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この作品はPCゲーム「Kanon」(Key)の世界及びキャラクターを借りた二次創作です。
真琴シナリオ、名雪シナリオ、栞シナリオのネタバレを含みます。













 
 
 
 
 
 
 
少女と不思議の変奏曲













【1/19】

 祐一はまだ帰らない。
 今日の午後は舞踏会の準備で休み。商店街に寄ってから帰宅したけど、いとこは家にいなかった。何か大事な用事があるんだと思う。誰か、かもしれないけど。
 それはいいんだけど…
「あぅ…」
 一瞬だけ目が合うと、その子は逃げるように居間を出ていった。
 真琴。
 少し前からうちにいる、記憶喪失の女の子。仲良くなろうとはしたんだけど、今みたいに避けられてばかりで果たせずにいた。
(…わたしも、かな)
 最近は、少し避け気味だったかもしれない。あの子が興味あるのは祐一だけだって、何となく気づいていたから。
 でも、今は祐一は家にいない。手持ちぶさたで、何をしていいか分からない。
(…わたしも)
 …ううん、そんなことないんだけどね。
「名雪」
 と、お母さんが部屋から出てきた。
「悪いんだけど、お買い物頼まれてくれるかしら」
「うん、いいよ」
「袋の中にメモが入ってるから。それじゃ、お願いね」
 財布とメモの入った買い物袋を手渡される。じゃあ行ってきます…と言おうとしたところで、はたと頭にそれが浮かんだ。
 誘ってみよう。同じ家に住んでるのに、このままじゃ寂しいしね。
「ねえ」
「わあっ! …な、何よぅ」
 廊下でぼんやりと外を見ていたその子は、飛び上がってから警戒気味に後ずさった。人見知りする子だなぁ…。笑顔笑顔。
「これから買い物に行くの。手伝ってくれないかな?」
「え…。えと、その…あうぅ…」
 しばらくもごもごと口ごもってから、いきなり廊下の端まで走っていって、くるりとこちらに振り返る。
「ふ、ふんだっ。何であんたなんか手伝ってやんなきゃいけないのよぅ。やーいばーか」
 あっかんべーと舌を出されて、わたしは笑顔のまま、額に青筋を浮かべてたと思う。
「おかーさーん。今日の夕ご飯はわたしが作るよー」
「あらそう? 悪いわねぇ」
「うん。紅しょうがまんを食べたいって子が一人いるからー」
「………。ええっ!?」
 自分のことだって気付いたらしく、大慌てで近づいてきた。
「ちちちょっと待ちなさいよっ! なによ紅しょうがまんって!」
「そりゃあ名前からして、肉まんの肉のかわりに紅しょうがが詰まってるんじゃないかな」
「冷静に答えないでよっ! そんなもの食べられるわけないでしょーっ!」
「そんなことないよ、おいしいかもしれないよ。食べたことないけど」
「あう…。分かったわよ、手伝うわよぅ…」
「うんうん。それじゃ行こっ」
 渋々頷く女の子の背中を押すようにして、わたしは晴れた冬空の下に出た。

 並んで歩く予定だったんだけど…
 相手は数メートルの距離を保ったまま、びくびくとこちらを窺っている。
「そ、そんなに脅えないでよ〜」
 ちょっと意地悪すぎたかなぁ…。
「肉まん買ってあげるから。ね?」
「ほんとっ!?」
 少しだけ距離が縮まる。こういうところは素直みたい。
「そういえば、熱は下がった?」
「うん…平気。秋子さんが看病してくれたから」
「そう」
 先週末に熱っぽい顔で窓の外を見ていたのを、わたしが気付いて、お母さんに頼んだんだった。
 何で自分で看病しなかったんだろうって、少し罪悪感。
「いつまでも居ていいからね」
「う…うん…」
「きっと祐一もそう思ってるよ」
「べ、別に祐一なんてどうでもいいわよっ!」
 ぷんと顔を背けて早足で行ってしまう後を、わたしは苦笑してついていく。
 商店街に到着。一人で買い物するより、二人の方が当然楽しかった。
「あ! これ何!?」
「えーっとね…」
「わーっ! お菓子がいっぱいあるーっ!」
 ち、ちょっと恥ずかしいけど…。
 約束通り肉まんを買って、一緒に食べてから帰途につく。荷物は二人で半分ずつ。
「また来ようね」
「う…。ま、まあどうしてもって言うなら手伝ってやるわよっ」
 ありがとね、って笑おうとした。
 …けど、そこでわたしの足が止まる。
「? どしたの?」
「ねこー…ねこー…」
 ねねね猫さんがいるよぉ…。
 道端で、あくびをしながらこっちを見てる。白くて、手足と尻尾、耳と鼻だけが黒い。可愛すぎるよぉ…。
「ち、ちょっとあんた顔がヘンよぅっ! なんか目がうつろだし!」
「ねこーねこー」
 引き寄せられるように、わたしの足は勝手に動く。猫さんは逃げずにちょこんと首を傾げた。もう卒倒しそう。
「ね、ねえ、抱いてもいいかなぁ?」
「え…。そりゃ、好きにすれば?」
「そうするよっ!」
 許しが出たので、思わず抱きしめてしまった。
「くしゅんくしゅんくしゅんくしゅん!!」
「わああっ! だだだ大丈夫っ!?」
「ううぅ。実はわたし、猫さんに近づくとくしゃみが出る病気でっくしゅん!」
「じゃあ何で抱くのよっ。あ、逃げた」
 くしゃみを連発されて仰天した猫さんは、目の前のもう一人の足元に逃げ込んだ。
「あうぅーっ。なんで真琴の方に来るのよぉ」
「あー、いいなぁ。懐かれて…っくしゅん!」
「べ、別に嬉しくないわよ! もう、ねこ、じゃま!」
 足にまとわりつかれて転びそうになり、文句を言いながら歩き出す。
 その様子をわたしは恨めしそうに見ながら、少し距離を置いてついていった。
 歩道橋にさしかかり、猫さんは器用に手すりを登って、女の子の頭に乗った。乗られた方はこらあっと怒って、両手で頭から引き剥がす。ぶつぶつ言いながらも抱いてる。羨ましすぎるよぉ…。
「やっぱりその猫さん飼おうよ…」
 歩道橋の上で、我慢できなくなったわたしはそう口にする。
「あのさぁ。あんた病気なんでしょ?」
「我慢するよっ! それに、このまま放すのは可哀想だよ」
「可哀想…」
 彼女の顔色が、微妙に変わった。
 でもわたしは鼻をすするのに精一杯で、深い意味なんて考えられなかった。
「うん、人に飼われてたみたいだし。飼い主がいるなら仕方ないけど、そうじゃないなら誰かが面倒を見るべきだよ」
「……。それで、飽きたら捨てるんだ」
「ええ!? そ、そんなことしないよっ」
「…あんたも、祐一と同じよね」
 意味の分からないことを言われて――
 そして、猫さんの姿が消えた。

「いっちゃった」
 歩道橋の下の、走っていくトラックの荷台から聞こえる猫さんの悲鳴と、呟く声。
 わたしの頭は、眼前で起きたことを理解できないでいた。
「えっと…何、したの?」
「何って…」
 たぶん蝋人形みたいになってるわたしの顔を前に、その子は一歩後ずさる。
「な、何よぅ…」
「何、したの!?」
 荷物を放り出して、胸ぐらを掴んでいた。
「い、いいじゃない別にっ! 中途半端に優しくするくらいなら、最初から突き放した方がましよっ!」
「どうしてそんな寂しいこと言うの!? 猫さんを投げ捨てるなんて、何でそんな事できるの!? ひどすぎるよっ!」
「もう…いい」
 女の子は反省するどころか、拗ねたようにそっぽを向いた。
「いいわよ、出てくわよっ! 真琴なんかいない方がいいんでしょ!」
 何でそんな話になるのっ…!
 わたしもさすがに頭に来て、突き放すように手を離す。
「ああーそう。なら勝手にすればっ!」
「ううぅ…。あ…あんたなんか大っ嫌いっ!」
 捨て台詞を残して、女の子は走り去っていった。
 わたしは虚ろな気持ちで顔を上げ、猫さんが消えた車列の、その行く先をぼんやり眺める。
 …馬鹿みたい。仲良くなれるかも、なんて。

 お母さんは何も聞かなかったけど、祐一はさすがに気になったみたいだった。
「何かあったのか?」
 むかむかしていたわたしは、あの子のしたことを口早に訴える。
「そりゃあ確かにひどいな」
「でしょ!?」
 詰め寄るわたしに、祐一は少し引き気味だった。
「ま、まあその猫だって死んだわけじゃないんだし、そう怒らなくても…」
「そういう問題じゃないよ! 猫さんをいじめる人類は滅ぶべきだよ!」
「おい…。なんか危険思想を口走ってるぞ」
「地球を猫さんに明け渡すべきなんだよ!」
「秋子さん! 名雪がもうダメです!!」
 う〜! だってだって、あんなのひどすぎるよ。こんなとき徳川綱吉がいてくれたら…。
(どうせお母さんに泣きついて居座るんだろうけど、反省するまで口きいてやらない!)
 そう心に決めて、その日の夜は眠りについた。


