第五章

リュンガ渓谷からの群の発生は、突然のことだった。
朝のうちから、予兆らしき気配があったとはいえ、まだほとんど先触れもおこらないうちに、爆発的に膨れ上がった魔流雲が、谷から溢れだした。
濃密度の魔流雲の中から生み出されていく異形生命が、次々と妖獣の姿へ変容しながら、麓へ向かって山を流れ下りはじめる。
千仭ガ岳の中腹にあるリュンガ渓谷と、麓の城下都市バデクーリは、クジャ族の集落ユンハンをほぼその中間地点に間に挟んで、ちょうど一直線上にあった。
他の生き物の生気に、妖獣はひきつけられやすい性質を持っている。人口の密集している城下都市バデクーリを妖獣たちが目指した場合、進路上にあるユンハンもまた、そのまま見過ごされるわけがない。

過去の例をみる限り、城下都市へと向かった群は、例外なくユンハンをも襲っている。
それでも、村には避難所がある。
群の接近に気がついた村では、今ごろ堅牢な岩屋への避難を始めているだろう。
大自然の暴走にやみくもに刃向かう行為は、無謀で愚かだ。
クジャ族の狩人たちもまた、そのことを十二分にわきまえているはずだ。

いっきに魔流雲が膨れ上がり、リュンガ渓谷から手に負えない規模の群が発生してくると判断した時点で、彼らは妖獣狩りを断念し、あとは各自の裁量で身を守るように行動するに違いない。
だが、はたして渓谷に残っていた仲間の何人が、このあと無事に生き延びてユンハンへ戻ってくることが出来るのか。

強靱な脚力で、キリエスは雪道を蹴った。
全速力の疾走に息を乱しもせず、跳ぶように岩山を駆け登っていく。

(ロアンの奴、大丈夫か?)

仲間の安否とともに、まだ経験の浅い少年を庇ってやるだけの余裕が、少しでも彼らに残っていることを願うしかない。
今ここで、ユンハンに引き返せば、村人たちを誘導しながら、自分も安全な避難所に潜りこむことが出来るだろう。

(村には、じいさまやカレルがいる。大丈夫だ…!)

だが、この山には──

「くそ…っ」

キリエスの脳裏に、背後から迫りくる群に怯えながら、必死になって山を逃げ下ろうとしている幼い姉弟の姿が浮かんだ。

「無事でいろ ── リヒナ…、レン!」

ユンハンまでの千仭ガ岳の道のりを、ちょうど半分ほど降りたところで、リヒナは空の異変に気がついた。
人ひとりがようやく通れるほどの一本道が、崖の上に細々と続いている。
山肌を削り取ったような道の片側は視界が開け、下方には険しい岩場が牙を剥いていた。
まだ日中だというのに、あたりが急に翳ってきたのを、凍りついて滑りやすくなっている悪道に苦労していた姉弟たちが、いぶかしむ間もなかった。
   そ ら

天雲を仰いだリヒナに、暗褐色の雲が吼えかかる。

「そんな…!」

渦を巻く魔流雲の轟きが山肌を舐めるようにして、自分たちの方へと、押し寄せて来つつあった。
暗褐色の雲の中に見え隠れしながら蠢く、いくつもの不吉な染みを見るなり、

「動かないでっ」

リヒナは崖っぷちと反対側の山肌の窪みに小さな弟を押しつけ、自分もぴたりと身体をよせた。

「ねえちゃん…?」
「しゃべっちゃ、だめ」

囁く声がかすれた。
どんなに落ち着こうとしても、身体の震えが止まらない。
この崖の一本道は、いつも強い雪風に吹きさらされている。

前方から漂ってくる生き物の生気に群の妖獣たちはひかれ、まっすぐに城下都市へ向かおうとしている。山肌に張りついた微かな自分たちの気配を、この強風が紛らわしてくれることを、リヒナはただ祈るしかなかった。
甲高い羽音が、聞こえてきた。
ごく薄い二対の羽を震わせながら、人頭大ほどの昆虫のような異形生物たちが、何匹も浮遊してくる。
息をひそめている姉弟たちの数デールほどの鼻先にまで、それは、つと下降してきては、風に吹き上げられたかのように、ふわりと舞い上がって離れていった。
この小型の妖獣は斥候虫と呼ばれ、飛来したあたりを物色するかのように、そこかしこを浮遊して巡る習癖があった。その行動が、この妖獣の後にやってくる妖獣の、まるで斥候をつとめているようだというのが、この妖獣の名の由来である。

