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 入ったカフェの壁には、様々な抹茶椀やカップが並んでいる。
 ここから好きなものを選んで、その器でお茶を飲ませてくれるという趣向である。

「このへん何度か来てるのに気づかへんかったわ。ええお店見つけたんやねぇ」
「い、いえ、見つけてくれたのはつかさで……」

 注文後、しばらくして出てきたのは挽きたての緑茶。
 落ち着いた店内で、風雅なひとときを過ごす。
 軽食のトーストを食べながら、話はやはり部活のことになった。

「思えば去年の私は、先輩たちについていくので精一杯やった。
 遅ればせながら、今回初めて自分から動けた気がする。ほんまに遅いけどね」
「去年は仕方ないやないですか。まだ一年生やったんですから」
「でも今年の一年生は、みんな主体的に活動してるやろ?
 夕理ちゃんも、ユニットまで作るなんて大したもんや」
「ま、まあ、つかさの手伝いなだけで……」

 Saras&Vatiの活動について、夕理は楽しそうに話し始める。
 明日の体育の日も、また海遊館の前でライブをするそうだ。
 つかさと二人で曲を考えて、つかさが一生懸命練習してくれて、つかさが……と幸せそうな夕理に、小都子の目は細められた。

「夕理ちゃんは、ほんまにつかさちゃんが好きなんやねぇ」
「……はい、大好きです。
 私の片想いですけど、それでもいいんです」

 はにかみながらも言い切る後輩は、出会った頃と変わらずに一途だ。
 なのに、と小都子は少し胸がちくちくする。
 あまりにも報われないこの子の現状に。

 つかさが姫水に絡んでいるのが、要は強い執着なのは、小都子も薄々分かってきている。
 でも、どうして姫水なのだろう。
 どうしてつかさは、こんなに健気な夕理の方を向いてあげないのだろう。

(……って、あかんあかん。最初の約束を忘れたらあかん)
(つかさちゃんに向かう気持ちの七割を、私にも向けさせるんやった)

 十割は無理だし、五割は少ないと思って、あの時は七割と言った。
 現時点で何割なのかは分からないけど、十割は本当に無理だろうか。
 自分なら、いくらでも夕理を幸せにしてあげるのに……。

「先輩?」
「うん……私も夕理ちゃんくらい、誰かを好きになれたらなあって」
「小都子先輩なら、きっといい相手が見つかりますよ」
「………」
「?」

 きょとんとしてお茶を飲む後輩に、小都子は頬杖をついてにこやかに言った。

「夕理ちゃんのこと狙ってもいい?」
「ぶっ」

 お茶を吹き出しかけた夕理が、真っ赤になって抗議する。



「か、からかわないでくださいっ」
「あはは。割と本気なんやけどなぁ」
「わ、私なんかが、人に好かれるわけないやないですか……」

 思わずこぼれた本音に、夕理はしまったという顔をする。
 小都子は抹茶椀の底をじっと見ながら、沈んだ緑茶の粉を揺らした。

「そう思われるのは、少し寂しいなあ」
「すみません……。
 小都子先輩もつかさも花歩も、勇魚だって、私を大事にしてくれてるのは頭では分かってます。
 でもやっぱり、自分にそんな資格があるのか自信が持てなくて……」

 どうにも根深いものがある。
 逆にその思考のおかげで、つかさの一番になれずとも耐えられるのかもしれないけれど。
 そんなの耐えなくていいから、自分が愛されるべきと自覚してほしかった。

「分かってもらえるまで何度でも言うで。
 私は夕理ちゃんのことがほんまに大好きで、愛おしい後輩で、真面目な頑張り屋さんやって思ってるからね」
「は、はい。肝に銘じておきます……」

 ぎこちなくうなずく夕理を見て、小都子はつい不満に思ってしまう。
 皆が夕理を受け入れる中で、一人だけいがみ合っている先輩に対して。

(桜夜先輩、せめて夕理ちゃんに『可愛くない』って言うのやめてもらえへんかなあ……)


 店を出て、もてなし役の夕理は不安そうに尋ねた。

「あの、トースト思ったより小さかったですね。足りましたか?」
「デザートも食べたし十分やけど、でもせっかくの商店街や。少し食べ歩きする?」
「は、はいっ」

 近くでたこ焼きを売っていたので、八個入りを買って二人で分け合う。
 最後の一個を口に入れたところで、小都子のスマホが鳴った。
 デート中なのだから無視すればよいのだが、もし緊急連絡だったら……と、つい確認してしまう。
 そして内容を読んで、夕理に困った顔を向けた。

