§1
§2
§3
§4
§5
一括
この作品は「CLANNAD」(c)Keyの世界及びキャラクターを借りて創作されています。
CLANNAD全体に関する重大なネタバレを含みます。
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§5
「今日は、少し遠出をします」
新しい家族が増えてから一ヶ月。
ご飯を口に運んでいた朋也くんは、箸を止めて顔を上げました。
「ああ、そういや一ヶ月検診だったな」
「それもありますが、それだけではないです。みんなにしおちゃんを見せて、この町でのママさんデビューを果たそうと思います」
拳を握って決意しますが、なぜか朋也くんは呆れ顔です。
「ママさんデビューって…具体的には何をするんだよ」
「それは…よく分かりませんが、『あーら奥様オホホ』とか言うのではないでしょうか」
「そんなこと真顔で言われてもな」
「いえ、これはとても大事なことです。今こそわたしは母として生まれ変わるんです。マダム渚ですっ」
「ブフー!」
朋也くんの口からごはん粒が吹き出し、ちょっとショックなわたしです。
「なんで笑うんですか…」
「だってマダムって、お前みたいな童顔がマダムって! ヒー苦しい」
「実家に帰らせていただきます」
「なにっ! …そうか、終わりとはこんなに呆気ないものなんだな…」
「え!? いえ、あのですね、今のはほんの冗談で…」
「ブフー!」
「ああっ! もう、朋也くんは意地悪すぎますっ!」
そう抗議したときです。玄関が勢いよく開いて、見なれた人影が飛び込んできました。
「アッキー参上! 大丈夫か渚! 意地の悪い夫にいじめられてんのかそうなんだなぁぁぁっ!」
「よう、お爺さん」
「小僧てめぇ…。お前は今、人類減亡のスイッチを押した」
「そんなことで人類滅亡させないでくださいっ」
「つーわけで渚の遠出には俺が付き添ってやるぜ。小僧はとっとと仕事に行ってきな」
「アンタも働けよ! ったく早苗さんにばっか苦労かけやがってこのオッサンは!」
「ぬあんだとぉ、こっちは早起きしてパン焼いてんだぜ! 寝ぼけてジャムパンにアンコを入れるくらいだぜ!」
「それジャムパンじゃないだろ!」
「あ、あの、あんまり大声を出すと…」
わたしが止めるのも間に合わず、ベッドから泣き声が響き渡ります。
おぎゃあ おぎゃあ
「わわ、しおちゃんっ! はい、よしよしですっ」
「「やべ…」」
「…ふ〜た〜り〜と〜も〜!!」
「「渚、強くなったなっ! 鬼のよーにっ!」」
「何をぴったり呼吸合わせてるんですかっ! もう、早く食べちゃってください、片づきませんからっ!」
「ハイ…ゴチソウサマデシタ…」
ご飯を食べて仕事に出かけていく朋也くんの背中には、大人の哀愁が漂っていました。
「ち、ちょっと厳しく言い過ぎたかもしれませんっ…」
「なーに、気にすんな。父親なんてそんなもんだ」
とにかく片付けを済ませてから、しおちゃんを抱いて病院に出発しました。
ちょっと遠回りして、近所の人にしおちゃんを見せていくあたり、わたしもちょっと親馬鹿かもしれません。
「汐ちゃん、本当に可愛いわねぇ」
「えへへ…嬉しいです」
「秋生さんも、すっかりいいお爺さんねぇ」
「ぐああああ! その単語を言うなぁぁぁ!」
できたばかりの病院は、柔らかい色で統一されて、とても落ち着く雰囲気です。お父さんは煙草が吸えなくてイライラしていましたが…。
家を早く出たおかげで、それほど待たずに検査は終了しました。
「はい、母子ともに健康です」
「ありがとうございますっ」
お医者さんにお礼を言って、待合室に戻ります。
「お待たせしました」
「どうだった、って聞くまでもねえか」
「はい…健康そのものでした」
自分の言葉に、自分でも不思議になります。
ずっと、身体の弱かったわたし。
