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§3
§4
§5
一括
この作品は「CLANNAD」(c)Keyの世界及びキャラクターを借りて創作されています。
CLANNAD全体に関する重大なネタバレを含みます。
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§3
渚が、妊娠、した。
二人が愛し合っていた最中は、目を閉じ耳を塞いでいたわたしも、事ここに至ると現実を直視せざるを得ない。
…わたしに、母子両方の命を支える力はない。
* * *
あの創立者祭から十ヶ月間、年度の終わりまで力を蓄えた渚は、次の一年を使って、何とか高校を卒業した。
高校さえ出れば、あとは自由な道を進めるのが彼らの一生であるらしい。
岡崎君とも結婚したし、余生をのんびり生きていく限りでは何とかなると、そう安心した矢先だった。
…忘れていた。結婚の次には、出産が来るものなのだ。
「女の子なら、きっと渚に似て可愛い子になるよな」
「い、いえっ。男の子なら朋也くん似のかっこいい子になりますっ」
「かあっ。生まれてもいない内に、呆れた親バカどもだぜ」
「秋生さんも昔、同じことを言ってましたよ」
「なにっ、マジかっ」
「やっぱり二人は似た者同士なんですねっ」
『のおおおーーーっ!』
和気あいあいの一家だが、今の渚に人ひとりの命を新たに産み出す力はない。
このまま推移すれば、確実に死産になる。
一度で諦める渚ではないだろうから、その次も、その次も死産になる。
その時の彼らの表情なんて、想像したくもなかった。
(かといって、子供の方を助けようとすれば、渚が死んじゃう…)
…諦めてもらうしかない。
子供なしでも、幸せに暮らす夫婦はたくさんある。そう考えてもらうしかない。
ぐずぐずしている暇はなかった。相変わらず時の流れは速く、自宅出産がいいとか、名前は汐に決定とか、もうそんな話をしている。
悩んだ挙げ句、わたしは渚を支えている力を徐々に弱めた。
しばらくして、渚の身体は発熱する。
歓迎一辺倒だった周囲も、反対へと旗を変えていく。
「子供さ…。産むの…難しいってさ…」
けれど…。
「わたし、産みたいです」
渚は頑固だった。
「わたしの強さで産んであげたいです。母親の強さで…」
強さとか弱さとか、そういう次元の問題ではないのだけれど…。
渚は、そう思い込んでしまっている。
そろそろ付き合いも長い。一度こうと決めた渚が、どれだけ頑固か十分承知していた。一方で、その頑固を貴けば、何らかの死が待っていることも。
時間もない。堕ろすなら今すぐでないと間に合わない。
今まで守ってきた一線を、越えることを決意するしかなかった。
…渚と直接話をするのだ。
「渚や、渚や、起きなさい」
布団の中、熱でぼんやりとしている渚に、なるベく優しく声をかける。
誰の目にも見えず聞こえないわたしだが、唯一渚だけは例外だ。内側から語りかけることができる。
目を開けた渚には、何もない場所に、あたかも白い靄があるように見えているはずだ。
「ど、どどどどなたですかっ!?」
「え、ええと…わたしはあなたのご先祖様です」
「そ、そうでしたか! あなた様のお陰で今のわたしがありますっ。なむあみだぶつなむあみだぶつ」
拝み始める渚に軽く咳払いして、わたしは本題に入る。
「渚、あなたのしようとしていることはとても無謀です」
「え…」
柔らかな笑顔が反転する。
「それはやっぱり、出産のことでしょうか…」
「そうです。このままではあなたの命が危ないと、周りから言われているはずです」
「で、でもっ。自分が助かるために、しおちゃんの命を犠牲にするわけには」
「人工中絶に強硬に反対している人たちですら、母体に危険が及ぶ場合は致仕方ないと認めています」
「でもっ…」
「渚や、あなたは考えたことはあるのですか。もしあなたに万一のことがあったら、残された家族たちがどれほど悲しむか」
「………」
渚との付き合いも長い。どこを攻めるのが有効か、わたしはよく分かっている。
「あなたの死は、家族を不幸の底へ叩き落とすことになります。
あなたはそれで平気なのですか。
いつも家族が大切だと言っていたのは、あれは口先だけですか」
「ち、違いますっ! そういうことでは…ないです…」
意地悪な言い方だが、諦めさせるためには仕方ない。
渚は泣きそうな顔で暫く考えていたが、やがて顔を上げた。その目を見て嫌な予感がする。
「おっしゃる通りです。全部全部、わたしの我がままです。しおちゃんのためなんて言って、結局は自分のためです」
「そ、そうですね」
「だから、もう一度みんなにお願いしてみます。わたしの勝手を許してくださいって。それで許してもらえなかったら…考え直します」
