(1) (2) (3) (4) 一括







【1/29】

 香里は今日もお昼抜き。
 祐一はなんだか苦しそうな顔をしている。
 あっちもこっちも状況は悪くなるばかりで、でもわたしは部外者だから原因は分からないまま。いっそ全部忘れて何もしないでいようかとも思った。
(――けど、そういうわけにもいかないよね)
 今日は部活が休みだし、何かできるとしたら今なんだけど…祐一は放課後になるなり飛び出していってしまった。
 香里は心配だけど、真琴も心配だよ。どうしようか…。
 あれ?
(ま、真琴?)
 一瞬見えた気がして窓際に駆け寄ると、確かに校門のところに真琴がいた。力を振り絞って、迎えに来てくれたように見えた。
 振り返ると、香里が鞄を手に通り過ぎていく。
 とっさに、その腕を掴んでいた。
「香里っ!」
「な、何よ」
「帰りに百花屋に寄るから。付き合って」
「あたしは、食欲が…」
「甘い物は別腹っていうよっ」
 強引に香里の腕を引いて校門へ行く。
「真琴、お待たせ」
「あぅ…」
 真琴は香里を見て、わたしの後ろに隠れてしまう。
「誰?」
「真琴っていうんだよ。うちにいる子。真琴、この子は香里で、わたしの友達だよ」
「ともだち…」
「ま、よろしくね」
「うん…」
 三人で並んで商店街へ向かった。ほとんどわたし一人で喋ってたけど…。
 でも百花屋に入ると予想外。祐一が、彼女と一緒にテーブルに座ってる。
 ど、どうしよう。
 わたしは平気だけど。本当に平気なんだけど、真琴にこんな光景を見せていいんだろうか。
「あ、真琴」
 でもわたしの心配を知ってか知らずか、真琴はさっさと祐一のテーブルに行ってしまった。
「あれ、真琴。何でこんなとこにいるんだ?」
「お知り合いですか?」
「ああ、真琴っていう…」
「祐一〜」
 仕方ないので、わたしたちも声をかけて同席させてもらう。
 女の子は栞ちゃんといって、可愛い子だった。
 ジャンボミックスパフェデラックスが運ばれてくる。イチゴサンデーは中止して、そっちをみんなで食べることにした。先に約束を残しておくのは、今はいいことだと思うから。
 けど、真琴はもうスプーンも持てず、わたしが食べさせてあげる。
 奇異の視線を向けられるんじゃないかって、こわごわ顔を上げると、そんなことはなくて栞ちゃんは心配そうだった。
「ち、ちょっと手の調子が悪いんだよ」
「ええと…ご病気ですか?」
「ううん、病気じゃないんだよ。お医者さんは何ともないって言ってたし」
「そうですか。それなら良かったです」
 栞ちゃんは心底安心したように息をついた。優しい子なんだ。祐一にお似合いの。
 それから会話があって、その流れの後…
「栞は、あたしの妹なんだから…」
 その香里の言葉で、小さな会合は終わった。

 香里に急かされて、店の外に出る。
「香里…」
「ごめん、今は何も聞かないで。そのうち話すから」
「うん、待ってるよ」
 真琴は不思議そうに香里の顔を見ていたけど、歩き出そうとして転びかけ、慌ててわたしが支える。
「あぅ…」
「大丈夫? 調子悪そうね」
「うん…ちょっとね」
「今日はもう帰りなさいよ。買い物に付き合うのはまた今度でいいから」
「そうするよ。ごめんね」
「馬鹿ね」
 ありがとう、と小さく言って、香里は行こうとする。
「香里」
「元気よ」
 振り返った香里の顔は、昔の強気で堂々とした香里のものだった。
 肩の荷がひとつ、下りた気がした。


