わたしの履歴書
帰化するってこと


帰化ってなに?
昭和60年になると母親が日本国籍であればその子どもが希望すれば、母の戸籍に入れるようになりました。ただし、どうするかを本人が20歳までに決めなければなりませんでしたが。 その改正前は、父親が外国籍で有る限り、母親の(日本の)戸籍に入ることはできませんでした。伯父の娘達(=私の従姉妹)がその改正の後、母親の戸籍に入りましたがそのために、 姓を変更する必要があったりもしました。

叔母の息子娘たち(=私のいとこ)においては、父親が日本国籍なので、出生届を出すだけで自動的に入籍されていました。なのでやっと昭和60年に、父母のどちらかの戸籍(日本)に入籍できると改められ整合性ができたのです。
いとこ達の両親は何組かがそういった国際結婚だったけど、我が両親はどちらも日本の戸籍を、いいえ国籍を持たない人です。

私は昭和62年に初めて海外渡航をします。パスポートを取得するのですが、これが「中国総領事館」というところに行くことになります。手続きなどは日本の場合と同じとは思うが、言葉が通じにくかったり、まあ、いろいろ大変ッス。そのあたりは割愛させてくださいね。 そのパスポートは、5年有効のものだったけど、後にもういちど渡航するときに、期限が切れていたのに、さかのぼって10年有効のものに切り替えをしてくれるという総領事官さん(当時)のはからいがありました。成長期だったからおかげで顔写真がすごく違和感ありました(笑) 日本のお役所では考えられませんよね。また、社会主義国なもので、渡航査証(=VISA)取得のための本人面接審査(U.S.Aの場合でした)を申請窓口でされたり、そのVISAは、マルチプルという何度か出入り有効なものは与えてもらえず、入国予定のたびに申請しなくてはならないものだった。 申請書類も当たり前ですが日本の人の場合よりは多かったりお金も所要日数もかかったりしました。この辺のはなしはいろいろあって、尽きないです。

ひとつだけ、エピソードを言うと、皆と団体旅行に出掛けます。帰ってくると入国審査カウンターに向かいます。そこは2種類あって「帰国」のブースとは分けられて設けられた「外国人」のブースを通り、「再入国」と扱われなければいけません。ブースの色も場所も数も違っていてそのせいで混雑していたりするとイヤだなって感じでした。 当時は交互にブースはなかったし「foreigners」ではなく「eillian」とか掲げられていて違和感どころか嫌悪感がありました。新婚旅行の時も別々にいったん離れて入国審査うけるはめになるしね。(新婚旅行当時もまだ私は「外国人」でした)設置は空港によりますし、また現在は「居住者」「NON居住者」で分けられたり、隣同士交互に設置されたりもあるみたいね。

このような状況が身の上にありますと、ネイティブカントリーとナショナリティーとに差異があるということで、つまり実状と登録(?)上の違いがアイデンティティを邪魔するのです。だから、日本の法務局にお頼みして、
  ”わたしのナショナリティーは「日本」ということにしてください。”
  ”戸籍を作ってください”
と申し出ます。で、戸籍ができると「帰化した」ということになります。自分の場合はそうでしたが、アメリカやブラジル生まれのスポーツ選手が日本に自己の戸籍をつくることも同様です。

日本国は国民の定義として出生地主義をとっていないが故にある帰化申請制度です。私のように自分の国と思って産まれて育ってても国民では無い場合や、逆に幼少の頃に親に連れられて日本を離れたため、日本語がほとんど話せない人が、10数年して日本へ来たとき空港でオフィサーに、 「日本人なら日本語を話せ!」と罵倒されたりする場面があったりします。ごく最近のニュースでは「フジモリ元ペルー大統領の日本国籍を確認した」とか報道されていました。そうするとつまり日本人だったり、国民だったりするんでしょうか?はい、そういうことですよね。



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ayako