【1/20】

 でも、次の日の朝になっても、あの子は帰っていなかった。
 空っぽの部屋を前に、寝ぼけてた頭が一気に冷める。
 わたしのせいで家に帰れない
  →行くところがない
   →野宿
    →凍死
 ど、どどどどうしよう〜!
「お、お母さん〜!」
「ねえ名雪。正しいことでも、その子にとっては触れられたくない傷であったりすることも…って言わなくてもいいみたいね」
「わ、わたしのせいで…」
「大丈夫だから。警察に連絡しておくから、名雪は学校へ行きなさい。ね?」
「うん…」
 うなだれて登校する途中、祐一が慰めてくれる。
「記憶が戻って、家に帰ったのかもしれないだろ」
「それならいいんだけど…」
「怒りの持続しない奴だなぁ…」
 学校でもそわそわしていて、香里にどうしたのか聞かれた。
「なんだ、別に名雪は悪くないじゃない。その子が勝手に出てったんでしょ」
「で、でもさすがに言い過ぎたんじゃないかって」
「あなたって本当にお人好しねぇ。いい人間は長生きしないって言うわよ」
 微妙に刺々しい言葉を残して、香里は席に戻っていった。
 放課後になって探しに行きたかったけど、部長が部活をさぼるわけにもいかない。必死で走って、部活が終わるとまた走る。昨日別れた場所へ向けて。
(どっちへ行ったんだろう…)
 もしかして、猫さんを助けに行ってくれたのかもしれない。
 希望的観測すぎると思うけど、歩道橋を降りて、トラックの走り去った方へ行ってみる。
 途中の公園なんかを探してみたけど、影も形もなかった。昨日まで居て当然だったのに、今は居場所の見当もつかない。
「あれ、部長?」
「あ、真田さんっ!」
 陸上部の後輩が、鞄を手に歩いてくる。
「ねえ、女の子見なかった? こんな風に髪をリボンで留めた子」
 わたしが後ろ髪を両手で掴んで横に垂らすと、真田さんはぽんと手を叩いた。
「ああ、さっきそんな子が猫を抱えて…」
「どこでっ!?」
「あ、あっちの住宅街の方でした」
「ありがとっ!」
 坂道にある閑静な住宅街。走り回ってみたけど見つからない。
 名前を呼べばいいんだけど…
 名前で呼ぶほど親しくないと思う。少なくとも、向こうはきっとそう思ってる。
 だから苗字を呼ぼうとしたんだけど、わたしの額を汗が垂れる。
(み、苗字なんだっけ…)
 そういえば一回しか聞いてなかったよ…。猿渡さんだっけ? 違ったような…。
「えっと…。ねえ…」
 そんなこと言ってたって見つかるわけない。空はどんどん暗くなっていく。
 もう会えないのかもって思ったら、急に胸が詰まって――
 ようやく、わたしはそれを口にした。
「ま… 真琴っ…!」


「あう…?」
 魔法みたいだった。
 ひょい、と曲がり角から顔を出す。その胸には、昨日の猫さんが抱かれていた。
 滲む視界の中で、相手は気まずそうに後ずさる。
「な、何よっ! こんなところまで怒りに来たの!?」
 そう言って逃げ出そうとするのを、ダッシュで距離を詰めて抱きついた。
「わああっ!?」
「ごめんねっ…」
「え…。ええ!? な、何であんたが謝るのよっ!」
 仰天している女の子の胸で、猫さんが小さくなあと鳴く。
 体を離して、ごしごしと目をこする。
「猫さん、探してくれたんだね」
「あぅ…。だ、だって真琴のせいだし…」
「帰ろう」
 必死でくしゃみを押さえながら、わたしはその両手を取った。
 すっかり暗くなった空の下。真琴という名前の女の子は、困ったように目を逸らす。
「でも、真琴は…」
「帰ってきてくれなきゃっくしゅんくしゅん!」
「わーっ! 鼻水飛ばさないでよっ!」
「帰ってきてくれる?」
「うぅ…。し、しょうがないわねぇっ!」
 背を向けて、すたすたと歩き出す。素っ気ないけど、距離が縮まったのを感じながら、わたしは真琴の耳に口を寄せた。
「真琴、あらためてよろしっくしゅん!」
「わあああ!?」
「ご、ごめんね〜!」

 お風呂に入ってから、自分の部屋に戻った。
 激動の一日だったなぁ。ああ…それにしても…
「同じ家の中に猫さんがいるのに〜!」
 もどかしさにベッドの上で暴れていると、真琴が呆れた顔で入ってきた。
「何やってんのよ…」
「あ。あははは、猫さんは?」
「下にいるわよ。名前は『ぴろ』になったから、よろしくねっ」
「わ。可愛い名前だね」
「ま、まあ祐一にしてはそれなりよね」
 祐一がつけたんだ。どういう由来なんだろ。ぴろ…ピロートーク? わーっ、わたしったら何を考えてるんだよっ。
「ね、ねえ…」
 おずおずと近づいてから、真琴はベッドの上、わたしの隣に座った。
「もう怒ってないの?」
「うーん、そうだね。真琴はもうあんなことしないって思うから」
「し、しないわよ…」
「よしよし」
「子供扱いしないでよっ」
 頭を撫でてあげると、ぷんすかと手を振り回して、悪いけど子供っぽくて可愛い。
「そ、それから。あんたのこと大嫌いって言ったのは、取り消してあげる」
「うんっ。でも、名雪だよ」
「え」
「あんたじゃなくて、名雪」
 真琴は少し口ごもってから、上目遣いで小さく言った。
「な、なゆき…」
「うん、真琴」
「…もう一回言って」
「真琴?」
「もう一回」
「真琴っ」
 嬉しそうにはにかむ真琴。もっと早く呼んであげるんだった。
 わたしたちは今までの時間を取り返すように、色んな話をした。今日の夕ご飯のこと、お母さんのこと、祐一のこと。
「そういえば、祐一なんだか元気なくなかった?」
「そう? そうだったかも。女の子にでも振られたんじゃないの?」
 まさかあ、と笑おうとしたけど、微妙に表情が強ばったのかもしれない。
 真琴は少し驚いて、窺うように言った。
「え? も、もしかして名雪は祐一が好きなの?」
「なっ…」
 そんなストレートに聞かないでよ…。
 ごまかし笑いを浮かべるしかない。七年も前に、もう振られてるんだから。
「そんなこと、ないよ」
「そうよねぇっ。あんな甲斐性なし、名雪とは全然釣り合わないわよ」
 ひどい言われようだったけど、素直じゃないだけなのが分かってるので、笑って受け止めた。
「でも、祐一にもいいところはあるんだよ」
「ないない、全然なーいっ。名雪にはもっといい相手がいるわよ。えーとほら、池でラーメンが何とか」
「…イケメン?」
「そう、それ! 名雪にはそーゆーのが似合うのっ!」
 それじゃわたしが面食いみたいだよ…。でも真琴としては誉めてるつもりなんだろうから、素直にお礼を言っておく。
「ありがとね、真琴」
「え…あ…う…。ぴ、ぴろと遊んでこよーっと!」
 真琴は真っ赤になって、ぱたぱたと出ていってしまった。妹がいるのってこんな感じなのかな。
 ああ…それにしても…。
「わたしもぴろと遊びたいよぉ〜!」
 ベッドの上で暴れすぎたせいで、後で祐一とお母さんに怒られた。








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【1/21】

「名雪ーっ。さっさと起きなさいよーっ!」
「うーん」
 ああ、どうして朝なんて来るんだろう。夜が来て…ずっと夜だったらいいのに。
「あうー、全然起きない…。こうなったら…えいっ」
「ごふぅ!」
 いきなりボディアタックを敢行されて、口から胃が飛び出しかけた。
「ま、真琴…。お、女の子はもっと優しく扱わないとダメだよ…」
「だって全然起きないんだもん。もう一発いく?」
「起きるよっ。起きますっ」
 渋々と着替えて、真琴に引っ張られながらテーブルにつく。
「あら、今日はちゃんと起きたのね」
「起きたよ〜」
「これからは毎日真琴に頼もうかしら」
「うんっ。真琴にお任せよ」
「許してよ〜」
 騒がしい食卓。でも、真琴とお喋りしながら食べる朝ご飯は、いつもよりおいしかった。
 ただ、祐一は体調が良くないらしくて、元気がないのが心配だったけど。