しおちゃんを産むことだって、何度も危険だと言われました。それが何故でしょう。出産して以来、前より元気になった気がするのです。
まるで、あの日町中で輝いた光の玉から、命をもらったみたいに…。
「しかし何だな。こんなでかい病院作って、採算は取れんのかねぇ」
「高台の方を開発して住宅地にするらしいですよ。それを見越して作ったらしいです」
「なに、マジかっ」
「はい、広報に載ってました。町が賑やかになって嬉しいですっ」
「…お前は本当に心が広ぇなぁ」
「え?」
「いや、何でもねぇ。そうだな、町が賑やかになるのはいいことだよな」
病院を出るや、お父さんは煙草に火をつけ、満足そうに煙を吐きました。
「この町と、住人に幸あれ」
帰りの道すがら、お父さんはぽつぽつと話してくれました。
「汐が産まれる前な…俺は一瞬思っちまったのさ。渚が助かるためなら、この町が廃れようが滅びようが構わねぇ、ってな」
「お父さん…」
やっぱり、みんなに心配をかけてしまっていたようです。わたしは本当にだめな子です。
それでも…。
腕の中で、すやすやと寝息を立てている娘を見ると、思ってしまうのです。
もう一度同じことがあっても、また同じようにしてしまうだろう、って…。
「でもまあ…」
黙ってしまったわたしの頭を、お父さんは軽く叩きました。
「みんなが幸せなら、それに越したことはねぇや。な?」
「…はいっ」
そうです、全ては上手くいったんですから。
辛かった坂道は終わって、あとは末長く幸せに過ごすだけ。
そのはずなんです…。
「あ、伊吹先生です」
通りに出たところで、見知った顔に出会いました。
「おう、どうも」
「あら、こんにちは。健康診断ですか?」
「はい、そうですっ。先生も病院にご用事ですか?」
「ええ。この子がようやく退院したので、定期的に検査に来てるんです」
「風子は別に検査なんかしなくても健康ですけど。おねえちゃんと芳野さんが言うので仕方なくです」
その時初めて、先生の隣にいる女の子に気が付きました。どことなく先生と似ているような…。
「ま、まさ伊吹先生にこんな可愛い娘さんが!? すみません全然知らなかったですっ!」
「むーっ、それは風子に対する挑戦ですか! こんな大人っぽい風子をつかまえて娘とは、オメガ最悪ですっ!」
「え? え?」
「妹なんですよ…一応」
「あわわわわ。す、すみません何ということを! 子供っぽく見られる辛さはよく知っているはずなのにー!」
「よく分かりませんが、苦悩しているようなので許してあげます。風子は海よりビッグな女ですから」
「ユニークな妹さんだなオイ」
「お恥ずかしい限りです…」
そういえば…伊吹先生の妹さんは、ずっと意識がなかったと聞いたことがあります。
それが最近になって目覚めることができたと…。
しおちゃんが無事産まれたこと、わたしが元気になったこと、何もかもが上手くいきすぎて、一本の線で繋がってるようにも思えてしまいます。まるで、誰かがそうしてくれたみたいに。
と、その風子さんの顔が、しおちゃんに近づきました。
「この子は誰ですか」
「は、はい。わたしの娘です」
「風子にください」
「………。ええええ!?」
娘を赤の他人に持ってかれる!? お父さんもこんな心境だったのでしょうかっ! って、そういう問題ではなく。
「んーっ、あまりにもラブリー過ぎますっ。風子の妹に任命すべきです」
「エキセントリックな妹さんだなオイ」
「ふ、ふぅちゃん、いい加減にしなさい!」
「ちっ…。今日のところは引き下がってあげます」
悪者のような台詞を言ってから、風子さんはふふんと胸を反らしました。
「それに、今の風子にはこの子がいますから」
え…?
いつからいたのでしょう。いえ、最初からいたはずです。
年のころは十歳くらい。髪の長い女の子が、じっとわたしを見ていました。
どこかで見た面影。あれ、わたしに似てる…?