なんて手強い…。
この件について、あの人たちは頼りにならない。何だかんだで渚に甘いから、最後には許してしまうだろう。
仕方ない。これだけは言いたくなかったけれど…。
「実は…。あなたの子供も、あなたと同じ病気になる可能性があります」
「ええっ!?」
はっきり決まっているわけではないが、そうなる可能性は十分にある。
「あなたと同じように、何度も発熱して長期間休むことになるのです。子供をそんな目に遭わせたくはないですよね?」
あれだけ苦労した渚だ。これで分かってくれるだろう。
そう思ったのに、あろう事か渚は優しく微笑んだ。
「遭わせたくはないですけど、産まない理由にはなりません」
「どうして…」
「確かに辛い思いもしました。けれど、十分幸せでした。家族がいたから」
渚は目を閉じて、そっと両手を胸に当てる。
「しおちゃんに辛い想いをさせるとしたら、それは申し訳なく思います。でも、朋也くんやお父さんやお母さんがいます。家族さえいれば、きっとしおちゃんは幸せです。生まれてきて良かったって思ってくれます」
渚は一旦言葉を切って…
「…そうでなければ、わたしだって、生まれてこない方が良かったことになってしまいます」
紋り出すように言われたそれは、わたしにそのまま跳ね返ってきた。
そうだ、辛いから生きない方が良いなどと言ってしまったら…。
わたしだって、あのとき渚を助けない方が良かったことになってしまう…。
(…ここまで、か…)
元より、深く立ち入り過ぎている。これ以上の干渉はできない。
「それでは、あなたは出産の日に死にます」
「――はい…」
「…死にます」
そう言ってわたしが消えた後も、渚は色々と考えていたが、やがて眠りの底へ落ちていった。
そこまでの覚悟があるなら仕方ない。
渚の願いを叶えよう。子供の命を助けよう。
ああ、それでも後にして思えば、このときわたしは彼女らに毒され過ぎていたのだ。
前提を簡単に信じてしまったのだから。
『家族さえいれば幸せ』だなんて、そんな前提を疑いもしなかったのだから――。
* * *
渚が煙になって昇っていく。
それを見送ってから、汐の体に戻った。
「しおちゃん、おねむですかー? それじゃ、おねんねしましょうねぇ」
汐の面倒を見ているのは祖母……早苗さんだ。
いつものように優しい、優しすぎるくらいの声。
秋生さんは、普段の豪快さはなりを潜め、ただ神妙に諸々の手続きを進めている。
岡崎君はといえば、葬儀の間も抜け殼のようになっていた。
今は無理のないことであるが、一刻も早く立ち直ってほしい。何より、最後に渚と約束していた。
『これから先、どんなことが待っていようとも…、わたしと出会えたこと、後悔しないでください』
『ずっと…いつまでも、強く生きてください』
『ダメ、でしょうか…』
『わかった…後悔しない…。強く、生き続ける』
そう、言っていたのだ。
それより、赤ん坊の命は予想以上に難しい。
蝋燭自体が小さいから、火が強すぎでも弱すぎても消えてしまう。汐が十歳くらいになるまでは、厳しい舵取りを強いられそうだ。
でも、渚が命を賭けて遺した子供だ。何としても守り抜かないと。
家族の中で、普通に幸せに成長してくれさえすれば、大丈夫とは思うけど…。
「…朋也の奴は、また駄目か」
「そうですね、もう少し時間が必要です…」
数ケ月が過ぎてゆき、二人の間でそんな会話が何度も繰り返されるようになった。
(ま…まあ、まだ猶予はあるよね。今の汐には、父親の状態なんて分からないし)
乳児の間は大丈夫。世話さえしてもらえれば、複雑なことは関係ない。
とはいえ、除々に汐の意識も明確になっていく。
何もなかった世界に、少しずつ区分が生まれていく。食べ物、動く物、守ってくれる存在…。数千年前、わたしの意識が生まれたときも、こんな感じだったのだろうか。
晴れていく視界の中に、相変わらず父親の姿なたい。
代わりに、不安の雲が顔を見せ始めた気がした。
* * *
不安は的中した。
期待は裏切られた。
あの男は、育児を放棄した!
汐は三歳になったというのに、状況は何も変わっていなかった。
岡崎君は渚との約束も守らず、腑抜けたまま酒と煙草に溺れていた。
それを早苗さんが、よせばいいのに汐を連れていくものだから、わたし達は暗い視線を浴びる羽目になる。
「…すみません、帰って下さい…」
「朋也さん、もう三年です。いつまでも、このままというわけにはいかないでしょう?」
「…早苗さんとオッサンには、本当に悪いと思ってます。でも俺、駄目なんですよ…」
ずっと俊巡していた汐が、意を決したように口を開く。
「ぱ……パパ……」
言われた相手は、反射的に顔をそむけた。
拒絶と忌避。汐の小さな心に突き刺さる。
(わたしに実体があれば、殴ってやるのにっ…!)