 今日は部活はお休みで、でも掃除当番。
 早く終わらせて帰ろうと、モップを手に、渡り廊下を端から端まで拭く。
(真琴、ずっといてくれるといいなぁ…)
 真琴のおかげで、家の中が賑やかになる。
 それに…祐一はいつか出ていってしまう。根拠はないけど、今日も中庭に一人で出かけていくのを見ると、そんな気がした。
 なんてことを考えていると、窓の向こう、校門のそばに誰かの姿。
(真琴!?)
 校門から顔だけ出して、きょろきょろと誰かを探してる。迎えに来てくれたのかな。
 早く行こうと、モップの速度を上げるわたしだけど…
「あなたの…お知り合い…でしょうか」
 そう、誰かが声をかけてきた。
 振り向くと、女の子がじっと真琴の方を見ている。制服からすると一年生。どことなく物静かな感じ。
「校門のところにいる子? うん、そうだよ」
「…あれは、あなたを待ってるのでしょうか」
「う…うん。たぶん」
 よく考えたら、祐一を待っているのかもしれない。本人は絶対認めたがらないだろうけど。
 女の子は怪訝そうな顔で、わたしの方を向いた。
「たぶん?」
「うん、わたしのいとこも、この学校にいるから」
「いとこ…」
「あの子、いとこのこと好きみたいだから。最初に会った時も、いとこのこと許せないってことだけ覚えてて…あれ?」
 これじゃ仲悪そうだよ…。訂正しようとして、その前に、その子が愕然とした顔をしているのに気付く。
 うまく言えないけど、『そんなのは想定外だ』というような。
「そう…ですか。あなたは、巻き込まれただけなのですね」
「え? え?」
「…失礼します」
 行っちゃった…。何だったんだろう。
 あ、掃除掃除。
「真琴っ」
 靴に履き替えて、校門まで走っていく。
「あ、な、名雪」
「祐一はまだ教室にいたよ。呼んでくる?」
「あんなやつなんか待ってないってばっ」
「無理しなくていいよ。三人で帰ろうよ」
「うー…。じゃあ、一人で帰るっ!」
「わーっ」
 本当に素直じゃないんだから。仕方ないので、祐一のことは諦めた。体調良くないのに引っ張り回すのも悪いし。
「わかったよ。わたしと二人でいいから、商店街に寄っていこう?」
「ほんとっ? …う、うん、いいわよ」
 商店街に到着。ファンシーショップにでも行こうと思ってたけど、その前に、ゲームセンターの前で真琴の足が止まる。
「真琴?」
 固まったように、プリクラの写真機をじっと見ていた。そういえば最近撮ってないなぁ。
「真琴、一緒に撮ろうか?」
「…いい」
「そう言わないで」
「あ、あんな子供っぽいもの興味ないもん! 真琴はこう見えてもペナルティーなんだからぁ」
 アダルティーのことかなぁ…。深く突っ込むのはよそう。
「でも、わたしは久しぶりに撮りたいし、一緒に入ってくれると嬉しいなっ」
「そ、そう? 名雪がそこまで頼むなら仕方ないわね。真琴はこう見えてもミルクティーだし」
 もう突っ込みようがなく、わたしは真琴の手を引いてカメラの前に並んだ。
 お金を入れて、パシャリ。
「わあっ」
 半分こしたシールを、真琴は本当に嬉しそうに抱きしめた。そんなに撮りたかったのかな。
「ね、どこに貼る? どこに貼る?」
「うーん、わたしはとりあえずこれかな」
 鞄からプリクラ帳を出す。香里や、部のみんなと撮ったシールの数々。その隣に新しいシールを貼ると、真琴は複雑な顔だった。
「…名雪は、たくさん持ってるんだ」
「う、うん。真琴もプリクラ帳作る?」
「いらない。どうせ名雪しかいないもん」
「そんなことないよ。これから友達も作れるよ」
「いいってばっ」
 逃げるようにゲームセンターの中へ行ってしまった。難しい年頃だなぁ。
 その後モグラたたきで勝負して、全敗したわたしに、真琴の機嫌はあっさり治る。
「へっへーん。情けないわねっ」
「ううっ。反射神経を競うのは苦手なんだよ〜」
「いつもぼーっとしてるからそうなるのよ」
「ぼーっとしてないよ〜」
 だって真琴強いんだもん。獲物を狙う獣みたいな目で叩いてたし。
 通りすがりのお店の人に『数日前に来た女の子は一匹も叩けなかったから、それよりまし』って慰められたけど、あんまり嬉しくない…。
 そろそろ財布も厳しくなってきたので、今日は帰ることにした。
「ね、ねえ。明日も迎えに行っていい?」
「うーん、ごめんね。明日は部活があるんだよ」
「そうなんだ…」
「日曜日にまた来ようね」
「う、うんっ」
「イチゴサンデーを食べに行こうね」
「おいしいの?」
「とってもおいしいよっ」
 真琴は本当に嬉しそうで、もっともっと、楽しい時間をあげたかった。

「いつの間にか、随分仲良くなったのね」
 真琴はぴろとお風呂に行って、わたしは居間でココアを飲んでいると、お母さんがにこにこと言った。
「うんっ。話してみるといい子だったよ」
「そうね」
「ずっといてくれたらいいのに」
 そう言うと、お母さんの顔がわずかに曇る。
「名雪。お母さんはずっと、真琴の親御さんを探しているのよ」
「あ…」
「警察にも当たっているのだけど、捜索届けは出ていないの。見つかっても、記憶が戻るまではここに置こうと思っているけど…それでも、真琴にも家族がいることを忘れないでね」
「う、うん…」
 そうだよね…。真琴には本来の家族があって、帰るべき場所があるんだから。そっちが優先だよね。
 収まるべき場所に収まってから、あらためて友達になればいいんだし。祐一にもそう言っておこう。
(あ。そうだ)
 今日掃除している時に会った子。
 真琴のことを気にしていたし、何か知ってるのかもしれない。
 名前は聞けなかったけど、明日学校で探してみようかな。


【1/22】

 昼休み。空っぽの祐一の席に買ってきたパンを置いてから、一年生の教室を見て回る。
「あれ、部長」
「真田さん。女の子を探してるんだよ」
「最近人探しがブームなんですか?」
「あ、あはは。小柄で髪は短めで、物腰が上品そうな子なんだけど、知らない?」
「え、もしかして天野さんでしょうか。あそこにいますけど」
 真田さんが指し示す先では、昨日の女の子が本を読んでいた。お礼を言って、その席に近づく。
「天野さん、こんにちは」
 天野さんが顔を上げるのはともかく、教室にいた他の生徒まで一斉に驚いた顔を向けた。そんなに声をかけられない子なのかな。
 とはいえ女の子が訪ねてきたからって騒ぎになるわけもなく、すぐに元の昼休みに戻った。天野さんはぱたりと本を閉じる。
「何の御用でしょうか」
「き、急にごめんね。わたしは二年の水瀬名雪」
「天野美汐です」
「天野さん。昨日校門のところにいた子のこと、何か知らないかな」
「……」
「あの子、記憶喪失なんだよ。今はうちにいるけど、早く元の家に帰りたいだろうし…」
「…帰るところなど、ありませんよ」
 いきなり嫌なことを言われて、さすがにわたしも眉をひそめた。
 天野さんは無言で立ち上がり、ベランダに出るように促す。
 外に出る。風が吹きつけてくる中で、髪を押さえているわたしに、天野さんは表情のない眼で話し出した。
「最近、あの子に何か変わったことはありませんか。体の異状など」
「変わったこと? んー、特に…。あ、異状ってほどじゃないけど」
 朝ご飯のとき、真琴が上手く箸を持てなくて、スプーンで食べてたっけ。たぶん昨日遊びすぎて疲れたんだろうけど。
 それを話すと、天野さんはやっぱり、という顔をした。
「単刀直入に言いましょう」
「うん」
「あの子の正体は、狐です」
「はい?」
「……」
「…」
「すみません…忘れてください…」
「わあ、ちょっとっ!」
 硬い表情で帰ろうとする天野さんを、慌てて引き留める。
「あ、わ、わかったよ。木津根さんちに住んでたんだね?」
「動物の狐です。フォックスです」
 目が本気だよ…。どうしよう。選択肢は3つ。
1.「うわぁ! サイコさんだぁ!」と言って逃げる
2.「そうなんだ、ステキだね」と適当に話を合わせる
3.「どういう原理で狐が人間になるの? 質量保存の法則は?」と突っ込む
 うーん、1はさすがに失礼なような。2は不誠実なような。3はイヤミなような。
「うーんうーん」
「悩まれても困るのですが…」
「も、もう少し詳しく話して」
「残念ながら、時間のようです」
 昼休み終了五分前のチャイムが鳴った。
 慌ててているわたしをよそに、さっさと教室に戻る天野さんは、戸を開けながら横目を向ける。
「信じる信じないは自由ですが…。いずれ分かりますよ」
 またまた冗談を、って笑いたかったけど、そんな雰囲気じゃなかった。


