その世界は静寂と虚無の闇に満たされていた。
 はるか下方にぼんやりといくつもの光が滲んで見える。それは漆黒の闇に同化することを厭うかのような、大小さまざまの黒曜岩山から発せられていた。熱を帯びぬ無機質な光がときには強くそしてまた弱く、彼方までつらなる岩塊や、山間を縫ってゆっくりと流れる黒い霞を映し出してゆく。
 外の世界では眺めることなど想像もかなわぬ、不可思議な光彩と景観を愛でに訪れるものなど──聖砂神殿の神官たちですら、この使徒界の闇底にまで降りてくることはない。
 ただ一つの存在を除いては。
 ひときわ高くそびえる黒曜岩山の中腹あたりの岩棚の上に、蒼い影が浮かんでいた。
 おぼろげな輪郭をもし見ることが出来るものがこの場にいたなら、それが人影であると認めただろう。
 だが、人の影姿がこれほど美しいものとは。
 そして、これほど恐ろしいとは。
 生けるものはおろか魑魅や魍魎の類までも蠱惑の深淵へと誘う妖美な影は、この世界に満ちている虚無さえ恐怖に凍てつかせる鬼気を漂わせていた。
 岩棚の虚空に、ふと別の気配が沸いた。
 妖気──いや、妖気であって完全なそれとも断定できぬ、狂気や殺気とも似て非なる、極めて未成熟な生命が泡のようにふつふつと、いくつも覚醒し始めていたのである。
 だが、何もない暗黒の空間からどのようにしてその生命は生まれたのか。
 混沌とした生命の泡と闇はやがてねっとりと溶け合い、互いに増幅しながら岩棚に座す美影を覆い隠そうと漂っていった。
「誕生と同時に形に焦がれるは、生命を与えられしものの性か」
 低いつぶやきが美影から洩れた。
今にも触れようしていた生ける暗黒が、小波のように震え、あとずさった。
「肉体と精神の均衡を保持するための概念は、ここでは用をなさぬ。これを解いてみよ」
 蒼い影が闇に消えた。
 消失の後に、ぽっと赤点がともる。
 闇を押しのけてみるみるうちに広がる赤い色彩から、触手の生えた頭と何十本もの節足をぶよぶよした楕円形の胴体にそなえた、巨大な肉塊が這い出した。どろりとした赤黒い四つの眼、のっぺりした顔面を横に裂いた真っ赤な大口から涎をしたたらせたおぞましい生物は、頭を小刻みにふりながら、岩棚に触手を這わせ、無数の牙を噛みならして黒の世界に挑んでいた。
「生命周波数の瞬時の解析とそれらへの同調は、すなわち敵の許容を意味し、精神闘争における自己の存在密度の優位性をより高めることになろう」
 どこからか声が響いてくる。
 姿なき異界の生命体に異形の生物を召還した美影の主の教示が、どこまで理解できたかどうか。
 なんの前触れもなく、あたりの様子を探りながらざわざわと蠢いていた赤い生物に、暗黒の群が襲いかかった。聴覚のあるものならば、およそこの場に居合わせたくない、ぞっとするような甲高い叫び声が上がり、闇をめった切りにする。
 のたうちまわり、暗黒に襲われては消え、消えてはまた必死に這い出そうとする赤い生物を暗黒が幾重にも取り巻き、封じ込め、恐るべき超密度の圧力で押しつぶそうとしていた。高圧のため自己放電する暗黒に、赤い生物の鋭牙が打ち込まれ、触手からは猛毒液がふりまかれたが、実体のない敵には役立たない。
 胴体をよじり、呪縛から逃れようともがいていた赤い生物の体から、赤黒い飛沫が闇に咲き始めた。
 断末魔の叫びが上がる。
 ちぎれた節足が、触手が宙に舞った。
 その切れはしは岩棚に散らばる前に暗黒が奪い合い、原子のレベルにまで分解されていった。
 が、その時、
 岩棚に押しつけられ、今にも頭をねじ切られそうな赤い生物の体が猛烈な勢いで跳ね上がった。自らの体の一部を奪われた激痛と恐怖に、原始的な生命力が爆発したのである。
 想像を絶する力と速度を味方に得た怒りの猛打が、一瞬にして暗黒を四散させた。
 と、同時に、勝利した赤い生物もまたこの世界から忽然と消失した。
 使徒界は再び底知れぬ闇の中に沈んでいる。
 醜怪な死闘など初めからなかったかのように、蒼い美影が先程と寸分違わぬ岩場棚に妖々と座していた。
「他次元の下等な生物さえ解けぬか」 
 その存在から放たれる氷のような鬼気に、ようやく世界に生を受けたばかりの姿なき生命たちは怯え、さざめいた。自分たちの出来が悪いとみて、創造主がすべてを闇に帰してしまうのはあまりにもたやすいことだった。
 だが数瞬の後、
「よい。未だおまえたちに会得できぬことを、責めはせぬ」
 すでに怒りはあとをとどめず、無感動で冴えざえとした声が響きわたる。
「覚えておくがいい。実体を持たぬ存在で、血肉をそなえた生物を征することは容易ではないが、どれほどの時を費やそうとも、おまえたちは成しとげねばならぬ」
 むしろ穏やかとさえいえる声に応えるものはない。たたみかけるような激しさや恫喝など片鱗も含まぬ口調は、しかし、わずかな抗いさえも許さぬ断定を示していた。
「その時が訪れるまで、己の姿を得ることは未来永劫かなわぬ。だが今宵はこれまでとしよう」
 美影が立ち上がり、虚空を仰いだ。
「なんと珍しいことがあるもの。あの方のお召しとは」