「桜夜先輩が来るって……」
「は!?」


 *   *   *


「や、やっほー。ええ天気やなー」

 商店街の片隅。地下鉄で飛んできた桜夜が、目の前でヘラヘラ笑っている。
 それに向けられる夕理の瞳は、もはや憎悪に近かった。

『来るなって言ってください!』
『無視して、早く図書館へ行きましょう!』

 何度も必死で訴えたのに、小都子に『まあまあ』と却下されてしまった。
 でも優しい小都子を恨むわけにもいかない。全ての元凶はこのツインテールだ。

「何しに来たんですか……」
「え!? ほ、ほら、近くに来たんやから、私に会いたいんとちゃうかなって」
「私は……ずっと今日を楽しみにしてたんです」

 ぎゅっと握った夕理の手は、悔しさに小さく震えている。

「一生懸命プランを考えて。
 勇気を出して小都子先輩を誘って。
 服だって頑張って選んだのに。
 何が楽しくて邪魔をするんですか。
 いくら私が嫌いだからって、こんな嫌がらせしなくてもいいじゃないですか!?」

 最後の方は半分泣き声だった。
 絶句する桜夜に、小都子は少し深呼吸して冷静に諭す。

「夕理ちゃん。桜夜先輩は嫌がらせでこんなことする人とちゃうよ。
 それだけは、一年半も一緒に過ごしてきた私が保証する」
「さ、小都子ぉ……」

 かばう小都子だが、とはいえ何しに来たのかは自分も聞きたい。
 感涙にむせぶ先輩に、少しの期待を込めて尋ねる。

「もしかして、夕理ちゃんに会いに来たんですか? どういう心境の変化で?」
「そ、その……昨日立火に言われて……。
 このまま卒業したら夕理にせいせいされるだけやでって……。
 三年生なら大人の姿を見せろって……」
(さすがは立火先輩や!)
(広町先輩も余計なことを!)

 小都子が感激するのに対し、夕理は内心で頭を抱える。
 悪意がないのは分かったが、厄介なことに変わりはない。
 深く溜息をついて、地面に目を落としてぽつぽつ話し始めた。

「私は木ノ川先輩が嫌いです。アホでいい加減で、尊敬できる点が全くないのに偉そうなのは最低です」
「ああ!? またそうやってケンカ売ってくる!」
「……でも、あなたを嫌っているのは私だけです」

 怒りかけた桜夜の気勢が消える。
 小都子も息をのむ中、顔を上げた夕理は無表情だった。

「現実にはあなたは周りから愛されていて、友達も大勢いる。
 逆に私は、親からもクラスメイトからも嫌われて孤立しています。
 私の方が少数派なんです」

 自分が間違っているとは微塵も思わないけど。
 人の好悪はそういうもので、そのことはずっと前から諦めていた。

「せやから……ええやないですか、私一人のことを気にしなくても。
 大勢に愛されてるなら、それで十分やないですか。
 今後は私の方も、なるべく先輩とは関わらないようにします。
 卒業したら、私みたいな後輩はさっさと忘れてください」
「夕理……」

 どう言えばいいのか分からない桜夜が、それでも何か言うのを小都子はじっと待つ。
 夕理の言う通り、相容れないなら関わらないのが一番かもしれない。
 でも後輩たちが大好きな桜夜に、そう割り切るのは簡単ではなくて……。
 かといってシリアスにもなれず、夕理が怒るのを承知で、おちゃらけた態度しか返せなかった。

「そ、それはちょっとどうやろなー。
 やっぱり愛され桜夜ちゃんとしては、一人でも私の魅力に落ちないのは許せへんねん!
 少しくらいは私のこと好きやろ!? 素直になって!」
「ああーもう!
 はっきり言わないと分からないんですか!? 邪魔やから帰れって言うてるんです!」
「せやから嫌やって言うてんの!」
「ま、まあまあまあ」

 小都子としても今日は楽しみにしていたし、夕理とのデートは捨てがたい。
 しかし桜夜が少しだけ歩み寄った、この機会を逃したくはなかった。
 先輩を信じて、正直に次の予定を伝える。