「そ、その子は…?」
「風子が見つけた子ですっ」
「病院の大きな樹の下で見つけたんですけど、身元が分からないんです。警察にも調べてもらってるんですが…」
「そりゃ大変だな。うちの店の客にも聞いてみるぜ」
「よろしくお願いしますね。それじゃふぅちゃん、そろそろ行きましょう」
「風子、急におなかが痛くなってきました」
「それなら、余計に病院に行かなくちゃね」
「おねえちゃんがこんな策士とは思いませんでした」
結局その子は一言も発しないまま、賑やかな二人に連れられていきました。
「どうした渚、そろそろ帰るぜ」
「は、はい、でも…」
さっきの女の子…、
なぜだか、とても気になります。何か、あの子に関係する大事なことを忘れているような、そんな…。
「う、うー」
「あ、しおちゃん。よしよしっ」
しおちゃんがむずがり始めます。この反応は、おしめでしょうか。
「何だ、気になることでもあんのか?」
「いえ、いいんです。それよりしおちゃんのおしめを取り替えないと」
「そんなのは俺に任せときゃいいだろ。気になることがあるなら、スッキリさせてこいや」
「でも、わたしが母親ですから…」
「そーいう考えが育児ノイローゼを産むんだぜ。時には周りを頼らねぇとな。ていうか、ぶっちゃけ俺様にも世話させろぉぉぉ!」
「往来で叫ばないでくださいっ。分かりました、それじゃお願いします…」
しおちゃんを受け取るやいなや、いきなりスキップを始めるお父さんです。
「よーしよし。俺はお祖父さんじゃねぇ、アッキーと呼べ」
「だあだあ」
「真っ直ぐ帰ってくださいね…」
わたしも早く戻らないと…。
きびすを返して、わたしは病院へと駆け出しました。
女の子は病院の敷地内で、樹を見上げていました。
伊吹先生と風子さんの姿は見えません。
その子だけが、まるでわたしを待っていたかのようでした。
「こ、こんにちはっ」
「…こんにちは」
挨拶はしたものの、話が続きません。
何故自分がここへ来たのかも、よく分かっていないんですから。
女の子は、足下の草に目を落としました。
樹の下に残された緑。わたしの今とは切り離せない場所です。
「わ、わたしが…」
気圧されるように、口が勝手に動き出していました。
「まだ小さかったころ、自分の馬鹿さのせいで、命を落としかけたことがありました。その時…」
そう言って、足下の草に手を触れます。
「父がこの場所で必死で祈ると、奇跡的にわしの命は助かったそうです。まるで誰かが、願いに応えてくれたみたいに」
「…どうして、わたしにそんな話を?」
「ど、どうしてでしょう。どうしてなんでしょう…」
そんなことを言われても、言われた方だって困ってしまうでしょう。
けれど、目を逸らした女の子が初めて浮かベた表情は――不審よりも、悲痛をこらえているように見えました。
「正直、わたしはまだ迷ってる」
「え?」
「知らなければ幸せでいられる。ううん、知ったらきっと苦しむことになる。
ずっと、あなた達の幸せを願ってきたはずなのに、そんなのは矛盾している。
でも、それでも…」
それでも、あの子のことを誰も知らないままだなんて。
女の子は何も言っていないのに、わたしには続きが分かりました。
そう…わたしは、この子のことを知っています。
「教えてください」
一も二もなく、わたしはそう答えていました。
「たとえ幸せでも、大事なことを知らないままなんて嫌です。
そんな、弱い生き方なんて嫌です。
わたしは弱い人間ですけど、それでも強くなろうって、辛いことでも受け止められるようになろうって頑張ってきました。
だから…きっと辛い話なのでしょうけど、教えてほしいです」
「…うん…そうだね。あなたならそう言うと思った」
女の子が右手を差し出します。
じゃらん、と音がしたと思うと、鎖に下げられた懐中時計が揺れていました。
「この時計の針を回せば、本来の歴史を見ることができる」
「…本来…」
「不自然な奇跡が起こらなかった、もう一つの結末。わたしが実際に体験した記憶。無理はしないで、止めたくなったら針を止めて。それは決して責められることじゃないから」
わたしは少し震える手で、懐中時計を受け取りました。
奇跡が、起こらなかった歴史。