 夜。
 しばらく悩んでから、真琴の部屋をノックする。馬鹿馬鹿しい話だとは思うけど、記憶が戻るヒントになるのかもしれないし…。
「真琴、いい?」
「あ、ちょっと待って。ぴろがいるから」
 中からの声に、廊下の端まで離れた。扉が開いてぴろが階段を降りていく。ああっ悲しい。
「ちょっと話がっくしゅん!」
「平気? やっぱりこの部屋入らない方がいいんじゃない?」
「へ、平気だよ。ええと…肉まんおいしい?」
「あぅ、欲しいの? しょうがないなぁ…」
「そ、そうじゃないよ。その…マンガ面白そうだね」
「…名雪、何かあった?」
「うっ」
 あからさまに不自然だったらしく、真琴は疑いの目でこちらを見ていた。
「な、ないないない、何にもないよ〜」
「無茶苦茶怪しいわよっ! 白状しなさいよーっ」
 はぁ…。そうだよね、言わなきゃ始まらないよね。
「あのね。学校で会った女の子が言ってたんだけどね」
「うん」
「その……真琴は、狐なんだって」
 口に出してみると、ものすごくまぬけなような気がした。
 ほら、真琴も目をぱちくりさせてる。
「え、ええと、そんな事あるわけないよね。あ、あはは…」
「そ、そうようっ。何を言い出すのよ。変なの。あはははは」
「あっはっは」
「…名雪。あんた真琴をバカだと思ってるでしょ」
「ごご誤解だよっ! そんなことないよ〜」
「じゃあ何よぅ狐って! なんで真琴が獣畜生なわけっ!」
 そりゃ怒るよね。ぱふぱふ、とクッションで叩かれながら、それでもわたしは安堵していた。
「でもよかったよ〜。『バレたか、実は狐です』なんて言い出したらどうしようかと思ってたよ」
「やっぱりバカにしてるーっ! 真琴が狐なら名雪の正体は猫よ! 猫!」
「猫さんかぁ…。それもいいなぁ…」
「あのね、悪口のつもりなんだけど」
「………」(パァァァァ)
「わーっ! どっか行っちゃったーっ!」
 それにしてもびっくりしたよ。天野さんにからかわれたのかな。冗談言う子には見えなかったけど…。


【1/23】

 土曜の放課後。休んだ香里を心配しつつ、わたしは天野さんに報告に行った。
「真琴に聞いたけど、狐じゃなかったよ」
「…水瀬さんは天然ですか」
「え? と、とりあえず養殖じゃないよ」
「もういいです…」
 がっくりと肩を落とされる。何か変なこと言ったかなぁ…。
「詳しく話します。聞きたければついてきてください」
 天野さんは少し辛そうな顔で、ベランダに出ていった。わたしは一瞬躊躇したけど…結局その後に従った。

 昨日と同じ場所で、話は少し長く続いた。
 話が進むにつれ、わたしは俯き気味に手すりをぎゅっと握る。
「…ごめんね。やっぱり信じられないよ」
「そうですか。…そうでしょうね」
「ごめんなさい…」
 話の真偽はともかく、それが天野さんにとって身を切るようなことなのは、見ていて分かった。
 それを押し殺して話してくれたのに、こんな返事しかできないのが申し訳なかった。
「真琴が狐だってだけなら、百歩譲れば受け入れられなくもないよ」
 確かに、一部は事実と合致する。祐一が昔狐を飼っていたこと。真琴が祐一への想い以外覚えていないこと。
 本人は嫌かもしれないけど、家出したのに捜索届けも出してもらえないような家の子だというよりは、狐さんって考えた方がまだ夢があるかもしれない。
「でも…」
 けれどそれも、ずっと今のままでいてくれるならの話だ。
『その奇跡とは、一瞬の煌めきです』
 …そんなこと、信じるわけにはいかなかった。
「ごめんね、せっかく話してくれたのに」
「いいんです。巻き込まれただけだなんて、あまりにもあんまりですから、柄にもないことをしてしまいました。信じてもらえたところで、結局何もできはしませんし」
 自嘲気味に言ってから、天野さんの目が険しくなる。
「あなたのいとこは、一体何をしているのですか」
「え、あ。祐一も、今ちょっと大変なんだよ…」
「そうですか…。上手くいかないものですね」
 上手くいかない。何となくその言葉が重石みたいに心に残る。
 天野さんはくるりと背を向け、扉を開けた。
「私は、これ以上はもう関わりません。私の頭がおかしいだけで、今話したことも全て単なる妄想だといいですね」
 少し間をおいてから、わたしも教室に入る。既に天野さんの姿はない。
 真琴はちょっと記憶喪失なだけの、普通の女の子だ。
 そんなことより、早くお昼を食べて部活に行かなきゃ。
 そう決めて、この件については思考を閉ざした。

 なので…
 夕ご飯の時も真琴が箸を持てなかったのも。
 なんだか足下がふらつき気味なのも。
 洗面所に歯磨き粉がついたままの真琴のハブラシが落ちていたのも、全て偶然と思うことにした。「人間じゃなくなりつつある」なんて一瞬思ってしまったのは、白い布がお化けに見えたりする、あれと同じだと思う。

 そうしてテレビを見ていると、香里から電話がかかってきて、祐一は出かけていった。
「力になってあげてね」
 そう言って送り出すくらいしかできず、テレビを見る気にもなれず、わたしはとぼとぼと部屋に戻る。
「…なんか元気ない」
「ちょっとね」
「ふぅん…。真琴に話せないならいいわよ」
「拗ねないの。友達がね、祐一に相談事があったみたいなんだよ」
「祐一に? あんなのに相談したってしょうがないじゃない」
「そんなことないよ。祐一はあれで頼りがいがあるんだよ」
 だから香里を助けられるのがわたしじゃなくて祐一なのも、仕方ないんだと思う。
 そんなことを考えていると、真琴は納得いかなそうにそっぽを向いた。
「で、でも真琴だったら、祐一じゃなくて名雪に相談するわよ」
「え…」
「覚悟しときなさいよねっ。嫌だって言っても相談するから」
「…うん。どんとこいだよ」
「ほんとにバンバン相談してやるんだからぁ」
 おやすみを言って、わたしは軽い心でベッドに入ることができた。
 人間だよ。
 だって、こんなにわたしのこと分かってくれてるもん。










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(1) (2) (3) (4) 一括







【1/24】

『朝〜、朝だよ〜』
『朝ご飯食べて学校行くよ〜』
 あれ…。
 隣の部屋から声がする。いつもはすぐ止まるんだけど…祐一、起きないのかな。
 日曜朝の至福の時間なのに、何だか気になって、渋々とベッドを下りる。
 祐一の部屋をノックする寸前、目覚ましの声は止まった。
 香里と何があったのか、たぶん教えてくれないよね…。

 今朝も、真琴はうまく箸を持てなかった。
 さすがにお母さんも、困ったように頬に手を当てる。
「病院で診てもらった方がいいかもしれないわねぇ」
「ええっ!?」
「うん、そうだね」
「ち、ちょっ…」
 真琴は嫌そうだけど、ちょっと心配な症状だと思う。
 非現実的な話を忘れるためにも、ちゃんとしたお医者さんに診てもらうべきだよ。
「大丈夫だよ。調べるだけだから、たぶん注射とかはないよ」
「あぅ…。そういう問題じゃないわよぅ…」
 真琴がわたしと一緒じゃなきゃヤダって言うから、今日行くことにした。隣町の大病院なら、第四日曜は開いてるし。
「平気? 病院に行ったら、それきり帰れないなんてことにならない?」
「大丈夫だよ。約束するよ」
「…じゃあ、名雪が指切りしてくれたら行く」
「うん、いいよっ」
 念のため三回ほど指切りして、ようやく真琴も了解してくれた。
 準備をして、出かける…と、その前に。
「祐一、ご飯ここに置いておくよ」
 簡単におにぎりを作って、祐一の部屋の前に置いた。
 一度くらい三人で出かけたいけど、しばらくは無理そうだった。

 バスから見える風景に、最初ははしゃいでいた真琴も、病院が近づくにつれ不安な顔になってくる。
「心配ないよ。うちの部にも砲丸投げすぎて手がおかしくなった人がいたけど、一週間くらいで治ったよ」
「真琴は砲丸なんが投げてないじゃない…」
「夜中に寝ぼけて投げてるのかもしれないよ」
「投げるかっ!」
 病院に到着。一時間くらい待たされてから先生に呼ばれて、あれこれ調べられて…
「特に異常はありませんね」
 あっさりとそう言われた。
「他に何か変わったことは?」
「真琴、何かある?」
「う、うんと…。最近、ちょっと忘れっぽいけど。昨日何食べたか覚えてないし…」
「え! そ、そうなの!?」
「ど、ど忘れよっ。大したことないってば」
「脳の問題かもしれないねぇ」
「真琴はバカじゃないもんっ!」
「ま、真琴。そういうことじゃないよ」
 どうしても安心がほしくて、真琴を説得して脳外科に行った。
 食堂でお昼を食べて、それからさらに二時間待ち。なだめすかすのも限界になってくる。
「飽きたよぉ。もう帰ろうよ…」
「もうちょっと。もうちょっと、ね?」
 本当なら今日は商店街でイチゴサンデーを食べるはずだったから、嫌がるのは分かるけど…でも、心配だから。
 ようやく順番が来て、真琴は大きな装置に入って調べられた。脳波がどうとか。
「まったく異常はありません」
 お医者さんの目は『仮病じゃないのか?』って言ってる気がした。
「あの、でも」
「医学的な指標上は全く問題ないね」
「そ、そうですか…」
「これ以上調べるとなると、入院して精密検査になるけど」
 真琴が脅えたようにしがみついてくる。出かける前の約束もあるし、これ以上は無理だよね…。
「いえ。しばらく家で様子を見てみます」
「では、そうしてください」
 バスに乗るまで、二人とも無言だった。
 医学じゃ説明のつかない何かがあるとか…そ、そんなわけないないないっ。
「まあ異常がなくてよかったよっ。病気じゃないんだから、何も心配することないよ」
「うん…」
 真琴はもう景色も見ないで、じっと俯いてる。
 何とかして元気づけようとした瞬間、小さな声が聞こえた。
「…本当に、狐だったらどうしよう」
「人間だよ!」
 わたしの声は、いやに大きく響いた。
 車内にいた何人かがぎょっとして振り返る。一体何を言っているのかと思われたよね…。
「ほ、ほら。日本語喋ってるし、二本足で立ってるし、尻尾もないよ」
「う、うん…。そうよね」
「だいたい常識的に考えて、狐が人間になるわけないよ」
「そうなんだけど…」
 真琴の膝の上で、ぎゅっと手が握られる。ただでさえ記憶が戻らなくて不安なのに、こんな状況じゃ気持ちも揺らぐに決まってる。なんで狐なんて、変な話を真琴にしたんだろう。わたしのばかばか。
「あ。次、降りていい?」
「え? いいけど、どこか行きたいの?」
「うん…」
 商店街に寄るつもりだったんだけど、真琴の希望を優先する。イチゴサンデーはいつでも食べられるから。
 住宅街を抜け、木々の茂る脇道に入った。
 嫌な予感がする…。
「ね、ねえ。どこ行くの?」
「真琴にもよくわかんない…」
 真琴は何度か転びかけながら、山道を登っていく。嫌な雰囲気だけど、記憶が戻るかもって思ったら、無下に止めるわけにもいかない。
 そうして、山の中腹の開けた場所に出た。
 茂みと草の中で、真琴はただ呆然と立っていた。
「ここに長い間、居た気がするの…」
 そう呟く声が聞こえ、わたしは耳を塞ぎたくなる。
(や、やめてよ…)
 真琴に言った方がいいんだろうか?
 ここが、その妖狐の伝説があるものみの丘だって…。