 家に帰って、わたしの部屋に行く。
 真琴はベッドに座って、ぴったりとわたしに寄り添っていた。わたしも今は、真琴のことだけ考えよう。
 改めて見回すと、何の娯楽もない部屋だ。
「そうだ。お絵描きでもしよっか」
 悲しいけど、今の真琴にできることはそれくらいしか思いつかない。ロッカーの奥を探す。確か昔使ったスケッチブックが…
「…あった」
 真琴の前に置いて、さらに昔使ったクレヨンを探す。ようやく見つけて振り返ると、真琴がスケッチブックを広げていた。
「あ…」
 紙一杯に描かれた、ウェディングドレス姿のお嫁さんの絵。
「あ、あはは。恥ずかしいよ〜」
 まだ小さかった頃の、下手くそな、でもいつかこんな未来が来るって、何の根拠もなしに信じていた絵。
 自分では直視できないそれを、真琴はじっと見て、ぽつりと言った。
「けっこん、したい…」
「え…」
 わたしも我慢して絵を見てみる。直視できないどころか、丸めて捨てたくなる。
「そ、そうだよね。女の子の憧れだもんね」
「そうしたら、ずっといっしょにいられる…」
 息をのむ。祐一はまだ帰らない。
 隣の部屋には誰もいない。わたしは…
 自分でもよく分からないまま、俯いて謝っていた。
「ごめんね…」

 祐一はもちろん悪くない。栞ちゃんも悪くない。ただ。
「真琴もわたしも、祐一と結婚はできないんだよ…」
 ただ、どんなに想っても願っても、叶わないことはあるというだけ。
 七年間、そんな風に考えて生きてきたわたしの、その頬に…
 真琴はそっと手を添えて、言った。

「――なゆきと」

 押さえきれなかった。
 見開かれたわたしの目から、ぼろぼろと涙がこぼれだす。
「うん…」
 ずっとわたしの中に、澱のように沈んでいたものが、浄化されていく気がした。
「うん…。そうだね、真琴…」
 泣き笑いのまま、真琴を抱きしめる。真琴も嬉しそうに抱きついてくる。
 わたしを必要としてくれている。
 やだ。離れたくない。
 一瞬の奇跡だなんて、思いたくない。
 その夜は、真琴を抱きしめたまま一緒に眠った。
 温もりを求めているのは、わたしの方なのかもしれなかった。


【1/30】

 いっそ休もうと思ったけど、お母さんに窘められて学校に行った。
 土曜日だから、授業は午前中で終わる。それまでの我慢。
 部活は…。
「珍しいわねぇ。水瀬さんが休みなんだて」
「その、どうしても外せない用事があって」
「いいのよ。いつも真面目に出てるんだから、たまにはね」
 顧問の先生に頭を下げる。ごめんなさい先生。ごめんみんな。今日だけは許してください。
 授業が終わると同時に、ダッシュで外に出る。隣を祐一が走っている。
「祐一も?」
「ああ、外せない用事だ」
「わたしもだよ」
「…俺の方は、もうすぐ終わりだから」
 え…。
 思わず立ち止まっている間に、祐一は先に行ってしまった。
 わたしも、もうすぐ終わりなんだろうか。
 ぶんぶんと頭を振って、走りを再開する。
 家に着いて階段を上がろうとすると、着替えてきた祐一と鉢合わせした。
「誰もいないみたいだぞ」
「二人で買い物かな?」
「かもな」
 一息ついて、祐一を見送ってから、念のため真琴の部屋のドアを開ける。

 ――部屋は、もぬけの殻だった。


「あ、あれ…」
 真琴がいないだけじゃない。
 漫画や、お菓子や、真琴のものは全部消えていて、布団は部屋の隅に折り畳まれている。
 …お、大掃除。うん、大掃除でもしたんだよ。
 自分に言い聞かせながら自室に入ると、机の上に何か置かれているのが見えた。
 手紙…?
『名雪へ』
 顔から血の気が引いていく。
 震える手で手紙を取ったとき、背後で扉が開いた。
「名雪…!」
「お、お母さん?」
 そこらを走ってきたみたいに、息を切らせている。慌てているお母さんなんて、初めて見た。
「真琴は? 帰ってない?」
「う、うん。いないよ…」
「ああ、どうしたのかしら。お昼の準備をしている間に、姿を消してしまって…名雪!?」
 お母さんの話が終わる前に、わたしは家を飛び出していた。