さすがに少し躊躇します。でも、自分の立っている場所を思い出して…わたしが命を貰った場所に、今は勇気も貰った気がして、思い切って針を回しました。
すぐさま、わたしは思い出しました。
自分の記憶でもないのに思い出すというのも変な話ですけど。
高校生の頃、実際は読んだこともない幻想物語を知っていたように、わたしはその歴史を知りはじめました。
しおちゃんの産声が聞こえます。
子供に命を渡して、わたしの意識は遠ざかっていきます。ここまでは先日も経験したこと。
でも、その後誰かが助けてくれるなんてことはなく、意識はそのまま途切れました。
お父さんとお母さんが何かを叫び、視点は別の誰かに切り替わります。布団の上に見えるのは、満足そうに息絶えた自分の姿…。
「…座ったら?」
「そ、そうですね」
さすがに自分の死体を見るのは、気分の良いものではありません。
樹の根元にしゃがみ込んで、呼吸を整えます。
女の子も、樹を挟んで背中合わせになるように座りました。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。それに、こうなることは覚悟の上だったんですから」
そう。自分の身が危険でも産みたいと、頑固に言っていたのはわたしの方です。
わたしがいなくても、朋也くんが立派にしおちゃんを育ててくれます。強く生きるって約束してくれました。
「あ! でも、どなたかが命を救ってくれたのが余計だったなんてことでは決して」
「その誰かのことはどうでもいいよ。問題はその後なんだから」
「え…」
不吉な言葉に、手中の懐中時計に目を落とします。
とはいえ今さら逃げるわけにもいかず、不安な指で針を回します。
展開された記憶は、ある意味自分が死ぬよりショックでした。
「朋也くん…」
わたしの大好きな人が、見る影もない姿でした。
お酒と煙草に溺れて…
しおちゃんの方を見ようともせず…
わたしとの約束なんて、何の力も持っていませんでした…。
「…幻滅した?」
「…いえ…わたしのせいです」
ようやく絞り出した声は、うめき声にしかなりませんでした。
「周りを悲しませるって分かっていたのに、自分の我がままを通したわたしの責任です。朋也くんは悪くない。わたしがちゃんと生きていれば、こんなことは起きなかったんですから」
「それでも、また同じ状況になったら、同じことをするんだよね?」
「………」
返す言葉もないまま、力なく針を回します。
「あ…!」
落ち込みからの反動で、思わず歓喜の声を上げました。
救われた記憶。
やっぱり、最後に手を差し伸べてくれるのは家族でした。わたしのいない世界でも、朋也くんのお祖母さんが助けてくれた…。
お義父さんとも仲直りして、しおちゃんの世話も頑張ってくれています。
「やっばり、朋也くんは朋也くんでしたっ」
「汐が何年も辛い思いをした事実が、覆るわけじゃないけどね…」
「そ、それはしおちゃんに謝らないといけないですが、でも、終わりよければすべてよしって言うじゃないですか」
そう言ってから、はたと息が止まります。
良いことがあれば悪いことがあって、悪いことがあれば良いことがある…。
でも、最後が良いことで終わるなら、この女の子は時計を渡すことを、あんなに躊躇するでしょうか?
「止めるなら今だと思う」
「え…」
「ここで止めれば、その後父娘で頑張って生きていきましたって、幸せな話で終われる」
「…そういう…わけにはいかないです」
わたしが知らなければいけない事。
弱い自分でいちゃいけない。強くならないといけない。その一念で、最後の針を回しました。
待っていた記憶は、思いつく中で最悪のものでした。
しおちゃんが、わたしと同じように発熱…。
それは、事前に忠告を受けていたことでした。わたしと同じように家族が助けてくれると、呑気に答えていました。
でも…。
「あなただったんですね。あのとき、教えてくれたのは…」
出産の少し前に、夢枕に立った存在。姿こそ見えなかったものの、声や雰囲気は背後にいる女の子のものでした。
「…ここまで悪い状況になるとは、思ってなかったけどね」
その声は、少しかすれていました。
そう、単にわたしと同じように、苦労するだけだと思ってた。
命まで落とすだなんて、想像もしてなかった…。
(もし、分かってたら…?)