 すっきりしない気分で帰ってくると、おにぎりは祐一の部屋の前に置かれたままだった。
「さいってー。せっかく名雪が作ってあげたのに」
「い、いいんだよ。きっと祐一も大変なんだよ」
 何か元気づけた方がいいのかな。
 こういうとき、必ず七年前のことを思い出してしまう。余計なことをして大失敗した、潰れた雪うさぎの記憶。
「名雪?」
 真琴が心配そうに見上げてくる。
 丘のことは気のせいで片付けるにしても、真琴の手が不調なのは変わらない。祐一は元気がないし、香里も元気がない。
 ただ一人元気で、特に困ってもいないわたしは、一体何をしたらいいんだろう。
「な、名雪がそんなに心配することないわよっ。いいわ、真琴が怒鳴って気合いを入れてきてあげる」
「わわ、こういう時はそんなことしたらダメだよ〜。とりあえず、わたしが行ってくるよ」
 遠慮がちにノックして、中に入る。
 何もできなかったけど、側にいることにした。真っ暗な部屋の中で、何も聞かず、ただ隣に座っていた。
 成功だったのか失敗だったのか、何にせよ祐一は立ち上がって、外に出かけていった。
 とりあえず気に障ることはせずに済んだみたいで、安堵する。
「名雪…」
「わ、待っててくれたの? ごめんね」
「ううん…。名雪は、やさしいんだね」
「そ、そんなことないよ〜」
 おにぎりが残っていたので、真琴とわたしで一つずつ食べた。


【1/25】

「くー」
「くー」
 …うにゅ。朝ご飯食べなきゃ…。
 無理して目を開けると、いつの間にかテーブルについていて、隣で真琴がうつらうつらしている。
 そっか、昨日は祐一が帰ってくるまで二人で待ってたんだっけ。頭がもっと寝ろって命令してるよ…。
「祐一さんは先に行ったわよ」
「え、そうなの? わ、こんな時間だよ〜」
 急いで朝ご飯を食べて、まだ船を漕いでいる真琴に挨拶して外に出た。
 真琴、一人で家にいてもつまんないよね。早く記憶が戻って、学校に行けるようになればいいのに。

 全速力で走って、何とか間に合った。
 祐一は前よりは元気そう。でも香里が…。何も言わなかったけど、なんだかやつれ気味だ。
「ねえ香里」
「元気よ」
 とりつく島もないよ…。
 結局何もできず、いつものように授業を受けて、お昼は祐一を誘って断られて、放課後部活するだけの一日だった。
「あれ…真琴?」
 暗くなった道を帰っていくと、真琴が走ってくる。迎えに来てくれたのかなと思ったけど、どうも様子がおかしい。
「ぴろがいなくなったの…」
「ええっ!? それは地球存亡に匹敵する一大事だよっ!」
「探さなきゃ…」
「うん、わたしも探すよっ」
 走り出そうとして、真琴が急に寄り掛かってきた。街灯の下で、なんだか赤く見えて、額に手を当てる。
「ね、熱があるよっ…!」
 背筋が凍る。思い出さないようにしていた天野さんの話が、頭の中を占領する。
『私の時は最後に熱を出して、そして…』
 関係ない関係ないっ! どこをどう見たってただの風邪だよ。
「へ、平気よこれくらい…」
「平気じゃないよっ! ぴろはわたしが探すから、真琴は暖かくして寝ててよ。ね?」
「でも…」
「約束するから」
「…うん。名雪がそう言うなら」
 指切りして、真琴を家まで送ってから、わたしは制服のまま夜の街に出た。
「ぴろー! ぴろー!」
 あの時の歩道橋や、ものみの丘まで探しに行ったけど、ぴろの姿はない。今日は真田さんにも会わなかった。
 寒くて、お腹も空いて、それでも我慢して探してたのに…結局見つからない。
 もしかして戻っているかもしれないと、とぼとぼと家に帰る。
「戻ってないぞ」
「そう…。もう一回探してくるよっ」
「ばか、何時だと思ってるんだ」
「でも、真琴と約束して…」
「それで名雪が倒れたら、真琴も心配するわよ? 真琴なら話せば分かってくれるから、ね?」
 祐一とお母さんに言われて、わたしはうなだれたまま真琴の部屋に行った。
「ごめんね、真琴…」
「ううん…」
 布団の中の真琴は、なんだかすごく弱々しくて、わたしは泣きたくなってきた。
「名雪は、いっしょうけんめい探してくれたもん」
「明日も探してみるよ」
「もういいよ…。ぴろにも、色々都合があるんだろうし」
「真琴…」
 また戻ってくるよ、と根拠のないことを言って、真琴が眠るまで側にいた。
 何でこんな時に出てくんだろう。ぴろ、恨むよ…。


【1/26】

 翌朝。真琴と話していると、祐一が後ろから覗き込む。
「真琴、まだ治らないのか?」
「うん…」
「ま、風邪だろ。おとなしく寝てろ」
「ふんだっ…。祐一なんかに心配されたくないわよぅ…」
 相変わらずの反応に、祐一は苦笑して出ていく。
 その足音が遠ざかってから、真琴は手を伸ばしてわたしの腕を掴んだ。
「こわいよぉ…」
 真琴…。
「いろんなことが頭の中から消えてくの。かわりに昔のこと思い出しそうになる。…あたしの正体…」
「お、落ち着いてよっ。熱があるときは、変な妄想が浮かぶんだよ」
「…ねえ、祐一は昔、狐を飼ってた?」
「か、飼ってたけど…」
 怪我が治るまで家に置いていた。わたしには触らせてくれなかったけど。
「なんで捨てたの…?」
「違うよ。祐一だって別れたくなかったけど、野性の狐は飼っちゃいけないんだよ。仕方なくだったんだよ」
「…そう」
 真琴は納得したように、目を閉じた。
 今の話だけで、全てが終わってしまったような気がして。怖かったけど、学校を休むわけにもいかない。
 夕べ作っておいたお弁当を詰めて、急いで外へ出た。
 大丈夫、ただの風邪なんだから。

 真琴も心配だし、香里も心配だしで、大変だけど、一つずつできることをするしかない。
「香里、今日はお弁当作ってきたんだよ」
「ふうん…」
「香里の分も」
「なんでよ」
「最近、ご飯食べてないみたいだから」
「大きなお世話よ…」
「食べてくれないと捨てることになっちゃうよ〜」
「相沢君にでもあげなさいよ」
「…祐一は、たぶん別の人と食べるよ」
 自然に言おうとしたんだけど、
「仕方ないわね…」
 案の定、昼休みになると一年生の女の子が祐一を呼びに来て、二人で出かけていった。
「か、可愛い子だったよね」
「名雪は、それでいいの?」
「え? べ、別にわたしは関係ないよ〜」
「そう…」
 香里はなんだか気まずそうに、箸を口に運ぼうとしたけど…。
「お弁当…お昼に…二人で…」
「ど、どうしたの」
「ごめん…。やっぱり食欲ないわ…」
 香里は心底すまなそうに箸を置いた。
「そ、そう。無理しない方がいいよ」
「悪いわね…」
 そう言って、席を立ってどこかへ行ってしまう。失敗だったよ…。お弁当は真琴と半分こしよう。