 一直線に走る。こういうとき、長距離選手でよかったと思う。
 ものみの丘へ。
 あの場所しか考えられず、でも、外れてくれればいいと思ってる。
 途中で信号に引っかかって、待っている間に握ったままの手紙を広げた。
『名雪へ』
 うまく動かない手で書かれたそれは、読むのに少し苦労しそうだ。
 そして一見して、上の方が漢字が多く、下へいくにつれてひらがなばかりで、字も崩れている。
 何日かかけて書かれたのかもしれない。
『ごめんなさい。真琴はやっぱりキツネだったみたいです』
(………)
 もう、わたしにそれを否定する力は残っていなかった。
『これ以上ごめいわくはかけられないので出ていきます。おせわになりました』
「ばかっ…」
 思わず声が漏れるけど、手紙には続きがある。
 青になったので走って、次の信号でまた読む。
『出ていけませんでした。このうちにいたいです』
 前の文から少し空けて、さらに崩れた字でそう書かれていた。
 この文を書くまでの間、何を考えていたんだろう。
 何度も出ていこうとしたんだろうか。
『なゆきへ ありがとう なゆきはかんけいないのに、ふくしゅうあい手のいえにいた女の子だってだけなのに、まことにとてもやさしくしてくれました なゆきのおかげでしあわせでした』
(幸せだったのは、わたしの方なのにっ…)
『あきこさんとぴろと、ついでにゆういちにおれいをいっておいてください まことのことはわすれてください』
 走る。そんなお願い、聞けるわけない。
『なゆき』
 手紙の最後は、わたしの名前が三つほど続いて、あとは読みようのない線が書き付けられていた。
 わたしの名前だけを、必死で書いてたんだ。
 それだけは忘れたくなくて。
(真琴っ…!)
 半泣きになりながら山に突入し、一気に山道を駆け登った。
 視界が開ける。
「真琴!?」

 広がる草原に、一瞬、真琴が倒れているように見えた。
 けれど駆け寄ってみると、それは真琴の服だけだった。そして――
 その中に、小さな狐が横たわっていた。

「う――そ」
 この期に及んでも、まだ目に映るものが信じられなかった。
「ま…こと…?」
 震える手で、狐の体を抱き上げる。
 少し開いた瞳に、わたしの顔が映った。
「真琴っ! ねえ、しっかりしてよ真琴っ!」
 温かい体温が、急速に冷えていく。弱々しく、わたしの顔に手を伸ばそうとして、そして動かなくなる。
「じ、獣医さんに…!」
 身を翻して、山道を下りようとする。けれどその前に、真琴の体が淡く光り始める。
「な…! ま、待ってよ真琴っ…!」
 光の粒になって消えていく。そんな非現実的な光景。
 お医者さんにも獣医さんにも、どうにもできそうにない。どうしよう。誰に助けを求めればいいの。
「お…お願いしますっ!」
 わたしは思わず、丘に向けて叫んでいた。
「真琴を助けてください! まだ足りないんです。イチゴサンデーも一緒に食べてない。もっともっと、楽しいことはたくさんあるのに…!」
 他に思いつかず、この丘の住人、ものみの丘の妖狐たちへ。不思議な力の持ち主へ懇願する。
 その間にも、真琴の体は消えていく。
 わたしには何もできない。
「お願い…します…」
 真琴が跡形もなくなり、その場に座り込んだ後も、わたしはただ頭を下げ続けた。


 泣きながら真琴の服を集めていると、背後に人の気配がする。
「結局、こうなってしまったようですね」
「天野さん…」
 悲痛な面もちで、天野さんが佇んでいた。
「…ごめんね。この前は信じなくて」
「お気になさらないでください。普通は信じません」
 天野さんは軽く頭を振り、真琴の服を見る。
「それでも、あの子は十分幸せだったと思います。目的も果たせず消えてしまうところを、あなたのお陰で人の温もりを知れたのですから」
「そんなことないよ…。全然、足りなかった」
 もっと色んなところへ行って、色んな話をしたかった。
 ずっと一緒にいてほしかった。
「…帰ろう、天野さん」
「大丈夫ですか」
「うん…。お母さんが心配してるから」
 思考が停止したように、機械的に山を下りる。
 道路に出たとき、現実に戻ってきてしまったんだと、そう思った。
「ねえ。何か方法はないのかな。真琴が帰ってくる方法…」
「命を犠牲にしたのです。酷なようですが、それは無理というものです」
「うん…」
 丘を見上げる。
 不思議な出来事の後で、丘は変わらぬ姿を見せていた。