「私たちは図書館に行くんですけど、桜夜先輩はどうしますか?」
「え……」

 桜夜の苦手な場所に敢えて行ってこそ、本気が夕理に伝わるはずだ。
 逆に『おもろない。私は行かない』なんて言う人なら、ここで別れても仕方ないが……。

「ま……まあ暇やから行ってもええかな」
「ほ、本気ですか!? 図書館ですよ! 熱でもあるんですか!」
「人を何やと思ってんねん!」
「まあまあまあまあ。仲良くいきましょうねー」

 信じていた通りの先輩と、まだ半信半疑の夕理を連れて、小都子は西区へ向かう。


 *   *   *


 今年の春、大阪市から公表があった。
 席が空いている場合は、図書館を自習に使っても構わないと。

 大阪市立中央図書館は、自治体の図書館としては全国最大級。
 地下一階から三階まである建物で、小都子たちは最上階に席を確保した。

「では私は、資料を借りてきますね」
「うん。私は問題集を持ってきてるから」

 静かな館内で小声でやり取りし、夕理は大阪コーナーへ向かう。
 いくつもある本棚に、大阪と近畿に関する本が大量に集められている一画だ。

(神戸戦ではFFFが外れて、もっと大阪らしい曲を入れることになるやろな)
(なにわLaughingとは別方向で、何か考えないと……)

 そして問題集とノートを広げる小都子に、手持ち無沙汰の桜夜が耳打ちしてきた。

「私は何をしたらええの?」

 ならヤングコーナーに漫画が……と言いかけて、甘やかしたらあかんと思い直す。

「勉強しましょうよ。ついでに夕理ちゃんにいいところを見せられて、一石二鳥でしょう?」
「うう、しゃあない……。じゃあ参考書探してくる」

 普段来ない場所なだけに、桜夜はきょろきょろしながら下の階へ降りていく。
 しばらくして戻ってきた二人とともに、小都子は学習に打ち込んでいたが……。
 桜夜の忍耐力は十五分で切れ、ツインテールの端を持って後輩の頬をくすぐり始めた。

「ね~小都子~。ヒマや~、構って~」
「せ、先輩。くすぐったい……」
「~~~~~っ!」

 また血圧の上がった夕理が、ノートにきっちりした文字を書く。

『邪魔するんやったら帰って!』

 ネタと思って喜んだ桜夜が、汚い字で返した。

『おっ、新喜劇?』
『ただの本心や!』
『桜夜先輩、二時間だけ頑張りませんか?』

 小都子の綺麗な字が、なだめるように提案する。

『それが終わったら、三人でどこかへ遊びに行きましょう。
 夕理ちゃんもええやろ?』
『そんな』
『お願い。こういうご褒美がないと、桜夜先輩は動かへんねん』

 全くその通りや、とうなずいている桜夜にイラっとするが、そう言われては仕方ない。
 そもそも今日のデートは、小都子を激励するために行っているものなのだ。
 自分の好き嫌いは押し殺し、渋々了承する。

『本当に二時間勉強できるんでしょうね』
『いけるいける。夕理にいいとこ見せたるから』
(せやから私のことでなくて自分の受験を……ああーもう!)


 *   *   *


 桜夜は耐えた。
 後輩と遊ぶため、二時間必死で勉強したのだ。
 図書館の外に出て、空に向かって全力で叫ぶ。

「終わったーー! これで受験はばっちりや!」
「そんなわけないでしょう! たかが二時間で!」
「あはは。三人で遊ぶなら、どこがええかなあ」

 考え込んだ小都子が、地下鉄への階段前で尋ねる。

「夕理ちゃん、ボウリングなんてどう?」
「それなら弁天町に大きいのがあります」
「ええなっ! 体動かしたーい!」

 うきうきの桜夜とともに地下鉄へと乗り込んだ。
 乗り換え含めて三駅で弁天町。
 地元に先輩たちが来ているのは、夕理としては何だか変な感じである。

(というか木ノ川先輩、私が一緒で楽しいんやろか……。私は帰った方がええんとちゃうか……)
「ほら夕理ちゃん、行こ行こ」

 背中を押す小都子は、当然二人には仲良くなって欲しいのだろう。
 桜夜は何も考えず楽しそうにしている。
 仕方なく、一ゲームだけとボウリング場へ向かう。

 受付を済ませ、靴を履きながら小都子は思い出す。
 なぜボウリングなのかといえば、立火と桜夜に連れて行ってもらったことがあったからだ。
 去年の春、一生懸命先輩風を吹かせる桜夜は、当時から可愛かった。
 その時にいた一年生三人は、もう辞めてしまったけれど……。