 帰ったら、真琴の熱は少し下がっていた。
 まだ完治したわけじゃないけど、ひとまず安心する。
「ほら、心配のしすぎだったよ」
「うん…」
「元気になったら遊びに行こうね」
「うん…。でも外、さむい…」
「え、そんなに寒い?」
「なゆき、ヘン…」
「そ、そうかな。わたしはもう慣れちゃったから」
 春になれば暖かくなるよ、と言うと、真琴は枕に顔を埋めた。
「ずっと春だったらいいのに」
「ずっと春かぁ…」
 この町で育ったわたしにとって、春は短いというイメージしかない。
 短い春、短い夏、短い秋、そして長い長い冬。
 でもその分、春を喜ぶ気持ちは大きいかもしれない。
「ずっと春ってわけにはいかないけど、春が終わっても、また次の春が来るよ」
「うん…」
「大変なことがあっても、その後にはいいことがあるよ」
「うん、なゆき…」
「ふぁいとっ、だよ」
 頭を撫でてあげると、真琴は嬉しそうに顔をすり寄せた。


【1/27】

 すやすやと眠る真琴の毛布を直してから、学校へ行く。
 香里は相変わらず。祐一は放課後すぐどこかへ行こうとしたので、掃除当番なことを教えた。デートなのかな。
 部活をして帰ると、真琴の熱はすっかり下がった。
 …でも、事態はまるで良くなってなかった。
「あぅ…」
「ま、真琴」
「……」
「ねぇ…」
 何が起きているのか、頭の方が追いつかない。
 帰ってきたら、真琴が言葉を忘れたみたいに静かになっていた。
 たまに一言二言くらいは喋るけど、あとは何もせずにぼーっとしている。
 わたしが必死になって話しかけていると、お母さんに廊下へ手招きされた。
「ねえ、名雪」
「う、うん」
 お母さんの目は、いつものように静かだった。
「真琴を、入院させようと思うの」
「――――!」


「名雪はどう思う?」
 落ち着いた声で、お母さんはわたしに尋ねる。
 確かにもう、それしかないと思う。
 こんな状況で、医学的な問題がないわけがない。
(でも)
 常識的に考えようよ。それが一番なんだから。
(でももし、全て天野さんの言うとおりだったら?)
 沸き起こる不安を、頭を振って振り払う。そんなことあるわけないよっ。狐と人間だよ? そういうお話は好きだけど、これは現実なんだから…。
 でも万一。
 万一そうなら、病院に行っても良くなんかならない。それどころか、求めてきた人の温もりを、最後に閉ざしてしまうことになる。
(じゃあ、奇跡の最後まで温もりを与えることにする?)
 でも、もし人間の病気だったら。一刻を争う症状なのかもしれない。狐とかわけのわからないことを言って入院させないでいる間に、取り返しのつかないことになるかもしれない。
 どうしよう。聞かれているのはわたしだ。お母さんには頼れない。祐一にも頼れない。
 他の選択ならともかく、人の命に関わる選択なんて怖くてできない。わたしが将来何になるのかは分からないけど、医者や看護士にはなれそうになかった。
「お、お母さん」
「ええ」
 干上がった口の中から、何とか言葉を出そうとした時。
 わたしの服の裾が、ぎゅっと握られた。
 戸を半開きにして、真琴が見ていた。
「あ。ごめんね一人にして」
「あぅ…」
 泣きそうな目。離れたくない。真琴もわたしも同じ気持ちだと思う。
 それに流されるのは問題だって、分かってるけど…。
「お母さん…」
「ええ」
 真琴の瞳に映る自分を見て、自分だけが映っているのを見て、そしてわたしは…
「もう少しだけ待って。――今の真琴を、わたしから引き離さないで」
 そう、言ってしまった。

 ああ、どうしよう。
 後で後悔するのかもしれない。ううん、わたしの後悔だけならいい。真琴の人生を奪ってしまったら、どう償えばいいんだろう。
「…そうね」
「お、お母さん」
「その方が、いいのかもしれないわね」
「ま、待ってお母さん。全部話すから…」
 わたしは口早に、天野さんに聞いたことを全て話した。ものみの丘の妖狐、一瞬の奇跡、そんな不思議な語。
「…そう」
 お母さんは驚きもせず、真琴の頬に手を当てる。
「これがあの時の、あの子なのね…」
「ええ!? 信じちゃうの!?」
「あら、名雪は信じてないの?」
「だ、だって」
 だって常識的に考えて、そんなこと。
 でも否定しきれないから、わたしはさっきの結論を出してしまったのだ。
「病院には連れていくわ。でも入院はさせない。名雪が学校から帰ってきたら、必ず家にいるようにする。それでいいわね?」
「うん…」
「大丈夫よ。名雪の責任にはしないわ。最後はお母さんが決めたこと。何かあっても、悪いのはお母さんよ」
「そういうわけにはいかないよ…」
 真琴はわたしの家族なんだから。
 安心してわたしに身を預けている真琴を抱きしめながら、わたしたちにどんな未来が待つのか、まるで見当もつかなかった。


【1/28】

(お医者さんが原因を見つけて、治療法もわかりますように)
 不思議と現実の間をまだふらふらしているわたしは、授業中もそう祈っていた。
 放課後になると、祐一は即座に飛び出していく。
 わたしは部活…不安を振り払うように、一生懸命に走る。
 家に帰ると、お母さんが一言。
「異常なしですって」
「そう…」
 それはもしかして、原因不明っていうんじゃないだろうか。
 やっぱり選択を間違えたのかもしれない。今すぐ入院して、徹底的に調査した方が。
「あぅ…」
 でも真琴の顔を見るとまた揺らぐ。楽観と悲観が頭の中で喧嘩して、パニックになる。
 もう限界だよ。
 祐一に話そう。今大変そうだけど、家族なんだし、もし真琴が祐一に会うために人間になったのなら――
「ゆうい…」
 そう決めたのに、ノックする寸前、部屋の中から声が聞こえてくる。
『くそっ、くそっ…』
『本当にどうにもならないのか…』
「……」
 上げた手を、空しく下ろすしかなかった。
 言えないよ…。今の祐一に、さらに負担なんてかけられない。
 どうしてこう、悪いタイミングが重なるんだろう。











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【1/29】

 香里は今日もお昼抜き。
 祐一はなんだか苦しそうな顔をしている。
 あっちもこっちも状況は悪くなるばかりで、でもわたしは部外者だから原因は分からないまま。いっそ全部忘れて何もしないでいようかとも思った。
(――けど、そういうわけにもいかないよね)
 今日は部活が休みだし、何かできるとしたら今なんだけど…祐一は放課後になるなり飛び出していってしまった。
 香里は心配だけど、真琴も心配だよ。どうしようか…。
 あれ?
(ま、真琴?)
 一瞬見えた気がして窓際に駆け寄ると、確かに校門のところに真琴がいた。力を振り絞って、迎えに来てくれたように見えた。
 振り返ると、香里が鞄を手に通り過ぎていく。
 とっさに、その腕を掴んでいた。
「香里っ!」
「な、何よ」
「帰りに百花屋に寄るから。付き合って」
「あたしは、食欲が…」
「甘い物は別腹っていうよっ」
 強引に香里の腕を引いて校門へ行く。
「真琴、お待たせ」
「あぅ…」
 真琴は香里を見て、わたしの後ろに隠れてしまう。
「誰?」
「真琴っていうんだよ。うちにいる子。真琴、この子は香里で、わたしの友達だよ」
「ともだち…」
「ま、よろしくね」
「うん…」
 三人で並んで商店街へ向かった。ほとんどわたし一人で喋ってたけど…。
 でも百花屋に入ると予想外。祐一が、彼女と一緒にテーブルに座ってる。
 ど、どうしよう。
 わたしは平気だけど。本当に平気なんだけど、真琴にこんな光景を見せていいんだろうか。
「あ、真琴」
 でもわたしの心配を知ってか知らずか、真琴はさっさと祐一のテーブルに行ってしまった。
「あれ、真琴。何でこんなとこにいるんだ?」
「お知り合いですか?」
「ああ、真琴っていう…」
「祐一〜」
 仕方ないので、わたしたちも声をかけて同席させてもらう。
 女の子は栞ちゃんといって、可愛い子だった。
 ジャンボミックスパフェデラックスが運ばれてくる。イチゴサンデーは中止して、そっちをみんなで食べることにした。先に約束を残しておくのは、今はいいことだと思うから。
 けど、真琴はもうスプーンも持てず、わたしが食べさせてあげる。
 奇異の視線を向けられるんじゃないかって、こわごわ顔を上げると、そんなことはなくて栞ちゃんは心配そうだった。
「ち、ちょっと手の調子が悪いんだよ」
「ええと…ご病気ですか?」
「ううん、病気じゃないんだよ。お医者さんは何ともないって言ってたし」
「そうですか。それなら良かったです」
 栞ちゃんは心底安心したように息をついた。優しい子なんだ。祐一にお似合いの。
 それから会話があって、その流れの後…
「栞は、あたしの妹なんだから…」
 その香里の言葉で、小さな会合は終わった。