【2/1】

 翌日、正確には翌々日の深夜に、祐一が雪まみれになって帰ってきた。
「おかえり。何か食べる?」
「ああ…いや」
 その手には一冊のスケッチブック。
 玄関に座り込んだ祐一の頭から、わたしはそっと雪を払い落とす。
「俺さ、栞と別れてきたんだ…」
「…そう」
 絞り出すような祐一の声。それが引っ越しや喧嘩別れなんかじゃないのは、わたしにも分かった。
「わたしも、真琴とお別れしたんだよ」
「ああ…。あいつ、いなくなったのか…」
「うん…。でも、いつかまた会えるよ」
 この一日、真琴のいない時間を過ごして、わたしはそう考えることにした。
 だって、不思議な出来事だったんだから。
「いつになるか分からないけど、わたしはそう信じてるよ」
「そうか…。俺はそんな風には思えないな」
 道が違うのは仕方ない。わたしと祐一は別の人間だし、状況も違うから。
 でも、前に歩くという点では同じでいられるようにできると思う。
 …わたしたちは家族だから。
「コーヒーでもいれようか」
「…ああ、頼む」
 もう2月。
 春まで、あと少しの辛抱だった。



【Epilogue】

 街中で、時々ぴろを見かけるようになった。
 嬉しくて抱きついてたけど、くしゃみを浴びせられるのが嫌になったのか、最近はわたしの顔を見るなり逃げ出している。とっても悲しいよ…。
 そしてわたしは二年生最後の月に入り、部活のない日は一年生の教室に行った。
「美汐ちゃーん」
「またですか…」
「うんっ。今日こそは付き合ってもらうよ」
「…仕方ないですね。一度行かないと諦めそうにもないですし」
「わ、来てくれるの? やったよ〜」
 ようやく美汐ちゃんを連れ出すことに成功して、話ながら商店街へ向かう。
「そこのイチゴサンデーがおいしいんだよ」
「私は和菓子の方が好きなのですが」
「まあまあ、本当においしいんだから。いつか食べに行こうって、真琴とも約束してるんだよ」
「……」
 楽しそうに真琴の話をするわたしを、美汐ちゃんは不思議そうに見つめた。
「まだ、あの丘に行っているのですか」
「…うん」
「お気持ちは分かりますが、真琴はもう…」
「そうとは限らないよ」
 祐一なら潔く現実を受け止めるのかもしれないけど。結局わたしは、諦めの悪い人間なんだと思う。
 振られた相手を、七年間も好きでい続けるような。
 それを溶かしてくれた真琴だからこそ、今度は自分の意志で諦めないことにした。
「狐さんにお願いしてるんだよ。妖狐の力で、真琴が帰れるようにしてくださいって」
「狐さんにお願いって…。童話やファンタジーではないのですよ?」
「童話やファンタジーだよ」
「……」
 ことあの丘に関する限り、わたしはその世界に足を踏み入れた。
 そこは常識や理屈が通用しなくて、それならもう一つくらい、不思議なことが起こるかもしれない。
 もちろん起こらないのかもしれないけど、半々なら信じるのに十分だよね。
「そうですか。私はそんな風には考えられずに、ただ絶望してしまいましたが」
「美汐ちゃん…。で、でも今からでも」
「良いのです。私の方は、長すぎる時間が過ぎてしまいました。今はせめて…私も、真琴が戻ることを祈ることにしましょう」
 そう言って、美汐ちゃんは少しだけ微笑んだ。
「水瀬さんには強くあってほしいと願っていたのですが、願う必要もなかったようですね」
 笑顔で答える。
「わたしは、脳天気だからね」

 そして休日には丘へ登る。
 草原の片隅に小さな社があったので、油揚げをお供えして柏手を打つ。
 どうか、真琴にもう一度人間の姿を与えてください。
 それから虫のいいお願いですけど、もし不思議な力に余裕があったら、祐一や香里や栞ちゃんや美汐ちゃんや、みんなが幸せになれるようにしてください。
 丘の上から街を見る。
 すっかり雪は溶けて、ここからも人の営みが見えるような気がしてくる。
 真琴が憧れるのも無理はない。ううん、憧れてくれてよかった。

