムウは小さくため息をつくとそのまま台所に立ち、貴鬼が遠くの村で買ってきた材料を取り出し始めた。トントンと包丁の音が聞こえ、ぴくぴくと耳を動かしながら強情に壁を向いてる貴鬼の鼻においしそうなにおいが流れてくる。しばらくしてちらっとだけ後ろを向くと、ムウがテーブルの上に2人分の料理を並べているところだった。しかも自分の作るものよりはるかに上手そうで貴鬼の立つ瀬がない。
「夕御飯ができましたよ」
「い…いらねぇや!」
「そうですか。それでは仕方ありませんね。私1人で寂しいですが遠慮なくいただくことにしましょう」
 かちゃかちゃと食事する音を聞きながら、なんで自分はこんな人を師に持ってしまったのだろうと心で涙する貴鬼である。
「貴鬼、いやなら聞かなくても構いませんが」
 必死で腹の音が鳴るのをこらえている弟子に、ムウはいつものように落ち着いた声で話しかけた。
「もし良かったら聞いてもらえませんか」

==========================================================================


「今日はこのくらいにしておこう」
「はい…。ありがとうございました」
 ギリシア聖域。聖闘士の総本山であるこの地の頂上、教皇の間の隣に小さな工房がある。そこで修行中らしき少年が丁寧に頭を下げていた。ハーデス軍108の魔星が自分の力をもってしてもあと十数年しか抑えられぬ、との童虎の報告を受け、長い平和で数も減った聖闘士たちを多数育成することが現在の聖域の至上命題である。この少年もその中の1人のはずだった。
 ただ他と違うのは目の前にあるのがただの聖衣ではなく壊れた聖衣であり、手にするのがオリハルコンのノミと槌であり、何より彼の目の前に立つ人物が、荘重な仮面と法衣を身につけた――聖域の最高指導者、教皇その人であることだった。
「ムウよ、おまえの聖衣修復能力は既に完成に近づいている。そろそろ聖闘士としての修行も始めて良いのではないか」
 しかし聖闘士にとっては神の声にも等しい教皇の言葉に、ムウと呼ばれた少年は悲しそうに首を振る。
「いいえシオン様。何度も申しましたように私は聖闘士になるつもりはないのです。確かに地上の平和のため拳をふるうのは尊いことです。しかしそれをわかっていても、私には誰かを暴力をもって傷つけるなどとうていできそうにもありません」
「そうか…」
 ムウは心から済まなそうに頭を下げると、そのまま工房を出ていった。入れ替わりにひとりの黄金聖闘士が振り返りながら入ってくる。
「アイオロスか」
「ムウはやはり戦いには合いませんか」
 聖域に残る若き黄金聖闘士の1人、射手座サジタリアスのアイオロスは残念そうに言った。教皇シオンも思いは同じだが、その内心はいささか複雑である。
「惜しいものだな、あの子の小宇宙は他の者には及びもつかぬ何かがある。ムウにならばこのアリエスの黄金聖衣を喜んで譲れるのだが…」
 年老いた教皇は自らのかたわらにある聖衣を見つめた。かつて童虎や他の仲間たちと聖戦を戦い抜いてから二百数十年。もはやまとうこともなくなったこの聖衣は静かに次の主を心待ちにしているのだ。
「しかしアイオロスよ、一方であの子にはあの凄惨な聖戦を味わってほしくないとも思っているのだよ。虫を殺すのもためらうような優しいあの子にはな…」
「はっ…。幸い聖闘士の育成は順調に進んでおります。ムウには聖衣の修復をこそ頑張ってもらいましょう」
「そうだな」
 その時には自分も教皇の座から退き、新たな世代の者達が戦うことになるのだろう。この地上ある限り聖戦は続く。人間が愚かなら、神々もまた愚かなのかもしれない…。