最後の記憶、雪の降る街が脳裏に映ります。
(それでも、しおちゃんを産んでいたんでしょうか…)
わたしの大事な二人が、雪の中に飛び出して…。
そして、記憶は途切れました。
「え…?」
分かっていたのに、次の物語を必死で求めていました。
「あ、あの、この後は」
「ないよ」
「で…でも、こんな終わりだなんて」
「生きてさえいれば、また別の幸せな物語があったかもしれない。
でも、死んだ人には何もないの。
汐の時間は、五年で終わったの」
場が静寂に包まれる中、頭を整理しようと懸命でした。
考えるのは、今頃お父さんと一緒にいる、現実のしおちゃんの事でした。
誰かが…もう誰なのかは分かっていますが、助けてくれたお陰で、もちろん熱なんて出しません。五歳で亡くなるなんてこともないでしょう。
なら、それなら、何の不幸もなかったと思ってしまって良いんですか…?
「あなたの娘は…」
そんな考えを見過かしたように、か細い声が聞こえます。
「きっと明るく元気な子になる。両親の愛情に包まれて、暖かい家族に囲まれて、何の陰もない幸せな子になる。
でも、だからこそ、それはあの子とは別の誰かだ」
今にも泣き出しそうな声が。
「母は亡くなり、父からは無視されて、それでもずっと両親のことが大好きで――ようやく手に入れたと思ったら、たったの五歳で死んでしまった、あの小さな汐じゃない…」
「そう…かもしれませんね」
わたしは立ち上がって、樹の反対側に回りました。
女の子は座り込んだまま、両膝に顔を埋めています。
「それなら…」
わたしの声も、徐々にかすれていきます。
「あなたの知っているしおちゃんは、どうなってしまったんでしょうか」
「ごめんなさい…!」
反射する回答は、悲嗚に近いものでした。
「わたしが、歴史から消してしまった…!」
「あまりにも酷い結末だったから。
それまで頑張ってきたことが、すベて無意味に終わったと思ったから。
だから光を集めて、あなたを死ななかったことにした。
そのせいで、どんな結果が起こるか考えもせずに」
あの日見た光景が蘇ります。
町中を覆う光。幸せな奇跡と思っていたそれが、何かを消し去っていたなんて。
「そうして、あの子までいなかったことになってしまった。
あの子だって五年間頑張ってたのに、誰一人それを知ることがない。
お墓もない。誰にも省られない。
そんなの、死ぬより酷い…」
「…でも、だからあなたは、こうして教えに来てくれたんですよね?」
そのためだけに、もう一度この世界に来てくれた。
そんなにも、しおちゃんのことを想ってくれていて。お礼を言わないといけないのに、顔を上げた彼女の表情は罪悪感で一杯でした。
「そのせいで、あなたはもう、心から笑えないかもしれない」
「そう…ですね…」
わたしのせいで、娘に辛い一生を送らせて。
それで自分だけは幸せになろうだなんて、そんなことが許されるのか…今のわたしには分かりません、けど…。
「それでも、知ってよかったです。教えてくれたことにお礼を言わせてください。あなたは…」
あまりに非現実的な表現に、思わず躊躇します。
でも、出産の日に自分で言ったじゃないですか。もし、あるとしたら、あってくれたら――。
「この町の意志――なんですね?」
こくん…
女の子はうなずいてから、傍らの樹を見上げました。
「わたしは、あなたたちの町を想う心から生まれた」
「町を想う、心…」
「何百年もの間、住人たちの幸せを祈り続けてきて…。それに意味があったのか、なかったのか、今となっては自信がないけど、いずれにせよもう終わり。あなたに汐のことを伝えるのが、最後に残った仕事だったから」
「さ、最後なんて言わないでください! ずっと、町のみんなを見守ってほしいです」
町の意志さんは、寂しそうにかぶりを振りました。
「どうしてっ…。朋也くんも、町を好きになってくれました。町も人もみんな、だんご大家族だって…」
「汐は、今から五年後まで生きていた。つまりわたしは、五年先の未来を見てきたことになる」
「え…」
「これから、この国は子供が減っていく」
息をのむわたしに向かって、淡々と言葉は続きます。
「結婚する人も少なくなって、人口は減少に転じる。
近所付き合いもなくなっていって、個人が個人でいることが多くなる。
政治が悪いとか、社会が悪いとか言う人もいたけど、本当はそうじゃない。