 桜が少しずつ開いて、人々の心を沸き立たせる頃。
「祐一〜、どこ〜」
 学食でAランチを受け取って、先に行った祐一を探していた。
 いないよ…。外にでも行ったのかな。暖かくなってきたし。
 お盆を持ったまま渡り廊下に出ると、香里が何か見ている。
「香里?」
「あ…名雪」
 見ていた先は中庭。
 栞ちゃんが、祐一に抱きついて涙を流していた。
 それを見ても暖かいままでいられたのは、やっぱり真琴のお陰だと思う。
(良かったね、祐一)
 香里がわたしの顔を覗き込む。
「姉としては嬉しいけど…。名雪は本当に良かったの?」
「え、なんで? 二人とも幸せそうだよ」
「…そ」
 香里は手を伸ばして、ちょんとわたしの額をつついた。
「名雪は、きっと幸せになるわよ」
「そ、そうかな」
「当たり前じゃない。名雪みたいないい子は、そうならないとおかしいわ」
 照れくさくて、はにかみながらお盆を掲げる。
「香里はお昼まだ? 一緒に学食で食べようよ」
 わたしの提案に、香里は笑いながら言った。
「イチゴのムースはあげないわよ」


 満開を過ぎると、桜はどんどん散って、雪のかわりに道を覆う。
 その光景を見ると、さすがに寂しくなった。
(真琴、もうすぐ春が終わっちゃうよ…)

 本当は、不安がないわけじゃない。
 もう戻ってこないのかもしれない。あれでお別れだったのかもしれない。
 それでも、人知の及ばない出来事だったから、それだけを希望に道を歩く。
 どんな想いも叶う日がくるって、そう思わせてくれた女の子のことを考えながら。

 いつの間にか、あの時の歩道橋に来ていた。

 足下を風が吹き抜けて、そして、光の粒がきらめいた気がした――


「な… なゆきっ!」


 ――振り返る。
 あの時のまま。
 いなかった時間が嘘みたいに、真琴がそこにいた。
「え、えっと…。あたしのこと、まだ覚えてる…?」
 忘れるわけ、ないよ…。

 涙を抑えながら、待ち望んだ相手に手を広げる。
「おかえり、真琴」
 一瞬喜んで、でも真琴は、少し躊躇した。
「あ…。それ、あたしの名前じゃなかったから…」
「でも、この名前好きなんだよね?」
「う、うん…」
「じゃあ、真琴だよ」
「うんっ…!」

 そして、真琴はわたしの胸に飛び込んでくる。
 確かな温もり。想いを感じて、強く、強く抱きしめる。
「真琴」
「あうぅっ…」
「泣いてる?」
「泣いてないっ…」
「そう…」
 ――わたしは、泣いてるよ。

「あはははっ」
 久しぶりの街がよっぽど嬉しいのか、真琴は手を広げてくるくる回っていた。
 春の陽が、光の雫になって飛び散っているみたい。
「真琴〜。待ってよ〜」
「もう、名雪って相変わらずぼーっとしてるわねっ」
「うー。そんなことないよ」
「ほんと、真琴がついてないと心配でしょうがないんだからっ」
 ふんと胸を反らして偉そうに言う真琴に、わたしは思わず吹き出してしまう。
「あーっ、何よぅ」
「何でもないよっ」
 言ってから、真琴の顔をじっと見る。
「狐さんって人間になるんだねぇ」
「あぅ…。そのことは深く突っ込まないでよぉ」
「うん。でもわたし、狐さんも大好きだよ」
「あ、あぅ」
 真琴は赤くなりながら、わたしの隣に来て手を繋いだ。
 その時…
 頭上に咲いた桜から、僅かに残った花びらが舞い降りてくる。
 小さな妖精か何かのように。
「――これが、春なんだね」
 手で受け止めて、真琴が呟く。
「うん。これが春だよ」
「終わっても、何度でも来るんだよね」
「うん。何度でも」
「次の春も、名雪と一緒だよね」
「そうだね。真琴がずっと、わたしと一緒にいてくれるなら」
「い、いるわよ。名雪が、指切りしてくれるなら」
 差し出された小指に、自分の指を絡める。二人で笑いながら。
 不思議。狐だった女の子が、たまたまわたしと出会って、こうして約束している。
 こういうのを、何て言えばいいんだろう。
 うん。<奇跡>。
 やっぱり、そう呼ぶんだろうね――。









<END>







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