斥候虫の後から次々と、大型の妖獣たちが飛来しはじめた。
異形の生き物の羽ばたきや唸り声、意味不明の掠音が、あたりに響きわたる。
大蛇の姿形をしたものが、悠然と空を行く。

全身から突き出した角骨を、飾りのように仕立てた骸骨虫、とてつもなく巨大な一つ目の周りに、長い繊毛をうねらせて浮かんでいるもの…。

まだ完全に体が固まらないまま、風に流されていく妖獣もいる。
なかには実体化しかけた体を、凍りつくような外気の中で保ちきれないものさえいた。

頭上を通過中の一匹の妖獣から表皮が剥がれはじめ、そのまま全身がずるずると溶け崩れていく。
どろりとした粘液や赤黒い肉塊が、空中から山肌に張りついた幼い姉弟たちへと降り注いだ。

「ひ…っ…」

喉の奥からせり上がってくる悲鳴を、かろうじてリヒナはこらえた。
固く目を閉じたレンが、しがみついてくる。
腰にさした狩猟用の短刀を、震える手でリヒナは抜いた。

日頃、狩りにたずさわらない女や子供であっても、クジャ族は狩猟武器を扱う。もし、目の前を通り過ぎていく妖獣が自分たちに気づいたとき、降りかかってくる運命を、ただ受け入れるようなことはしたくない、とリヒナは思った。

そのとき ──
上空を通り過ぎていく妖獣たちの飛翔速度が、急に上がった。

「…?」

妖獣たちを運んで流れる暗褐色の魔流雲が、みるみるうちに遠ざかっていく。
地上に明るさが戻ってきた。
呆然と立ちつくすリヒナの頬を、風が叩いた。

「…いっちゃった」

力がつきたように、その場へリヒナはへたり込む。
安堵のため息が、白く凍った。

「もう…大丈夫よ、レン」
「でっかい、群だったね」

リヒナに抱きしめられたレンは、青ざめた顔をしていたが、意外にしっかりした声を出す。

「さむ…っ、身体がカチカチだわ」

二人は足を交互に踏みならして、痺れた足先に感覚を呼び戻そうとした。
群が飛来してから、半刻あまりが過ぎていた。

その間、凍りついた山肌にじっと身を寄せていたため、リヒナもレンも身体の芯まで冷え切っている。
かじかんだ身体に血がかよい始め、どうにか思い通りに動かせるようになって、再び雪道を歩き出そうとしたリヒナの袖を、

「ねえ…」

レンが引いた。
ざゅしゃ ざゅしゃ ざゅしゃ
姉弟の耳に、雪が掃き散らされるような掠音が届く。

「…あの音、なに?」
「しっ」

怯えたように問いかけるレンを、リヒナは黙らせた。
まっすぐに続く、崖の上の雪道を 黒ずんだ平たい何かが、ざわざわと見え隠れしている。
ざゅしゃ ざゅしゃ ざゅしゃ
小型の楕円形をした、座布団のような奇妙な物体が、山の上から何枚もこちらへ滑り降りてくる。
クジャ族の狩人たちが「地走り」と名づけた妖獣だ。
腹の下にびっしりと生えた、無数の短い触手で地上を自在に這い回りながら、遭遇した生き物を、その座布団のような平たい体で押し包むようにして捕獲し、貪り食らう。

雪道を走っても あの速度からは、逃げ切れない。
悲鳴を上げる間もあらばこそ、

「レン!」

精一杯の力で、リヒナは弟を抱え上げると、山肌から突き出ている手頃な岩につかまらせた。

「はやく登って!」

二十デールほど頭上に森の木々が、その先を伸ばしている。
ためらうように、レンがリヒナを見た。

「なにしてんの、はやく上がりなさいってば!」
「ねえちゃんは…?」
「だいじょうぶよ、あたしも登るから!」

姉の叱咤に、レンはほとんど垂直に近い切り立った山肌を、夢中でよじ登りはじめた。
そこはさすがに山育ちの子どもで、レンは山肌からのぞくわずかな岩に起用に手足をかけて、小さな身体を押し上げていく。
レンの後を追って、リヒナも岩に取りついた。
恐怖と寒さで、思うように動かない身体を励ましつつ、ようやく背丈ほどの高さあたりまで上がったところで、真下におぞましい物音を聞いた。
リヒナたちが身をひそめていたあたりには、先刻空から降り注いだ妖獣の、溶け崩れた肉塊が散乱している。
道を這い進んできた地走りたちは、異臭を放つ、その残骸に群がっていた。

(今のうち…!)