それは、家族を必悪としない人が増えたということなの」
さすがにわたしも、いきりたって反論しました。
「そ、そんなことないです、家族は絶対に必要です! わたしだって、家族がいなかったらどうなっていたか…」
言葉の尾が消えていきます。目の前にある表情は、優しくて、こちらまで泣きたくなりそうでした。
「うん、そうだね、わたしたちはそう思ってる。でも、それを他人に押し付けるわけにもいかないでしょう?」
「そ、それはっ…」
「ずっと前に、わたしの知り合いも同じように消えていった。それは良いとか悪いとかじゃなくて、時代の流れとしか言いようがない」
彼女は立ち上がって、ゆっくりと歩き出します。
「ああ、変わっていくんだなあって、そう思うしか、ないの…」
「ま、待ってくだ…」
その姿は徐々に薄れていって、わたしは必死に何か言おうとしてるのに、上手く声が出てきません。
「最後の方は後悔ばかりだったけど、あなたに会えたことは良かったと思うよ」
「そんな、そんなの、わたしだって…」
「こんな話をしておいて、矛盾しているかもしれないけど、でも……どうか渚は、幸せになってね」
雪が溶けるように、この町の心は消えていきました。
世界にたったひとり残された女の子が、その世界と一緒に。
その場に崩れ落ちたわたしの、両手に冷たい地面が触れます。
「今まで…ありがとうございました…」
その言葉はもう届きません。
そこにあるのは、単なる土地で、行政区で、地名でしかないものでした。
わたしがしょんぼりと病院の敷地を出ると、風子さんが待っていました。
「あの子は、行ってしまったんですか」
「…はい…」
「残念です。風子と一緒に、たくさん楽しいことをするはずだったのに」
風子さんの目はわたしを素通りして、どこか遠くの世界を見ているようでした。
「結局、何の恩返しもできませんでした」
「恩返し、ですか…?」
「風子は、本当なら数年前にお星様になっていたところでした」
そう言いながら、手に持った何かを指で撫でていました。木でできた星…でしょうか。
「まだ地面の上にいられるのは、全部あの子のおかげです」
「そうなんですか、えっと…それは良かったです」
「良くなかったのかもしれません。風子が助かったせいで、別の誰かが苦しんだのかもしれません。ありふれた交通事故なんだから、素直に死んでおくのが自然だったのかもしれません」
背の低いわたしより小さい彼女は、うつむいてしまうと表情が見えませんでした。
「それでも…不自然でも、ずるでも、風子は生きていたいです。辛いのや悲しいのはガマンします。けど、死んでしまったら何もできません…」
「そう…ですね。本当に、そうです…」
子供を産むためなら、死んでも構わないと思っていたわたし。
でも、死んでいたから、しおちゃんに何もしてあげられなかった。
町の意志さんは、わたしの行動をどう思っていたのでしょうか。
「わたしも似たようなものです。ずっと助けてもらっていたのに、何のお返しもできなかった」
「そうみたいですね。なので風子は、あの子が一番心残りと思うことを、何とかします」
その言葉に続けて、木彫りの星が差し出されました。
いえ、これもまた、既に知っている気がします。別の世界、別の歴史で。それは星ではなくて…。
「風子の…お友達になってください」
ふぅちゃんと別れて実家に戻ると、賑やかな声が外まで響いていました。
「これがアッキー様の高い高いだーっ!」
「きゃっきゃっ」
「秋生さん、次はわたしの番ですよっ」
「だだいま帰りました」
声をかけると、二人とも笑顔で振り返りました。
「おう、早かったな。用事は済んだのか?」
「は、はい…」
口ごもりながら、手渡されたしおちゃんを抱きかかえます。
幸せな家族の風景。
もう一人のしおちゃんには、こんな時間は僅かしか与えられなかったのに。
「…わたしは、子供を産んでもいいのでしょうか」
思わず漏れた言葉に、お父さんとお母さんは顔を見合わせて笑います。
「あらあら、もう二人目の話ですかっ」
「さすがに気が早ぇぞオイ」
「ち、違います! そういうことで…はないです…」
しん…
空気が重くなってしまい、慌ててわたしは説明しました。
「あ、あのですね、しおちゃんが大きくなった時、こんな事なら生まれてこない方が良かったって思われるんじゃないかって。
