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『ATCの海側で待ってる。
 つかさが来てくれるまで帰らへんから』
(こういうことしてくるかあ……)

 翌朝、しばらくゴロゴロしてから遅めに起床したつかさは、スマホを見て溜息をつく。
 頑固な夕理がこう言った以上、本気で絶対に帰らないだろう。

(しゃあない、どのみち夕理とはお別れするんや。早目に済ますか)

 朝食を片付けてから、通学路の途中にある商業施設に向かう。
 最初のPVが完成したとき、部活帰りに二人でお茶して帰った場所。
 自分に似つかわしくない、正しい学生生活と正しい夕理との時間は、もうすぐ終わりだ。


「つかさ!」

 座りもせずうろうろしていた夕理は、つかさの姿を見るや子犬のように駆け寄ってきた。
 広いデッキの向こうには、薄曇りの大阪港が広がっている。

「あ、ありがとう。来てくれて」
「うん。部は辞めるけど」

 先制パンチを食らって立ち尽くす彼女を、つかさは促してベンチに座る。
 二人の間の微妙に空いた隙間が、今の関係を示している気がした。

「あ、あのね、あの……」

 話を考える時間は十分にあったろうに、夕理は苦しそうに口ごもる。
 結局切り出したのは、退部とは別のことだった。

「私と一緒にいてくれたのはつかさや!」
(先にそっちの話かあ……)

『部長さんなら、他の誰かなら夕理を裏切らなかった』
 何であんな話を花歩にしてしまったのだろうと、つかさは今さらながら後悔する。
 でも姫水から特別視された花歩が、こんな自分を特別視することに耐えられなかったのだ。

 そういう事情は知らず、最も幸せだった一年間を否定され、夕理は抗議交じりに訴える。

「他の誰かやったらなんて、そんな仮定に何の意味があるの!?
 私と初めて友達になってくれたのも。
 色んな楽しいことを教えてくれたのも。
 全部つかさであって、他の誰でもないんや!」
「……でも結局裏切ったやろ」
「恨んでないって、あの時はっきり言うたやないか!
 あれから二年半経った今でも、私はつかさが好きや。
 それは、つかさがしてくれた事がほんまに尊いことやったからって、思ってもらえへん!?」
「その『好き』だって、たまたまあたしだっただけや」

 投げやりに放たれた言葉に、夕理は言葉を失った。
 全てを投げ出しつつあるつかさは、夕理の中の最も大切な気持ちまで否定する。

「初めての友達があたしやったから、雛鳥みたいに刷り込まれただけ。
 それこそ、他の誰かだったら良かったのにね」
「な……な……!」
「ちゃうん? ならあたしを好きな理由、他に何かある?」

 少し寂しそうに笑いながら、つかさはボールを放ってきた。
 社会に適合できない自分を、いつも器用に助けてくれて、どんどん好きになった。
 最近は少し成長して、助けられることもあまりないけど……。
 だから好きでなくなるなんてことは絶対ない。
 そんな実利ではなく、つかさのその心の有り様を好きになったのだ。

「友達思いなところ! この前だって、花歩に協力してくれたやないか!」
「ああ――」

 乾いたつかさの表情に、夕理はなぜだか心臓が冷える。
 何か逆効果なことを言ってしまったのではと。

「あたし、花歩のこと下に見てた」
「え……」
「協力したのも、今思うと『助けてやろう』って上から目線やった。
 ……やっぱり、夕理にだけは話さなあかんか。
 桜夜先輩から聞いたんやろ? 藤上さんが関係してるって」
「う、うん……」

 諦めたように、つかさは文化祭の日のことを話し始める。


『勝手に人の話を盗み聞きして』
『見下してた花歩が、姫水から特別扱いされたから』
『何もかも嫌になって退部する』

「――我ながらアホみたいやな」

 自嘲する彼女に、悪いけれど夕理も少しそう思う。
 だって姫水の方は何も気付きもしないままの、つかさ一人の空回りなのだ。
 とはいえ傷ついた気持ちも分かるので、懸命に励ましにかかる。

「私だって人のことは言われへん。最初は花歩のこと、モブみたいな奴って思ってた。
 でも今は大切な友達で、根性のある子やって思ってる。
 人の評価なんて変わるもんや。つかさから花歩も、藤上さんからつかさだって……」
「それは夕理が変わったからやろ。あたしには無理や。あたしは――」