はやく、やつらが残骸を貪り尽くす前に、あの高さまで
あと、半デールで木々の枝に、レンの手が届く。
枝を伝って、うまく森の中に逃げ込むことが出来れば…!

(もう少しよ、レン)

レンの目の前で、がさり、と森の茂みが鳴った。
ぬめりとした、地走りの黒ずんだ背皮があらわれる。

妖獣の腹一面に生えた蠢く無数の触手が、枝に手を伸ばしかけていた獲物をめがけて広がった。
反射的にレンがのけぞる。

「レン! だめっ」

下からリヒナが叫んだ。

「だめよ、レン! 手を…はなしちゃ──

レンの身体が、宙に浮いた。
落ちる!
一本道の遙か崖下の、険しい岩場へと
──
リヒナの脳裏から、一切の色と音が消えた。
ぞっとするほどの静寂の中、ただひとつの鈍音をリヒナは聞いた。
岩に叩きつけられた小さな身体の、砕ける音を。
いつ、よじ登りかけていた山肌から滑り落ちたのか、わからない。

雪の一本道に、半ば気を失ったまま転がったリヒナに殺到するはずの ── 地走りたちは、だが、動かなかった。
上空の大気が、振動していた。
突然、飛来した黒曜の気塊の波動に触発されたように、地走りたちが、落ちつかなげにざわめきはじめる。
崖下から吹き上がる風に、誘われたか ──
あたりを睥睨するかのように、空の一点で瞬いていた黒曜の輝きが、すい、と岩場へと下降する。

使徒の気塊のあとを追って、先を争うように地走りたちが、崖を這い降りはじめた。
なかには平たい体を崖から宙に舞わせ、岩場めがけて滑空するものさえいる。
岩場にぶちまけられた血の海の中に、クジャ族の少年の身体があった。

背中から鋭岩に激突した身体は、ほぼ即死の状態だったが、頭部の損傷は奇跡的にほとんどない。
砕けた身体には、まだ微かなぬくもりさえ残っている。
あたりに漂う濃厚な血臭に惹きつけられたかのように、岩場に横たわる少年の骸を、黒曜の使徒の気塊が包み込んだ。
ざわめきが岩場に乱入してきた。
妖獣の残骸などよりも、数等上等な獲物を横取りしようというのか、少年の身体を覆った黒曜の輝きへと、地走りたちが殺到する。
使徒の気塊から、波動が迸った。

平たい体をいっそう薄く伸ばして、気塊の下へともぐり込もうとしていた地走りが、四方に跳ね飛ばされる。

使徒の威嚇の衝撃に、短い触手をばたつかせる地走りたちの前で、黒曜の気塊が収縮し、みるみるうちに消えていった。

貧欲な異形生物は、地面に横たわった獲物をあきらめきれずに、なおも執拗に群がりよってきた。

少年の身体に這い登ろうとした一匹の地走りを、血まみれの手が掴んだ。

うねうねとくねりかえる妖獣の体を、力まかせに引き破いたそれが、岩の上に ── 起きあがる。

かつて、クジャ族の少年だったものから、凄まじい咆吼が上がった。

身を切るような冷たさに、リヒナは意識を取り戻した。
誰かが…自分を呼んでいる。
それが、キリエスの声だと理解するより先に、リヒナの脳裏に惨事の記憶が蘇った。

(…レン…!)

愕然と起きあがり、夢中で這いよる崖の下から、不可解な物音が響いた。

「…まさか?」

そんなことは、あり得ない。
だが、たしかに、何かが
崖を這い上がってくる。

「あんたなの、レン…?」

呟くリヒナの目の前で、血まみれの指先が、雪道の縁に突き立てられた。
鮮血を滴らせた少年の身体が、道の上にせり上がる。

「レン…!」

狂おしいほどの希望のなかで ──
ゆっくりと、リヒナへと首を回したものの黄泉の双眸が、彼女を捉えた。

「リヒナ!」

雪の崖道を、キリエスが走る。
リヒナの悲鳴が、上がった。

【 蒼氷の覇王 完】
第一章 第二章 第三章 第四章 第五章

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