「やぁ、ムウ」
「カイナース、こんにちは」
 12宮を降りたムウは途中で聖闘士候補のカイナースに出会った。長い銀髪が目立つ彼もまた聖闘士となるべく修行中の身だが、既にその実力は白銀聖闘士レベルであるとの噂である。ムウとは特に親しいという訳ではなかったが、最近よく向こうから話しかけてくる。
「今日の修行は終わったのか」
「はい。今日はこれから銀星砂を採りにネソス山へ行くところです」
「そうか。それでは途中まで一緒に行こうか」
「はい」
 自分よりかなり背の高い相手ににっこり微笑んで隣をついていく。ムウはあまり人見知りはしない。とうより誰にも平等に優しかったのだ。
 聖域の結界を抜け、岩に囲まれた坂をゆっくりと歩いていく。
「ムウは聖闘士にはならないんだったな」
「はい…」
 人に会うたびに同じ事を聞かれる。この聖域にいながら聖闘士を目指さないという方が変なのだから仕方ないのかもしれない。ムウはちらりとカイナースを見ると、心にわだかまっていた疑問をぶつけてみることにした。
「私は卑怯者なのでしょうか」
「何だって?」
「カイナースやシオン様、それにアルデバランやシャカやアイオリア達…。皆この地上とアテナを守るべく一生懸命力を高めています。そんな中で私1人だけ戦いを避けようとするのは許されぬことでしょうか」
 実際ムウのことを臆病者とそしる者もいる。力を持ちながら、人を傷つけるのが嫌だというだけでそれを使おうとしないムウは非難されても仕方ないのかもしれない。自分だけならまだしも、シオンまで自分のことで悪く言われるのがムウの心をなおさら痛めていた。
 しかしカイナースは軽くムウの頭をたたくと安心させるように言った。
「戦う意志のない者まで無理に戦う必要はないさ。むしろそういった者が戦わなくて済むように私みたいな奴がいるんだ。違うか?」
「ですが…」
「おまえは聖衣の修復という立派な能力がある。これでさらに聖闘士の力まで得たら凡人の立つ瀬がないな」
 おどけるカイナースにムウの口から笑みがもれる。しかしカイナースはもう一言つけ加えた。
「それに…。聖闘士が常に正しいと決まったわけではない。無闇に戦いを求める前にそれをよく覚えておくことだ」
 ムウの顔から笑みが消える。別れ道まで来て、カイナースは軽く手を上げ去っていった。ムウは自分の道を歩きながら、彼の言葉の意味を考えていた。


 12宮を見上げる形で聖闘士や兵士たちの宿舎がある。その一室でムウは静かに夜空を眺めていた。師はまだ教皇の職務の最中だろうか。
 生まれたときから不思議な力を持ち、物に手を触れず動かすことができた。ために周囲からも両親からも気味悪がられたムウを引き取ったのがいずこからともなく現れたシオンである。彼の言葉により自分がムー大陸人の末裔であることを教えたれた。その力を強く持ってしまったのだと。そしてシオンもまた同じなのだと。聖衣の修復ができるのはムーの末裔のみ、それゆえ教皇であると同時に聖衣修復者でもあるシオンは、その技術をムウに託そうとしたのだ。
 それは傷ついた聖衣を直し、戦士をふたたび戦地に送り込むため…。直接手を下さなくても、やっていることは変わりないかもしれない。
(なぜ戦いは起こるのだろう)
 最初の聖戦はポセイドンの地上侵攻の際。このときに聖闘士そのものが誕生することとなった。そして巨人ギガース、戦神アレス、冥王ハーデス…。アテナの戦いは平和を守るための正義の戦いである。しかしそのために何人が犠牲になり、これから何人が犠牲になっていくのだろうか。
 他の神々が地上を狙うから悪いのだ。しかし神々にとってみれば、人間など虫ケラのようなものなのかもしれない。唯一人間に最も近いアテナだけが人間の味方をしてくれる。そのアテナに報いるためには…
(…アテナご自身にお聞きした方がいいのかもしれません)
 まだ見ぬ女神に思いを馳せながら、星の輝きに目を奪われるムウだった。