 つかさの声が途切れる。
 急に立ち上がって、海側に突き出たテラスへ歩いて行った。
 慌てて後を追う夕理の前で、くるりと振り返る。
 曇った空と海と、恋人たちが柵にかけた南京錠へ背を向けて。

「あたしが、夕理のことも下に見てないと思った?」
「つか……さ……?」

 呆然とする夕理の前で、つかさはとうとう二人の関係すら棄て始めた。

「いつも助けてあげて、尊敬の目で見られて気分良かったで。
 友達のいない可哀想な夕理。
 一年で飽きたから、その後は距離を置いたけど。
 依存されない程度になら、助けてやるのもやぶさかじゃなかった」
「ま、待ってつかさ。嘘や……」

 手を伸ばす夕理を無視して、視線を落としたまま喋り続ける。



「でも最近、そういう目で見てくれなくなったよね。
 藤上さんのことといい、菊間先輩の時といい、心配するような目ばかり向けられてる。
 あたしのプライド、どれだけ傷ついてたか分かる?」
「ご、ごめ……私、そんなつもりじゃ……」
「しゃあないけどな。最近のあたし、ほんま情けないし。
 夕理から見下されるのも当たり前やな」
「そんなつもりとちゃう!」
「――もう、あたしのこと見ないでほしい」

 再び身をひるがえし、つかさは夕理に背を向ける。
 海風に乗って、泣きそうな声が耳に届いた。

「あたしを視界に入れてほしくないし、あたしの視界に入ってほしくない」
「つかさ……」
「何度も言わせないで」

 夕理の手が震え、体は崩れ落ちそうになる。
 どこかで甘く考えていた。
 万が一に部活を辞めても、友達は続けてくれると。

 でも、それすら拒否された。
 姫水やスクールアイドルと一緒に、夕理のことも切り捨てようとしている。
 目に入れるのも嫌な存在として。

(……私が部活に誘ったせいで、そこまで傷ついたのなら)
(言う通りにする以外に、私にできることなんてない……)

 つかさに背を向け、足を引きずるように歩き出す。
 視界に入れるなと言うのだから、もう振り返ることもできなかった。
 三年半の付き合いが、こんなに簡単に終わってしまうなんて。

 それでも泣くことだけは必死に堪えて、去っていく夕理の足音を背後に聞きながら。
 つかさはいつまでも、身じろぎせずに海を眺めていた。


 *   *   *


 スマホで文字を打てる程度に回復するまで、夕方までかかった。

『絶交されました』
『ごめんなさい』
『ごめん、花歩』

 夕理がどれだけダメージを受けているのか、部員たちには想像もできない。
 皆が必死に慰め励ます中、晴は自室で天井を見上げた。
 今日も四人で集まってあれこれ考えていたが、何の妙案も浮かばなかった。

(明日にはつかさは退部届を出してくる)
(ここまでなのか……)

 晴が撤退戦略を考え始めたところで、電話がかかってきた。
 この件では蚊帳の外になっている勇魚からだった。

『晴先輩、お時間ありますか!』
「ある。そっちは昨日も今日もボランティアやったんやろ? お疲れ様」
『はいっ! 姫ちゃんが一緒やったから、文化祭の疲れも何ともないです!』
(あまり酷使するなよ……つかさがいなくなったら、結局姫水が頼りなんや)

 その姫水も来年は東京に去るかもしれない。
 Westaはこれからどうなるのだろう……と頭の半分で考えつつ、もう半分で受け答えする。

「で、何の用や」
『あ、はい。帰りの電車で、姫ちゃんと話したんですけど。
 つーちゃんに、姫ちゃんの病気のことを教えるのはどうでしょう!』
(!?)