「夕理ちゃんは来たことはあるの?」
「中一の時に。つかさと何度か遊びました」
「ほんまつかさばっかやなー。さ、始めるで。当然年上の私から!」

 そこは一年生ファーストにしておけば株も上がったのに……と、小都子は内心もどかしい。
 現に夕理は冷めた目で見ている。

(顔しか取り柄のない先輩のくせに、ボウリングなんてできるんやろか)

 と思いきや、その投球フォームは一瞬見とれるほど綺麗で……
 カコーン!
 ピンを九本倒し、ボールはピットに吸い込まれた。
 ガッツポーズの桜夜を見ながら、小都子は後輩に耳打ちする。

「私たちより一年、二年長くスクールアイドルを続けてきたんやからね。
 さすが体幹もバランス感覚もしっかりしてはるね」
「わ、分かってます……」

 これでも三年間頑張ってきた人なのは、夕理も分かってはいるのだ。
 だから普通にしていれば尊敬しなくもないのに、すぐ調子に乗ってドヤ顔をしてくる。

「ふふーん、これは楽勝やな。私が勝ったらちゃんと敬うんやで」
「逆に私が勝ったらどうするんですか」
「えっ……チューしてあげる……」
「いりませんよ!!」
「姫水は喜んだのに」
「藤上さん……もっとまともな人やと思ってた……」

 二人のやり取りに、小都子は腹を抱えて笑っている。
 続いて投げた夕理は、端の三本しか倒せなかった。

「やっぱりちょっとブランクあるかな?」
「そうですね……」
「ドンマイドンマイ! 小都子、頑張れー」

 桜夜に慰められて複雑な顔の夕理に、小都子は微笑みながらボールを構えた。

 完璧に並んだ十本のピンは、夏の予備予選の桜夜を思い出す。
 最高に可愛かったSupreme Love。次のセンターはあれと比べられるのだろう。
 天才でもない自分たちには、一年の差はそのまま実力の差なのかもしれないけど……

(――でも、いつか先輩を越えるのが、後輩にできる恩返しや)

 それが今回なのかはともかく、そのつもりで挑まないと。

「私は……」

 レーンに向かって小都子の足が踏み出す。

「Westaの……」

 ボールを持った手が大きくしなる。

「センターやあああ!」

 勢いよく転がったボールは、快い音とともに全てのピンをなぎ倒した。

『ストライーク!』

 二人の声がハモり、桜夜は嬉しそうに夕理を見て、夕理は照れくさそうにそっぽを向く。
 元気いっぱいの桜夜は、叫びながら第二投を放った。

「私はこの前センターやった!」

 そのままストライク!

「私も来年は、絶対センターになります!」

 夕理のピンは二本だけ残るが、次こそは!と気合を入れ直す。
 親・子・孫、三世代の三人が一緒に遊ぶのは、たぶんこれが最初で最後。
 賑やかに騒ぎながら、スコア表は少しずつ埋まっていく。


 *   *   *


 二人を駅まで送ってから、夕理は小都子だけに頭を下げた。

「今日は計画通りにならず残念でした。次こそ完璧なデートにしましょう」
「私はほんまに楽しい一日やったよ。センター、おかげでやり遂げられそうや」
「な、ならいいんですが」

 そして夕理の目は、隣で気まずそうにしている人へ向く。
 乱入して好き勝手した上、ボウリングでは空気を読まずにトップを取った先輩に対して。

「今回は大目に見ますけど、二度とないようにしてくださいね」
「ま、またまたー。夕理も何やかんやでボウリング楽しんでたやん」
「どうして素直に謝れないんですか!」
「まあまあ……それじゃ夕理ちゃん、今日はありがとうね」
「はい、こちらこそ!」

 帰っていく夕理を二人で見送る。
 その姿が見えなくなったところで、桜夜はしゅんとうなだれた。

「小都子……今日はほんまにごめん……」
「いえいえ。何度でも言いますけど、楽しい一日でした」
「私、やっぱり夕理に嫌われたまま卒業するのかなあ」
「まだ五ヶ月もあるやないですか。諦めずに頑張りましょうよ」
「んー……でも無理強いはお互い良くないし」