 しかしそろそろ眠ろうかと思った折、なにやら下の方で騒がしい音が聞こえる。逃げたぞ、という叫びから厳しさに耐えかねて脱走者が出たのかとムウは思った。ところが窓から身を乗り出したムウの目に映った背中は紛れもなくカイナースではないか。
(――まさか?)
 あわててムウは窓から飛び出すと、別の場所のイメージを思い描く。次元の壁が歪みムウの身体が移動する。いかに聖闘士の脚力が優れているとはいえテレポーテーションにかなうはずもなく、しばらくして岩影に身を潜めるカイナースの前へ追いついた。
「うっ!」
 反射的に拳を構えるカイナースだが、心配そうなムウの顔を見てほっとため息をつき座り込む。その右腕からは血を流しており、思わずムウは駆け寄った。
「一体どうしたのですか?誰がこんな…」
「ん?ああ…」
 カイナースは一瞬の間をおいてムウに語りかける。
「聖域に邪悪の手が既に入り込んでいる。私はそれを探ろうとして返り討ちにあいこのザマだ」
「な…」
「ムウよ、私と来てくれないか。この地上を正しい姿に戻すためお前の力が必要なのだ」
「騙されるな、ムウよ」
 不意に頭上から声がかかる。否、声以上にその強大な小宇宙が2人を威圧した。
「あ…あなたは…!」
「サガ!!」
 黄金聖闘士双子座ジェミニのサガ。その実力はアイオロスに勝るとも劣らず、何よりその心の清らかさから神の化身とも呼ばれる男が、今は聖衣こそまとっていないものの敵意をもってカイナースを見下ろしている。
「ムウよ、聖闘士候補カイナースなどとは真っ赤な偽物。その男は何者かによりこの聖域の内情を調べるため送り込まれた間諜なのだ」
「な…。そんな!」
「な、何を言うサガよ!お前こそこの聖域を支配しようと目論む邪悪の化身ではないか!」
「うっ…」
「世迷い事を…」
 ムウの視線が2人を交錯する。どちらを信じたら良いのか?聖闘士が常に正しいと決まったわけではない…カイナースの言った言葉がこんな早く実践されるとは思いもしなかった。
「ムウよ、そこをどけ。私はその男に色々聞かなくてはならん」
「ムウ!お前も正義を守る戦士なら、この場はこの私を連れて逃げてくれ!」
「お…落ち着いてください!」
 たまらずムウが叫びを上げる。
「シオン様…そうだ、シオン様のところへ行き真偽をはっきりさせましょう。それが一番…」
 他人に頼るようだが今のムウに真実を見抜くだけの力はない。教皇である師に任せるのが一番と思われた。教皇すら正しいと決まったわけではないが、ムウにとってもっとも信じられるのは他の誰でもない師シオンだったのだ。
 しかし最後まで言い終わる前に突如ムウの首が後ろから締め上げられる。左腕でムウを捕らえたのは…カイナースだった。
「カ…カイナース!」
「フッ、いかに小僧といえどでまかせの嘘には引っかからぬか…。まあいいムウよ、このままテレポートでこの私を逃がしてもらおうか」
「ムウを離すのだ、カイナース」
 呆然としたムウは抵抗すらできないでいた。サガが落ち着いた声で一歩近づく。
「近づくな!近づけばムウの命はない!」
「無駄なことを…」
 サガの目はカイナースよりも、むしろムウを悲しみをこめて見つめている。その手がゆっくりと上がり、カイナースが動こうとする瞬間一閃の光条が彼の額を貫いた。
「うっ!」
「おまえの中枢神経を麻痺させた。もはや指一本動かすこともかなうまい」
 カイナースの腕を外しムウを地面に降ろす。まだ現実を受け入れられない少年を取りあえず岩に寄りかからせ、サガはカイナースに向き直った。
「何者の差し金だ?ポセイドンか、ハーデスか…。いずれにせよ墜ちたものだな」
「フ…フッ!地上のウジ虫どもが思い上がったことを…。失敗したのは単に私の愚かさゆえ。しかしお前たちの愚かさと罪はもはや救いようのないところまで肥大しているのだぞ!」
 罪、という言葉のところで一瞬だけサガの髪が揺れたような気がした。しかし何事もなかったような表情で詰問を続ける。
「誰の差し金かと聞いている」
「知らんな」
「そうか…」
「うっ!」
 声を上げたのはムウだった。サガの右手が瞬き、弱めとはいえ光速拳が放たれる…。
「危ない!」
 たとえカイナースが動いたとしても避けられなかったであろうその拳の前に、ムウの体が飛び込んだ!
「な…なにぃ!?」