 つかさの退部の話は知らないはずなのに、何でこのタイミングで。
 と問う前に、勇魚の方から説明が続く。

『花ちゃんには文化祭の後に話したそうなんです!
 この調子でどんどん教えていったらええかなって。
 なら次はつーちゃんかなって!』
「姫水はなんて言うてるんや」
『積極的ではないけど、嫌でもない感じでした。
 なので頭のいい先輩に相談しようと思ったんです!』
(……ううむ)

 姫水の休業理由を話したところで、退部が撤回されるとは思えない。
 だが詳細は不明とはいえ、姫水が何か絡んでいるのは確かだ。
 激突させてみて、何らかの化学反応に期待するしかないのかもしれない。

「ちょっと待て。部長と相談する」
『はいっ!』

 立火の了解を取ってから、晴は後輩に望みを託した。

「いいと思う。明日さっそく話してくれ」
『明日ですか!? えらい急ですね!』
「少し事情があるんや。部活には遅れてきてええから」
『よく分からへんけど、分かりました!
 つーちゃんなら、きっと姫ちゃんの力になってくれますよね!』

 屈託なくつかさを信じている勇魚に、何も言えずに会話を終える。
 勇魚まで傷つくことにならないように、と祈りつつ。


 *   *   *


 翌日の学校は、文化祭の名残も夢のように消えた、いつもの学び舎だった。
 昼休み、つかさは退部届の用紙をもらいに生徒会室へ向かう。

(これでもう全てから解放されるんや)
(明日からは気楽に遊んで……って明日はバイトやった)
(明後日から、あたしに相応の適当で楽しい日々が戻ってくる)
(夕理やみんなは、あたしみたいなのに足を引っ張られず、まっすぐに全国を目指せる……)

 生徒会室の扉をノックしようとした時、スマホが鳴った。
 勇魚からのメッセージだ。

(なんや、結局勇魚にも話したの?)

 また引き留められるのかと、うんざりしながら画面を開き……
 その顔色が変わっていく。
 お喋りな本人のままに当を得ない文章だったが、要約すると以下の通りだった。

『今日の放課後、姫ちゃんの休業理由を聞いてほしい』

(退部のことは知らないっぽい?)
(まあ花歩は『夕理と先輩に話す』って言うたんやし……花歩なら言ったことは守るやろな)

 ならば、ただ純粋に聞いてほしいということだ。
 扉から後ずさり、廊下の端に行って逡巡する。

(今さら聞いてどうするんや。あたしと藤上さんはもう関係ないんや!)
(……でも、あたしを指名して聞いてほしいって……)
(………)
(教えてもらえば、その点では花歩と同等になれる……)

 こんな時でもヒエラルキーを気にする自分に嫌気が差しつつ。
 苦悩の末、短く返事を送る。

『ええよ。聞くだけなら』

 聞くだけだ。どうせ何も変わらないし、聞き終えたら退部届を出す。
 でも、もしも、もしも。
 姫水が抱えている困難が、自分が解決できるようなことだったら。
 大逆転で、姫水の特別になれるのだろうか……?


 科学部が今日は休みだそうで、場所は化学室を指定された。
 OGが来て居場所が崩れ始めた部屋なので、あまり良い思い出はない。
 ごくりと唾を飲み込んで、そろそろと扉を開ける。

 薬品の匂いが漂う部屋に、既に二人が来ていた。

 既に諦めたはずの想い人が、相変わらず美しく、どこか無表情で。
 そしてその幼なじみが、嬉しそうに手を振っている。

「つーちゃん、来てくれておおきに!
 晴先輩には伝えてあるから、部活は遅れても大丈夫やで!」
「ああ……うん」

 勇魚には悪いけど、もう部活は関係ないのだ。
 実験机に向かい合って座り、姫水だけを瞳に映した。
 思えば、ここまで正面切って向き合うのは、これが初めてかもしれない。
 少し固くなりながら、つかさの方から口火を開く。

「前置きはええから、話してくれる?」
「そうね。時間を取らせるのも悪いから、単刀直入に言うわね。私は――」

 姫水の綺麗な声が、放課後の化学室に流れ出した。

「全てに現実感を持てないの。
 自分を含む何もかもが、遠く壁の向こうであるように感じる」


 ずっと想ってきた相手から、とうとう明かされた真実に。
 つかさの顔は徐々に強ばっていく。


 *   *   *


(あ、あれっ?)