世の中は辛いことが一杯です。なのにわたしは、結局自分が子供がほしくて、しおちゃんを産んだんです」
「渚…」
「も…もちろんわたしは生まれない方が良かったなんて思ってません! 産んでくれたことに感謝してます。でも…二人みたいな、立派な親になれる自信がありません…」
腕の中のしおちゃんは、嬉しそうにわたしに懐いてくれます。
それだけに、余計にいたたまれなくなります。
もう一人のしおちゃんに、短い人生を強いたのは自分なのに…。
「気持ちは分かる」
お父さんの大きな手が、わたしの頭に置かれます。
「それが、お前に兄弟のいない理由だからな」
「え…」
「わたしたちの不注意で渚を失いそうになったとき、二人とも本当に怖くなったんです。人を一人産み出すというのが、こんなに重いことだったんだって。子供が幸せになれなかったら、どう責任を取ったらいいんだろうって」
「お母さん…」
「とにかく渚だけは幸せにしようって、必死で頑張ってきましたけど…二人目を産む勇気は、どうしても持てませんでした」
「そう…だったんですか」
無敵だと思っていた二人が、そんなことを思っていたなんて。
頭上の手のひらが、わしゃわしゃと動きます。
「でもなあ。そんなことを言ってたら、誰も子供なんか作れんぜ? 後継者がいなくなって、人類は滅びちまわあ」
「そ、それはそうなんですけど」
「結局、やれるだけのことをやるしかねぇのさ。それでも力及ばず、産んでくれない方が良かったって言われちまった日には、親としちゃ土下座して謝るしかねぇや」
「後から結果だけ見れば、それは後悔することもあるかもしれません。でも、それが生きることなんだとも思うんです」
「…はい…」
しおちゃんの小さな手が、わたしの頬に触れてきます。
そう、一番大事なことを思い出して、その小さな命をもう一度抱きしめました。
「そうですよね…。まだ悩むことはあるかもしれませんけど、この子のために出来るだけのことはします。それだけは迷わないようにします」
「その意気だぜ。なあに、失敗したってフォローする家族がいるんだからな」
「渚、ファイトっですよ」
「はいっ…!」
わたしは、二度と心から笑えないのかもしれない。でも、この子は、この子だけは。
そうでなければ、この町が最後に起こした奇跡も、意味を無くしてしまいますよね…。
夜も更けて、朋也くんはテレビの前でのんびりしています。
しおちゃんを寝かしつけてから、その隣に座って。
もう一人のしおちゃんのことも、いつかは話そうと思いながら、聞いたのは別のことでした。
「朋也くん、縁起でもないことを聞いていいですか」
「ん、何だ?」
「死ぬときは、どんな死に方がいいですか」
「本当に縁起でもないな…」
「ご、ごめんなさいです。でもどうしても考えてしまって」
「うーん…」
わたしの変な質問にも、朋也くんは真面目に考えてくれます。
「そりゃあ百歳越えまで生きて、孫やひ孫に見送られて、苦しまず安らかに…」
一瞬、身が固くなります。
それは、あの子の送った人生とは、あまりにも違うから。
けれど、わたしの内心を知ってか知らずか、朋也くんは頭を掻きながら否定しました。
「…なんて最期なら文句なしなんだろうけどな。まあ、実際にそんな死に方をする奴なんて一握りだろうし、そこまでの贅沢は言わない。せめて、最後に悲しみながらでなけりゃ良しとするさ」
「そう……ですか」
あの子はどうだったんだろう。わたしはどうなるんだろう。
ぐるぐる回る思考に、朋也くんが心配そうにわたしの顔を覗き込みます。
「って、やっぱりよそうぜ。今から死ぬ時の心配なんて」
「そ、そうですね。そろそろ寝ましょうか」
電気を消して、長い人生の中の一日は終わっていきます。
微睡みの中、雲の上のような場所で、町の意志さんが手招きをしていました。
近寄ってみると、足下に五歳の女の子がいます。
「しおちゃん…」
その目は何を思っているのか。分からないまま、わたしは思わず尋ねていました。
「あなたは……生まれてきて良かったですか?」
返事はありません。これは夢に過ぎないから。
本当の答えは――いつかわたしが、しおちゃんの所へ行った時に。
<END>
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