 香里に急かされて、店の外に出る。
「香里…」
「ごめん、今は何も聞かないで。そのうち話すから」
「うん、待ってるよ」
 真琴は不思議そうに香里の顔を見ていたけど、歩き出そうとして転びかけ、慌ててわたしが支える。
「あぅ…」
「大丈夫? 調子悪そうね」
「うん…ちょっとね」
「今日はもう帰りなさいよ。買い物に付き合うのはまた今度でいいから」
「そうするよ。ごめんね」
「馬鹿ね」
 ありがとう、と小さく言って、香里は行こうとする。
「香里」
「元気よ」
 振り返った香里の顔は、昔の強気で堂々とした香里のものだった。
 肩の荷がひとつ、下りた気がした。


 家に帰って、わたしの部屋に行く。
 真琴はベッドに座って、ぴったりとわたしに寄り添っていた。わたしも今は、真琴のことだけ考えよう。
 改めて見回すと、何の娯楽もない部屋だ。
「そうだ。お絵描きでもしよっか」
 悲しいけど、今の真琴にできることはそれくらいしか思いつかない。ロッカーの奥を探す。確か昔使ったスケッチブックが…
「…あった」
 真琴の前に置いて、さらに昔使ったクレヨンを探す。ようやく見つけて振り返ると、真琴がスケッチブックを広げていた。
「あ…」
 紙一杯に描かれた、ウェディングドレス姿のお嫁さんの絵。
「あ、あはは。恥ずかしいよ〜」
 まだ小さかった頃の、下手くそな、でもいつかこんな未来が来るって、何の根拠もなしに信じていた絵。
 自分では直視できないそれを、真琴はじっと見て、ぽつりと言った。
「けっこん、したい…」
「え…」
 わたしも我慢して絵を見てみる。直視できないどころか、丸めて捨てたくなる。
「そ、そうだよね。女の子の憧れだもんね」
「そうしたら、ずっといっしょにいられる…」
 息をのむ。祐一はまだ帰らない。
 隣の部屋には誰もいない。わたしは…
 自分でもよく分からないまま、俯いて謝っていた。
「ごめんね…」

 祐一はもちろん悪くない。栞ちゃんも悪くない。ただ。
「真琴もわたしも、祐一と結婚はできないんだよ…」
 ただ、どんなに想っても願っても、叶わないことはあるというだけ。
 七年間、そんな風に考えて生きてきたわたしの、その頬に…
 真琴はそっと手を添えて、言った。

「――なゆきと」

 押さえきれなかった。
 見開かれたわたしの目から、ぼろぼろと涙がこぼれだす。
「うん…」
 ずっとわたしの中に、澱のように沈んでいたものが、浄化されていく気がした。
「うん…。そうだね、真琴…」
 泣き笑いのまま、真琴を抱きしめる。真琴も嬉しそうに抱きついてくる。
 わたしを必要としてくれている。
 やだ。離れたくない。
 一瞬の奇跡だなんて、思いたくない。
 その夜は、真琴を抱きしめたまま一緒に眠った。
 温もりを求めているのは、わたしの方なのかもしれなかった。


【1/30】

 いっそ休もうと思ったけど、お母さんに窘められて学校に行った。
 土曜日だから、授業は午前中で終わる。それまでの我慢。
 部活は…。
「珍しいわねぇ。水瀬さんが休みなんだて」
「その、どうしても外せない用事があって」
「いいのよ。いつも真面目に出てるんだから、たまにはね」
 顧問の先生に頭を下げる。ごめんなさい先生。ごめんみんな。今日だけは許してください。
 授業が終わると同時に、ダッシュで外に出る。隣を祐一が走っている。
「祐一も?」
「ああ、外せない用事だ」
「わたしもだよ」
「…俺の方は、もうすぐ終わりだから」
 え…。
 思わず立ち止まっている間に、祐一は先に行ってしまった。
 わたしも、もうすぐ終わりなんだろうか。
 ぶんぶんと頭を振って、走りを再開する。
 家に着いて階段を上がろうとすると、着替えてきた祐一と鉢合わせした。
「誰もいないみたいだぞ」
「二人で買い物かな?」
「かもな」
 一息ついて、祐一を見送ってから、念のため真琴の部屋のドアを開ける。

 ――部屋は、もぬけの殻だった。


「あ、あれ…」
 真琴がいないだけじゃない。
 漫画や、お菓子や、真琴のものは全部消えていて、布団は部屋の隅に折り畳まれている。
 …お、大掃除。うん、大掃除でもしたんだよ。
 自分に言い聞かせながら自室に入ると、机の上に何か置かれているのが見えた。
 手紙…?
『名雪へ』
 顔から血の気が引いていく。
 震える手で手紙を取ったとき、背後で扉が開いた。
「名雪…!」
「お、お母さん?」
 そこらを走ってきたみたいに、息を切らせている。慌てているお母さんなんて、初めて見た。
「真琴は? 帰ってない?」
「う、うん。いないよ…」
「ああ、どうしたのかしら。お昼の準備をしている間に、姿を消してしまって…名雪!?」
 お母さんの話が終わる前に、わたしは家を飛び出していた。

 一直線に走る。こういうとき、長距離選手でよかったと思う。
 ものみの丘へ。
 あの場所しか考えられず、でも、外れてくれればいいと思ってる。
 途中で信号に引っかかって、待っている間に握ったままの手紙を広げた。
『名雪へ』
 うまく動かない手で書かれたそれは、読むのに少し苦労しそうだ。
 そして一見して、上の方が漢字が多く、下へいくにつれてひらがなばかりで、字も崩れている。
 何日かかけて書かれたのかもしれない。
『ごめんなさい。真琴はやっぱりキツネだったみたいです』
(………)
 もう、わたしにそれを否定する力は残っていなかった。
『これ以上ごめいわくはかけられないので出ていきます。おせわになりました』
「ばかっ…」
 思わず声が漏れるけど、手紙には続きがある。
 青になったので走って、次の信号でまた読む。
『出ていけませんでした。このうちにいたいです』
 前の文から少し空けて、さらに崩れた字でそう書かれていた。
 この文を書くまでの間、何を考えていたんだろう。
 何度も出ていこうとしたんだろうか。
『なゆきへ ありがとう なゆきはかんけいないのに、ふくしゅうあい手のいえにいた女の子だってだけなのに、まことにとてもやさしくしてくれました なゆきのおかげでしあわせでした』
(幸せだったのは、わたしの方なのにっ…)
『あきこさんとぴろと、ついでにゆういちにおれいをいっておいてください まことのことはわすれてください』
 走る。そんなお願い、聞けるわけない。
『なゆき』
 手紙の最後は、わたしの名前が三つほど続いて、あとは読みようのない線が書き付けられていた。
 わたしの名前だけを、必死で書いてたんだ。
 それだけは忘れたくなくて。
(真琴っ…!)
 半泣きになりながら山に突入し、一気に山道を駆け登った。
 視界が開ける。
「真琴!?」

 広がる草原に、一瞬、真琴が倒れているように見えた。
 けれど駆け寄ってみると、それは真琴の服だけだった。そして――
 その中に、小さな狐が横たわっていた。

「う――そ」
 この期に及んでも、まだ目に映るものが信じられなかった。
「ま…こと…?」
 震える手で、狐の体を抱き上げる。
 少し開いた瞳に、わたしの顔が映った。
「真琴っ! ねえ、しっかりしてよ真琴っ!」
 温かい体温が、急速に冷えていく。弱々しく、わたしの顔に手を伸ばそうとして、そして動かなくなる。
「じ、獣医さんに…!」
 身を翻して、山道を下りようとする。けれどその前に、真琴の体が淡く光り始める。
「な…! ま、待ってよ真琴っ…!」
 光の粒になって消えていく。そんな非現実的な光景。
 お医者さんにも獣医さんにも、どうにもできそうにない。どうしよう。誰に助けを求めればいいの。
「お…お願いしますっ!」
 わたしは思わず、丘に向けて叫んでいた。
「真琴を助けてください! まだ足りないんです。イチゴサンデーも一緒に食べてない。もっともっと、楽しいことはたくさんあるのに…!」
 他に思いつかず、この丘の住人、ものみの丘の妖狐たちへ。不思議な力の持ち主へ懇願する。
 その間にも、真琴の体は消えていく。
 わたしには何もできない。
「お願い…します…」
 真琴が跡形もなくなり、その場に座り込んだ後も、わたしはただ頭を下げ続けた。


 泣きながら真琴の服を集めていると、背後に人の気配がする。
「結局、こうなってしまったようですね」
「天野さん…」
 悲痛な面もちで、天野さんが佇んでいた。
「…ごめんね。この前は信じなくて」
「お気になさらないでください。普通は信じません」
 天野さんは軽く頭を振り、真琴の服を見る。
「それでも、あの子は十分幸せだったと思います。目的も果たせず消えてしまうところを、あなたのお陰で人の温もりを知れたのですから」
「そんなことないよ…。全然、足りなかった」
 もっと色んなところへ行って、色んな話をしたかった。
 ずっと一緒にいてほしかった。
「…帰ろう、天野さん」
「大丈夫ですか」
「うん…。お母さんが心配してるから」
 思考が停止したように、機械的に山を下りる。
 道路に出たとき、現実に戻ってきてしまったんだと、そう思った。
「ねえ。何か方法はないのかな。真琴が帰ってくる方法…」
「命を犠牲にしたのです。酷なようですが、それは無理というものです」
「うん…」
 丘を見上げる。
 不思議な出来事の後で、丘は変わらぬ姿を見せていた。