 神の化身と呼ばれるサガですら驚きの声を上げる。ムウの両手に水晶の壁のようなものができている。サガの光速拳はそれに跳ね返され、近くの岩を砕くに終わった。
「(あ…あれはまさしく教皇のクリスタルウォール!それを不完全とはいえこんな少年が使いこなすとは…)」
 サガの集中が解けたことによりカイナースも自由を取り戻す。しかし逃げようともせず呆然とムウを見つめていた。いかにクリスタルウォールでもサガの光速拳を受けて無傷とはいかず、反動でムウ自身もかなりのダメージを負い、それでもムウは膝をつこうとはしなかったのだ。
「なぜカイナースを庇う。その男はアテナに敵対する者の戦士…。いわば地上を狙う邪悪なのだぞ」
「しかしこの人ははケガをしているのです!」
 サガに対しムウは反論する。
「誰が正義かは別にして、ケガをしている人に拳を向けることが正しいとは思えません」
「愚かな…」
「いや、待つのだサガよ」
 はっと3人が振り向くと兵士を従えたシオンが歩いてくるところだった。ようやく教皇の間まで知らせが行ったらしい。
「う、うう…。教皇…」
「カイナース」
 老いたりとはいえその威厳は衰えず、カイナースを圧倒しながらシオンは言葉を続ける。
「お前がどの神から遣わされたものかはあえて聞くまい。しかし聖域はどうであった。お前の想像していた通りのものだったか」
「うっ…」
「真実とは自らの目でのみ見出せるもの…。ゆくがよいカイナースよ。ただしここで見たものを忘れずにな」
「な…何を言うのですか教皇!」
 サガが驚いて止めようとするが、教皇は軽く手をあげてそれを制する。ムウですら本当に良いのかと思うシオンの行動だった。カイナースはしばらく唖然としていたが立ち上がるとニヤリと笑った。
「フッ…。アテナ同様その聖闘士も甘いもの。これではあのお方の勝利は万に一つも揺るがぬわ」
 ほんの一瞬だけサガの小宇宙が殺気を帯びるが、ほとんどの者はそれに気づかなかった。カイナースは笑いをおさめると、傷ついたムウに視線を向けた。
「ムウよ、今日のことはしばらく借りにしておこう。次に会うときまでお前が生きていたらの話だがな…」
 言い残してカイナースは消えた。シオンは兵士たちに解散を命じ、自らはムウに歩み寄る。
「大丈夫か、ムウよ」
「は、はい」
「うむ…」
 シオンの小宇宙でムウの傷が癒され、よろよろと立ち上がり安堵の笑みを見せる。カイナースは逃がしてしまったし彼が何者なのかも解らなかったが、むしろ知らない方がいいのかもしれない。彼には彼の信じるものがあるのか。しかしサガには到底納得いかぬことだった。
「教皇。いかに我らが慈悲深きアテナの聖闘士とはいえ、その使命はこの地上を何としても守りぬくこと。これではあまりに無策ではありませぬか」
「サガよ、世の中はお前が言うほど簡単に割り切れるものではない。カイナースは天界の者だ」
「!」
 驚くサガとムウにシオンは説明した。彼から一瞬感じた小宇宙は海闘士でも冥闘士でもない、地上の汚れを拒絶する神々の聖地のものだったと。オリンポスのどの神かまではわからぬが、これから聖戦を戦わねばならぬ時に天界まで敵に回すわけにはいかない…。教皇としてそれがシオンの答えだった。サガはそれで納得したようには見えなかったが、何も言わず一礼して去った。シオンの表情は仮面に隠れて見えなかった。
「それにしてもクリスタルウォールを使いこなすとはな」
「夢中でしたから…」
 シオンの少し後ろを歩きながら、ムウは俯いてそう言った。自分の力は戦いの役に立ててしまう…。こんな力などなければ、とも思うが、カイナースやサガの姿を思うとそれを口に出すことははばかられた。口にも出せないということは間違ったことなのか。
「シオン様」
「何だ」
「…私に聖闘士としての修行をしてはいただけないでしょうか」
 シオンは驚きもせず、歩きながら予想していたかのように静かに言った。
「聖闘士は平和のために戦っても、聖闘士自身に平和はないのだぞ」
「わかっています…。そして勝手ながら、聖闘士となったとしてもその力は本当に必要な時以外は使わずにおきたいのです。戦うべき時には決して躊躇しません。しかしその時というのは見た目ほど多いとは思えないのです…。駄目でしょうか」
「その答えはアテナのみぞ知る。だが良いだろうムウよ。人にはそれぞれ選ぶ道がある。…それが正しいかはお前自身がこれから見いだしてゆくのだぞ」
「はい…」