別に義憤だけで言っているわけではない。汐の心が沈んでいく。それは、岡崎君と会う前の渚と同じだ。
生きる力が減じていく。ただでさえ、子供の弱い命なのに、このままじゃ…。
(汐が大きくなるまで、保たないかもしれない…)
「…また来ますね」
無論早苗さんには知る由もない事だから、彼女はそう言って帰っていった。
「まだ駄目か…」
「もう少し時間が…」
二人は相変わらず、同じ会話を繰り返している。
要は、あんな奴は切り捨ててしまえば良いのだ。秋生さんと早苗さんが、親として汐を育てればいい。現に、事実上そうなっているのだし。
なのに、この二人は大事なところで抜けていた。
一見立派な親に思えるが、渚を死なせた時のように、肝心なところで失敗しているのだ。
「なあ汐。あんな男でも、お前のパパなんだ。それを決して忘れねぇようにな」
「…あっきーは…?」
「俺はパパじゃねえ。何度も言わせんな」
「わたしもママではありません。おばあちゃんですよ」
「まあ俺もおじいちゃんだが…。決してそう呼ぶな、アッキーと呼ベ」
「う、うん…」
気持ちは分からないでもない。岡崎君がいつか立ち直ってくれると信じて、自分たちは一歩引いているのだろう。
でも、そのせいで汐が辛い想いをしている。
町の力は、もうほとんど残っていない。あれからまた開発が進んだ。変わっていないのは、秋生さんが祈ったあの場所くらいだ。
汐自身に生きる希望がないと、成長するまで命が保たない。
二人にはそんなの知る由もないから、岡崎君の成長を待つなんていう、悠長な事ができるのだろうけど…。
(…また、干渉するしかないのかな)
事態を打開するには、わたしから二人に…といっても直接は話せないので、汐を通じて…伝えるしかない。
(人の営みに、干渉すべきでないけど…)
頭を横に振る。もう今更だ。今まで散々関わってきたのだ。躊躇したって仕方ない。
絶対に、汐を死なせるわけにはいかない。
汐の人生が短命に終わったら、いったい渚は、何のために命を懸けたのか分からなくなる。
わたしにしか、何とかできないんだから…。
「汐や、汐や、起きなさい」
一度失敗している方法ではあるが、他にしようがない。
「だあれ…?」
眠い目をこする汐に、私はできるだけ優しく言った。
「…わたしは、あなたのママの知り合いです」
「ママの!?」
汐は目を見開いて飛び起きる。
実際には渚は、わたしの存在なんて知らないまま逝ってしまったけど…。
「ママは!? ママはどこ!?」
「お、落ち着いて。ママはいません」
しょぼんとする汐に、胸が痛くなる。やっぱり、今の状況は間違いなのだ。
「汐。本当は寂しいんですよね? 辛いんですよね?」
「………」
「なら無理をしないで、秋生さんと早苗さんに正直に言うのです。あの二人は気付いてないだけ。汐が言えば分かってくれます」
「……?」
「あの二人が、汐のパパとママになってくれます」
「……!」
汐は一瞬固まってから、ゆっくりと目を伏せた。
「…さびしくないもん…。しおは、つよい子だもん…」
「ね、ねえ汐。あなたは子供なんだから、そんなに我慢しなくていいの。辛かったら、泣きついてもいいんです」
「…でも、さなえさんが」
「早苗さんが?」
「ないていいのは…。おトイレか、パパのむねだけだって…」
なんて残酷な…!
パパの胸とやらが現実に何の役にも立っていない以上、一人で泣けと言われているも同じだ。
「あの人たちの言うことは間違いです!」
「まちがい…?」
「そうです! あなたのパパなんて、あなたに何もしてくれないじゃないですか。あんなパパじゃ嫌だって、周りに言ってやるんです。そうしないとあなたは…」
「パパの…」
「え?」
「パパのわるくちを…いうなぁぁーーっ!」
叫びと同時に衝撃が襲う。
わたしは弾かれるように、汐の意識から追い出されてしまった。
あまりのことに呆然として、数瞬後に我に返ると、汐はガラス状の壁の向こうで耳を塞いでいる。
「ご、ごめんね汐。パパの悪口を言いたいわけじゃないの。ただ、このままだとあなたの身が保たないことは分かってほしくて…」
ガラスを叩きながら呼びかけるが、汐はいやいやをするばかりで聞こうとしない。
何て事。あんな状態の岡崎君でも、汐は父親として慕っているのだ。
汐は何かに耐えるように、ぎゅっと目を閉じている。わたしの言葉を、自分の弱さが生み出したものと思っているのだろうか。
(毋子揃って、そこまで無理に強くならなくてもいいのに…!)
何度も、何度も呼びかけたが、そのたびに汐との距離は遠ざかっていった。
数ヶ月同じことを繰り返し、そうして、わたしは汐との会話を諦めた。
わたしに出来たはずの唯一の手段は、何の成果もなく終わった。
それはつまり、わたしには何も出来ない、ということだった。
(岡崎君…)
意識を飛ばして、彼の様子を見下ろす。
汐の欠けた部分を埋められる存在は、渚の写真を眺めて一人で涙している。
「ばか! そうやって悲しいことから逃げている間に、もっと悲しいことが起きるんだから! 渚の遺志も無駄になって、結局何もかも消えちゃうんだから!」
わたしの声は届かない。この世界の住人ではないから。
殴ろうとする手はすり抜ける。この世界のものではないから。
…これは、自分の世界を捨てた報いなのだろうか。
汐の命は消えていく。
何一つ出来ない、ただ刻限が迫るのを待つだけの時間に、わたしの気は狂いそうだった。
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