【2/1】

 翌日、正確には翌々日の深夜に、祐一が雪まみれになって帰ってきた。
「おかえり。何か食べる?」
「ああ…いや」
 その手には一冊のスケッチブック。
 玄関に座り込んだ祐一の頭から、わたしはそっと雪を払い落とす。
「俺さ、栞と別れてきたんだ…」
「…そう」
 絞り出すような祐一の声。それが引っ越しや喧嘩別れなんかじゃないのは、わたしにも分かった。
「わたしも、真琴とお別れしたんだよ」
「ああ…。あいつ、いなくなったのか…」
「うん…。でも、いつかまた会えるよ」
 この一日、真琴のいない時間を過ごして、わたしはそう考えることにした。
 だって、不思議な出来事だったんだから。
「いつになるか分からないけど、わたしはそう信じてるよ」
「そうか…。俺はそんな風には思えないな」
 道が違うのは仕方ない。わたしと祐一は別の人間だし、状況も違うから。
 でも、前に歩くという点では同じでいられるようにできると思う。
 …わたしたちは家族だから。
「コーヒーでもいれようか」
「…ああ、頼む」
 もう2月。
 春まで、あと少しの辛抱だった。



【Epilogue】

 街中で、時々ぴろを見かけるようになった。
 嬉しくて抱きついてたけど、くしゃみを浴びせられるのが嫌になったのか、最近はわたしの顔を見るなり逃げ出している。とっても悲しいよ…。
 そしてわたしは二年生最後の月に入り、部活のない日は一年生の教室に行った。
「美汐ちゃーん」
「またですか…」
「うんっ。今日こそは付き合ってもらうよ」
「…仕方ないですね。一度行かないと諦めそうにもないですし」
「わ、来てくれるの? やったよ〜」
 ようやく美汐ちゃんを連れ出すことに成功して、話ながら商店街へ向かう。
「そこのイチゴサンデーがおいしいんだよ」
「私は和菓子の方が好きなのですが」
「まあまあ、本当においしいんだから。いつか食べに行こうって、真琴とも約束してるんだよ」
「……」
 楽しそうに真琴の話をするわたしを、美汐ちゃんは不思議そうに見つめた。
「まだ、あの丘に行っているのですか」
「…うん」
「お気持ちは分かりますが、真琴はもう…」
「そうとは限らないよ」
 祐一なら潔く現実を受け止めるのかもしれないけど。結局わたしは、諦めの悪い人間なんだと思う。
 振られた相手を、七年間も好きでい続けるような。
 それを溶かしてくれた真琴だからこそ、今度は自分の意志で諦めないことにした。
「狐さんにお願いしてるんだよ。妖狐の力で、真琴が帰れるようにしてくださいって」
「狐さんにお願いって…。童話やファンタジーではないのですよ?」
「童話やファンタジーだよ」
「……」
 ことあの丘に関する限り、わたしはその世界に足を踏み入れた。
 そこは常識や理屈が通用しなくて、それならもう一つくらい、不思議なことが起こるかもしれない。
 もちろん起こらないのかもしれないけど、半々なら信じるのに十分だよね。
「そうですか。私はそんな風には考えられずに、ただ絶望してしまいましたが」
「美汐ちゃん…。で、でも今からでも」
「良いのです。私の方は、長すぎる時間が過ぎてしまいました。今はせめて…私も、真琴が戻ることを祈ることにしましょう」
 そう言って、美汐ちゃんは少しだけ微笑んだ。
「水瀬さんには強くあってほしいと願っていたのですが、願う必要もなかったようですね」
 笑顔で答える。
「わたしは、脳天気だからね」

 そして休日には丘へ登る。
 草原の片隅に小さな社があったので、油揚げをお供えして柏手を打つ。
 どうか、真琴にもう一度人間の姿を与えてください。
 それから虫のいいお願いですけど、もし不思議な力に余裕があったら、祐一や香里や栞ちゃんや美汐ちゃんや、みんなが幸せになれるようにしてください。
 丘の上から街を見る。
 すっかり雪は溶けて、ここからも人の営みが見えるような気がしてくる。
 真琴が憧れるのも無理はない。ううん、憧れてくれてよかった。

 桜が少しずつ開いて、人々の心を沸き立たせる頃。
「祐一〜、どこ〜」
 学食でAランチを受け取って、先に行った祐一を探していた。
 いないよ…。外にでも行ったのかな。暖かくなってきたし。
 お盆を持ったまま渡り廊下に出ると、香里が何か見ている。
「香里?」
「あ…名雪」
 見ていた先は中庭。
 栞ちゃんが、祐一に抱きついて涙を流していた。
 それを見ても暖かいままでいられたのは、やっぱり真琴のお陰だと思う。
(良かったね、祐一)
 香里がわたしの顔を覗き込む。
「姉としては嬉しいけど…。名雪は本当に良かったの?」
「え、なんで? 二人とも幸せそうだよ」
「…そ」
 香里は手を伸ばして、ちょんとわたしの額をつついた。
「名雪は、きっと幸せになるわよ」
「そ、そうかな」
「当たり前じゃない。名雪みたいないい子は、そうならないとおかしいわ」
 照れくさくて、はにかみながらお盆を掲げる。
「香里はお昼まだ? 一緒に学食で食べようよ」
 わたしの提案に、香里は笑いながら言った。
「イチゴのムースはあげないわよ」


 満開を過ぎると、桜はどんどん散って、雪のかわりに道を覆う。
 その光景を見ると、さすがに寂しくなった。
(真琴、もうすぐ春が終わっちゃうよ…)

 本当は、不安がないわけじゃない。
 もう戻ってこないのかもしれない。あれでお別れだったのかもしれない。
 それでも、人知の及ばない出来事だったから、それだけを希望に道を歩く。
 どんな想いも叶う日がくるって、そう思わせてくれた女の子のことを考えながら。

 いつの間にか、あの時の歩道橋に来ていた。

 足下を風が吹き抜けて、そして、光の粒がきらめいた気がした――


「な… なゆきっ!」


 ――振り返る。
 あの時のまま。
 いなかった時間が嘘みたいに、真琴がそこにいた。
「え、えっと…。あたしのこと、まだ覚えてる…?」
 忘れるわけ、ないよ…。

 涙を抑えながら、待ち望んだ相手に手を広げる。
「おかえり、真琴」
 一瞬喜んで、でも真琴は、少し躊躇した。
「あ…。それ、あたしの名前じゃなかったから…」
「でも、この名前好きなんだよね?」
「う、うん…」
「じゃあ、真琴だよ」
「うんっ…!」

 そして、真琴はわたしの胸に飛び込んでくる。
 確かな温もり。想いを感じて、強く、強く抱きしめる。
「真琴」
「あうぅっ…」
「泣いてる?」
「泣いてないっ…」
「そう…」
 ――わたしは、泣いてるよ。

「あはははっ」
 久しぶりの街がよっぽど嬉しいのか、真琴は手を広げてくるくる回っていた。
 春の陽が、光の雫になって飛び散っているみたい。
「真琴〜。待ってよ〜」
「もう、名雪って相変わらずぼーっとしてるわねっ」
「うー。そんなことないよ」
「ほんと、真琴がついてないと心配でしょうがないんだからっ」
 ふんと胸を反らして偉そうに言う真琴に、わたしは思わず吹き出してしまう。
「あーっ、何よぅ」
「何でもないよっ」
 言ってから、真琴の顔をじっと見る。
「狐さんって人間になるんだねぇ」
「あぅ…。そのことは深く突っ込まないでよぉ」
「うん。でもわたし、狐さんも大好きだよ」
「あ、あぅ」
 真琴は赤くなりながら、わたしの隣に来て手を繋いだ。
 その時…
 頭上に咲いた桜から、僅かに残った花びらが舞い降りてくる。
 小さな妖精か何かのように。
「――これが、春なんだね」
 手で受け止めて、真琴が呟く。
「うん。これが春だよ」
「終わっても、何度でも来るんだよね」
「うん。何度でも」
「次の春も、名雪と一緒だよね」
「そうだね。真琴がずっと、わたしと一緒にいてくれるなら」
「い、いるわよ。名雪が、指切りしてくれるなら」
 差し出された小指に、自分の指を絡める。二人で笑いながら。
 不思議。狐だった女の子が、たまたまわたしと出会って、こうして約束している。
 こういうのを、何て言えばいいんだろう。
 うん。<奇跡>。
 やっぱり、そう呼ぶんだろうね――。









<END>








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少女と不思議の変奏曲:後書き


 こんぺ第三回中編での七瀬友紀さんの「Disenchant」を読み、なゆまこもいいなぁと思いまして、ちょっと書いてみました。
 真琴シナリオの名雪は意外と現実的で医者に診せろと言ったり、狐うんぬんも最後までスルー気味だったりするので、そのあたりも絡めて。


(04/09/28)   





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