 そして数週間後聖衣の修復を完全にマスターしたムウは、シオンの指導のもと聖闘士となるべく訓練を始める。だがその修行は長くは続かなかった。突如教皇がムウと会うことを拒絶し、そればかりかムウを聖域から追放するよう命令を出したのだ。混乱と絶望に襲われたムウは、しかしそこから立ち上がると、アイオロスの協力で牡羊座の黄金聖衣を手にし五老峰の老師のもとへと身をよせた。そこで聖闘士としての力を完成させ、聖域からの追っ手を避けるため、そして自らの力を隠すためジャミールの山奥へと引きこもることになる。師がサガによって殺されすり替わられていたことを知るのはそれから10年あまり後、5人の青銅聖闘士たちと出会ってからであった…。

====================================================================

「…ふーん」
 話としては面白かったがそれで何を言いたいのか貴鬼には今ひとつわからない。釈然としない顔でこちらを向いた。
「それでおいらにどうしろっていうんですか?」
「いや、私は独り言を言っていただけですが」
「ムウ様ぁ〜」
「さあ、気が済んだらこちらへ来なさい。食事が冷めてしまいますよ」
「…はぁ〜い」
 うまくごまかされたような気がしないでもない。渋々テーブルについて一口食べ、料理の腕も師に遠く及ばぬことを知りなお憮然としながらも食べ盛りの子供らしく料理はみるみるうちに減っていく。そんな光景をムウは無言で見つめながら、その目は穏やかな微笑みと、近い未来への危惧を同時にたたえていた。