 話が進むにつれて、勇魚は戸惑っていた。
 姫水の口から、『病気』という単語が出てこない。
 精神病とも離人症とも言わない。
 これでは単に姫水がそういう性格であるように、つかさに聞こえないだろうか。

「性格の良い優等生として振る舞っていたのは全て演技。
 実際は何に対しても、他人事のように思ってるのが私なの……幻滅されても仕方ないわね」
(ひ、姫ちゃん、どうして……?)

 そういう病気と知れば、つかさだって幻滅はしないだろうに。
 だが姫水が言わないことを、自分が口を挟むわけにもいかない。
 勇魚はぎゅっと唇を横に結んで、とにかく幼なじみの声を聞き続ける。

「仮想を現実に変えるのが役者の仕事。現実が分からない私にはその資格はない。
 だから今はお仕事を休んでる。
 ――以上が、私の状況よ」

 話が終わり、つかさの方こそ現実感がないように、しばし呆然していた。
 ようやく口を開いて、姫水と目は合わせずにぼそりと言う。

「あたしのことも?」
「え?」
「あたしもそうなの? ドラマか何かの登場人物みたいにしか思えへんの?」
「それは……」

 口ごもる姫水を、つかさは顔を上げてにらみつける。
 勇魚が思わず身震いするほど、冷たい視線だった。

「この期に及んで嘘をつく気?
 余計な気遣いはええから、正直に言って」

 嘘つきと言われては――実際そうだったのだから――姫水もこれ以上偽ることはできない。
 諦めたように、客観的な事実を相手に告げた。


「そうね。彩谷さんに対して、私は何の現実感も持っていない。
 あなたに比べたら、まだ天名さんの方が印象に残ってる」


 つかさからは完全に血の気が失せ、頭もグラグラしてくる。
 花歩以下どころか、夕理以下だった。
 一年生の中で最下位。それが姫水の中での自分の立ち位置だった。

 それでも、何とか逃げ出さずに耐えたのは……
 一つだけ望みがあるからだ。今ここに自分がいるということ。
 それだけにすがって、机に手をつき、体を浮かせて必死に詰め寄る。

「でも、あたしに聞いてほしかったんやろ!?
 他の誰でもないあたしに! 聞いてほしいから呼び出して!」
「それは」

 さっきの今で姫水も取り繕いはせず、正直に答える。

「勇魚ちゃんがそうしろって言うから」


 つかさの体は完全に固まった。
 錆びた人形のように、ぎぎぎ、と勇魚に顔を向ける。
 その先には、憎らしいほど純粋な笑顔があって――

「だってつーちゃん、いつも姫ちゃんのこと見てたやろ?」

 満面の善意が、つかさの僅かに残ったプライドも粉々にした。

「うちも姫ちゃんばっか見てたから分かるんや!
 うちが入部してからずっと、つーちゃんは姫ちゃんをちらちら見てたで。
 きっと姫ちゃんのことが大好きなんやね!」
「そうだったの? 全く気付かなかったけど……」

 半信半疑の姫水の目からは、下を向いたつかさの顔は見えない。
 真っ赤になり、涙目になり、小刻みに震える彼女の表情は。

(何これ拷問? あたし何か悪いことした?)



 世界一好きな人から、お前に何の現実感もないと言われ。
 その当人の前で、いつも見ていたことをバラされるという。
 ここまでの屈辱と恥辱を味わわされるほどの罪を、何か犯したというのだろうか?


「彩谷さん? もし不快な思いをさせたならお詫びを……」
「謝られても意味ないやろ……。
 結局……あたしにどうしろって言うの……?」
「あ、うん」

 何とか声を絞り出したつかさに、姫水は落ち着いた声を返す。

「強い感情を見せてほしいの。プラスでもマイナスでも。
 私の壁を壊すような強い想いを……その、気が向いたらでいいから」

 およそ期待していない口調だった。
 当たり前だ。何にも熱くなれないつかさには、最も期待できないことだ。
 ただ一つ、いま胸に渦巻く黒い気持ちを除いては。

(ああ……部長さんが言ってたのって、これのことかあ……)

『中途半端に仲良くするくらいなら、いっそ思いきり嫌った方が姫水のためなのかなあ』

 マイナスでも構わないなら。
 姫水に対してできることがある。ゆっくりと机を回り込み……
 座ってこちらを見上げている彼女に、魂の全力を叩きつけた。


「アンタのことが大っ嫌いや!!」



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