 言いながら、桜夜の手がスマホを点ける。
 ゲームが終わった後、レーンを背に三人で撮った写真。
 夕理の表情はぎこちなかったけど、一応これでも笑っているのは、今の桜夜なら理解できた。

「……この写真だけで、思い出としては十分や」



 小都子が何も言えずにいる間に、桜夜は顔を上げて明るく尋ねる。

「ねえねえ。私が来る前に、二人で私の話とかしてた?」
「あ、はい。夕理ちゃんは相変わらずでしたけど」
「そっ、か……」
「でも先輩のことを誉めてた女の子もいましたよ。橘小都子っていうんですけどね」
「ほんまっ!? 具体的にどんな風に!?」
「え……」

 記憶をたどり、小都子の顔が青くなっていく。
 わくわくしている先輩に、黙るわけにもいかずしどろもどろに答えた。

「見ていて楽しいって……」
「うんうん! それから?」
「ち、ちょっと語弊がありますけど……」
「うん?」
「私もあんな風にアホになれたらって……。いい意味でですよ!」
「語弊しかないわ! アホて!!」
「すすすすみませええんっ!」
「うー……ま、ええけどね。それで私を好きになってくれるなら」

 桜夜はにぱっと笑い、後輩の右側に揺れる髪へ手を添える。

「この髪型もええけど、もう少し色々試したいところやな」
「そうですね。本番まではまだ時間がありますから」

 触れた手に自らの手を重ねながら。
 世界で一番可愛い人を、小都子は心から信じて頼った。

「先輩。どうか私を、最高に可愛くしてくださいね」
「――任せて!」

 本当に嬉しそうな、少し泣き出しそうな、そんな先輩が改札へと向かう。
 慌てて追いかける小都子に、弾むような声が届く。

「私もJRで帰る」
「え、先輩は地下鉄じゃ……」
「ええの! そんな気分なの!」
「……はいっ」

 離れがたいのは小都子も同じだった。
 それでも電車の行き先は逆方向で、またすぐに別れるのだけれど。
 自分が乗る車両が入ってきたのを見て、桜夜はぽつりと言った。

「言えた義理とちゃうけど、去年、辞めないでくれてありがとうね。
 小都子が私の後輩で良かった」
「桜夜先輩……」

 胸が詰まり、小都子は先輩の隣にそっと並ぶ。

「私も外回りで帰ります」
「え!? めっちゃ遠回りになるで!?」
「そんな気分なんですよ」

 二人で笑い合って、環状線に乗り込む。
 それでもいつかは、別れなければならないのだけれど。
 今はもう少し、あと少しだけ一緒にいよう――。


 *   *   *


 その日の夜。勉強中の立火に、夕理から抗議の電話がかかってきた。

『広町先輩が余計なことを言うから、デートに乱入されました』
「え、あいつ今日突撃したの!?
 ほんまに単細胞やなぁ……。ごめんごめん、桜夜も悪気はないんや」
『分かってます』

 一瞬、言葉に迷っていた夕理だが、意を決したように気持ちを伝える。

『悪い人でないのは分かっています。
 でも先輩なんやから、もっとしっかりして欲しいです。
 受験のことだって本当に心配なんです!』
「うん」
『……ということを、さりげなく伝えておいてください』

 立火は思わず吹き出した。
 それが電話の理由だったのだ。

「そんなん直接言うたらええやろ」
『嫌ですよ恥ずかしい! あの人、絶対調子に乗りますし!』

 はいはい、と承ってから、姿勢を崩して軽く尋ねる。

「それで、結局デートはどうやったん?」
『……小都子先輩は喜んでいたので、それでいいです。
 あの、今さらですけど、私は小都子先輩を心から尊敬しています』
「そうやな。私にとってもできた後輩や」
『それと……広町先輩のことも、部長としては一応信頼してます』
「え、そうなの!? いやあ、めっちゃ嬉しいで」
『なのでっ! サブセンターとして、必ず小都子先輩のライブを成功させてください』

 立火の呼吸が一瞬止まる。
 改めて居ずまいを正すと、しっかりと請け負った。

「ああ、約束する。絶対に最高のライブにするで」
『――夜分にすみませんでした。お休みなさい』
「お休み、夕理」

 電話を切って、壁のカレンダーを見上げる。
 予備予選まであと三週間、投票期間を経て、結果発表の時はもう十一月だ。
 後悔しないように。
 砂時計のように減っていく残り時間。自分も桜夜も、決して後悔しないように生きないと。



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