「それじゃおやすみなさい」
「おやすみ、貴鬼」
「明日こそは聖闘士の技を教えてくださいよっ!」
「そうですね、気が向きましたら」
「も〜〜〜〜」
 貴鬼が寝室へ消えるととたんにあたりは静かになり、ムウが明かりを消すと館の中は冥界もかくやと思われるほどの闇に包まれた。その中でムウはゆっくりとテレキネシスを発動させる――。彼の隣に現れたのは牡羊座の黄金聖衣だった。
「天は常に我らを見下ろすか…」
 聖衣をまとい外に出たムウは一面の星空を仰ぎ見る。遮るものとて何もないジャミールの地に動くものはただ彼一人だった。否、その言葉に応じて今まで気配すらなかった場所に人影が現れる。
「わざわざ私の事を弟子に話してくれるとは…。お前には未来予知の力もあるのかな…フッ」
「そうかもしれませんね、カイナース」
 闇の中から響く声はムウにとっては忘れたくても忘れられぬものだった。既に始まっていた天界との戦い…。その相手も今のムウには見当がついている。
「ポセイドン・ハーデスに続き地上を狙うのはやはり貴方たちですか…。知神ヘルメスとその賢闘士たち!」
 ザシャア!
 カイナース率いる一団が完全に姿を現した。賢闘士(セージ)と呼ばれたその戦士たちはプラチナに輝く賢衣(ローブ)をまとい、憎しみとも怒りとも遠くかけ離れた、むしろ無機質的な小宇宙を放っている。
 知神ヘルメス――オリンポス12神の1人にして神々の使者。翼の生えたサンダルと双頭蛇の杖(カドゥケウス)を持つ若き神。商業と技術の守護神である一方で盗賊と奸計の守護神でもあり、もっとも知略にたけたおそるべき相手。アテナがポセイドン、ハーデスとの戦いで疲弊し、かつ天界の他の神々がまだ動いていない今こそ彼が仕掛けてくるだろうというムウの予測は当たったようだ。他の賢闘士たちとは明らかに違った風格を漂わせ、カイナースが一歩前に出る。その姿は賢衣以外はムウが少年の頃見たものとほとんど変わらず、天界人と自分たちとの差を嫌でも見せつけていた。
「一応自己紹介をしておこう。私の名はカイナース。ヘルメス様の21賢者の1人にして『塔』の賢者」
「黄金聖闘士、牡羊座アリエスのムウです。お互い出世したものですね」
 ムウの口調には多少の自嘲と棘が込められている。カイナースが今の地位に上ったのはかつて聖域の情報を持ち帰ったことも無縁ではないのだろう…。しかし彼はそれには答えず、ムウを見て薄く笑った。
「お前はかなり変わったようだな、ムウ」
「なんの御用ですか」
「知れたこと、宣戦布告よ。ライブラの童虎が聖闘士から退いた今、聖闘士の最高指導者であるお前に対してな」
「私はそんな偉い人物ではありませんよ」
「ほざけ!」
 カイナースの合図に背後の賢闘士たちがいっせいに襲いかかる。ヘルメスの別名はマーキュリー、そしてメルクリウス。その兵士はホムンクルス(人造人間)であり、機械のように正確にムウに対し拳を繰り出した。
 しかしムウのテレポートはそれを難なくかわし、カイナースの前に着地する。
「貴方と戦う気はありません」
「なるほどな…。ではこれならどうだ」
 今度は四方より賢闘士の攻撃が迫る。テレポートでかわすムウだが、その攻撃は囮だった。カイナースが音もなく右手を動かすとその光速拳がムウの館を襲う――軌跡はまっすぐに貴鬼の部屋を目指していた!
「貴鬼!」
 再度次元を跳躍する。しかしヘルメスに作られた賢闘士たちに同じ手は何度も通用せず、彼らもまたテレポートでムウの後を追った。館の直前で2つの攻撃が同時にムウに到達する――
「クリスタルウォール!」
「うっ!」
 カイナースは自らの拳と賢闘士たちが水晶の壁にはじき飛ばされるのを見た。そのまま空中でムウの小宇宙が煌めく。
「どうやらこのままではゆっくりと話もできぬらしい。済まないが邪魔者には一時退場してもらおう!」
「な…なにぃこれは――!」
 天翔ける黄金の羊が大いなる光の輪を生じさせる!
「スターライト・エクスティンクション!!」
 物言わぬ賢闘士たちは突如地上に出現した星に飲み込まれ、その光に溶けるように消えていった。唯一残ったカイナースはさすがに驚いていたが、ふと満足そうに微笑んだ。
「なるほどな…。単にジャミールに隠居しているのではないということか」
「横暴な侵略には容赦しません。そしてできることならそんな状況は避けようと思っているのです」
「無駄なことよ、既に新たな聖戦は始まっているのだぞ。真実は星の数ほどある。だからこそ戦いは避けられぬものなのだ」
 言うが早いかカイナースの小宇宙が急激に増大していく。黄金聖闘士のセブンセンシズとはまた違う、鋭く広がるような小宇宙。彼もまたかつての彼ではないのだ。
 しかしムウは何の対抗手段もとらぬまま、じっとカイナースの瞳を見つめていた。
「何をしている。容赦しないのではなかったのか」
「言ったはずです、むやみに拳をふるうことは好まぬと」
「そうか…。ならば受けよ破滅の光を!
 バビロン・パニッシュメント!!」
 強烈な光が周囲を覆い、炎を帯びた稲妻が天よりムウに叩きつけられる。とっさにムウの張ったクリスタルウォールは粉砕され、粉々に打ち砕かれた。
「ムウ…」
 しかし光がおさまった時ムウはそこに立っていた。いかに黄金聖衣をまとっていても無傷では済まず、その肉体はボロボロのはずでなお、その目はカイナースを見据えたまま動かない。地上の賢者の目は静かな光をたたえることをやめなかった。
「な…なぜだ…」
「あなたに借りを返してもらわないといけませんから」
 落ち着いた、淡く照らす星のような声。
「そのために来たのではないのですか?」
 カイナースの腕から力が抜ける。ムウに対し負けを認めるように。
「すべて知っていたか…」
「いいえカイナース、私は神ではありません。しかしそれでも他人を理解しようとすることはできるのです」
 俯いたカイナースがフッと笑った。彼がここへ来たのは自分の意志。戦いの前に確かめずにはいられず、そして確かめることができたのだ。数瞬の後カイナースは身を翻してムウに背を向けた。
「ヘルメス様には戦いをやめるよう上奏してみよう。もっともあのお方のこと、既に私の行動もお見通しであろうがな…」
「それでも貴方にはお礼を言いますよ。ありがとう、カイナース」
 彼の賢衣が光に包まれ、ゆっくりと夜の闇に消える。永遠に続くかのような静寂が訪れる中、ムウはがっくりと膝をついた。もはや聖衣をまとった身体を維持するほどの小宇宙も残っていない、それでも――
 幾多の星が瞬く下で、ジャミールのムウは暫く大地を見つめていたのだった。




 翌朝貴鬼が簡素な寝室から出てくると、ムウは既に起きていてのんびりと本を読んでいた。
「ムウ様、おはようございます!」
 いつものジャミール、いつもの朝、いつものムウ。昨晩のことなどまったく気づかせずに、ムウはいつものように微かに微笑む。
「おはよう、貴鬼」
「ねぇムウ様」
「何でしょう」
「おいら一生懸命考えましたっ!でもやっぱりどうしても星矢たちと一緒に戦いたいよ。おいらを聖闘士にしてください、このとーりっ!」
 頭を下げて懇願する少年。自分の進んできた道との違いに苦笑しながら、それでも求めるものは変わらないと、そう思いたいムウである。
「仕方のない子ですね…」
「それじゃぁ!」
「ただし、聖衣の修復を完全にマスターしてからです。そのためにもこれから一層勉強しなくてはなりませんよ。ああ、それから朝御飯も作ってもらわないと」
「やるやる、なんでもやります!やったーっおいらもついに聖闘士だーーっ!!」
 喜びに跳ね回りながら台所へ向かう弟子を見て、ムウの心は昔と同じようにアテナへ飛ぶ。戦いと知恵の女神アテナよ、あの子にとっての戦いの意味が、いずれ見いだされることができますように。

 そしてどうかアテナよ、たとえいつか戦いが避けられぬことでも、願わくば今少しだけ、このささやかな平和が守られんことを。




<END>




後書き
感想を書く
ガテラー図書館に戻る
聖闘士雑兵隊に戻る
プラネット・ガテラーに戻る