 一筋の青白い炎柱が、黒曜石の岩棚を照らした。
黒天を貫く炎が闇に呑まれ、使徒界に再び静寂が戻ったときには、美しい影の主はこの世界にはなく、あとにはただ闇のしじまに、その名残りの蒼い波紋が広がっていくのみであった。


 地上の「白の広間」へと続いている地下回廊のどこかを、慌ただしく急ぐ足音が聞こえてくる。
 高い円天井と黒曜に輝く石柱に支えられた壁面には、群青色のタイルが敷きつめられ、銀の飾り文字で様々な文様が描かれていた。その文様はどれをみても同じ形のものが一つとして見あたらない。
 青く静謐な回廊を埋めつくした銀の壁画の作者は、幻想的で不可思議な様式に、はたしてどのような意匠を封じ込めたのであろうか。
「シグ様! どちらにおられます? 」
 声と同時に角を折れ曲がって走ってきたのは、まだ宮殿勤めとなって間もない若い官史だった。
 彼は青い光の中で立ち止まった。
(使徒界からお戻りになるときには、いつもこの回廊をお使いになるはずなのに、今日はまた、どうなされたというのだろう)
 息を切らしながら、ふと、ある思いにとらわれたこの若い官史は、不安げにあたりを見回した。
 本当にこの回廊で間違いないのだろうか。
 聖砂神殿の地下に網の目のように張りめぐらされた無数の地下回廊のいくつかは、そのまま異次元にまで通じているといわれ、無知のままさまよいこんだものを二度と再び地上へ帰さぬ迷路となっていた。
 ひょっとして自分でも気づかないうちに、曲がり角の一つを折れそこなったのかもしれない。
 もし、そうだとしたら…。
 いや、ここの壁面の文様はたしかに見覚えがある。つい先日、神官長の供をして都のはずれにある小祈堂へ赴いた際に、近道をするために通ったはずだ。
 が、本当にそうなのだろうか?
 まさか思い違いということは…
「そのようなことはない。そなたの来た道は間違ってはおらぬ」
 いきなり後ろから声をかけられて、若い官史は飛び上がった。
「シグ様!」
 つい今し方まで使徒界の闇の中に浮かび上がらせていた蒼い美影を、床の上にひっそりと落として、シグは佇んでいた。
 艶やかに濡れ光る長い漆黒の髪を飾るのは、瑠璃色の宝玉の櫛だ。淡青色の布地に銀糸をあしらった長衣を身にまとった、異次元の闇世界の主にふさわしい冷たい美貌が彼を見つめている。
 どのような相手も一目で陶酔の虜にせずにはおかぬ、それでいて魅入られたものが呪縛された心のどこかで、暗い戦慄を禁じ得ない美しさだった。
 だが、ようやく主人に巡りあえた、まだ少年の面影をとどめた若い官史は、喜びと安堵の表情をたたえた。
「いつもよりお戻りが遅いのでどうされたかと…。何事もなくて、よろしゅうございました」
 宮殿で近従として仕えるようになって、まだ日の浅い彼はさらに話を続けようとしたが、シグは無言で歩き始めた。
 シグの後を慌てて追う官史の足音と衣擦れだけが、群青色の光に浸された回廊に染みわたる。
 人並みの雑音など、シグにはふさわしくない。
 そのかわり──、
(このお方のなんと青≠フお似あいになることか。)
ふいに浮かんだ思いを、彼はそのまま口にすることが出来なかった。
 <聖都>ドゥルーガのシグ。
 このドゥルーガおいてルシェとともに並び称される左手神シグの名を口にするとき、人々はいいしれぬ戦慄に身を震わせる。それでいながら、その戦慄は危険な陶酔さえ伴って、心の闇底にある禁断の感情を揺さぶるのだ。
 この若い官史も例外ではなかった。
 ほどなく二人はこの迷路の終点を示す、半透明の青硝子の大扉の前にたどり着いた。
 扉を開くと、清浄な光に溢れた礼拝の間が二人を迎えた。ちょうどその場に居あわせた神官や官史、守神兵たちが、シグに気がついていっせいにひざまずく。それはいつもの見慣れた白の広間の光景だった。
 前列の神官が進み出て、シグに声をかけた。
「ルシェ様の、お召しにございます」
「わかっている」
 若い官史は奇妙な違和感にとらわれていた。
(確かに戻ってきたが…)
 いや、そんなはずはない。あの地下回廊の中を自分は数え切れぬほどの角を曲がり、階段を下って崇拝する主人を捜し求め、息が切れるほど走り続けたのだ。こんなに早く戻ってこられるわけがない。
 彼の困惑を知ってか知らずか、
「なれぬ回廊を一人歩きとは、あまり誉められたことではないな」
 感情のこもらぬ声で、シグは言った。
「は、はい。申しわけございませんでした」
 若い官史は低く頭を垂れる。
「じつはシグ様が使徒界にお出かけになられている間に気になることがございまして、急ぎお知らせしなくてはと思い、つい短慮をいたしました」
「何かあったのか?」
「はい、その…」
 居並ぶ他の者たちに聞こえぬように彼は何事かを囁いた。シグは無言で耳を傾けていたが、若い官史のほうを見やりもせずに、ただこう言った。
「地下へはあまり深く入らぬことだ」
「も、申しわけございません」
「二度は救わぬ」
 冷厳な声に、若い官史は背筋を凍らせて平伏した。
「この白の広間で出迎えるはずのそなたの声が回廊から聞こえたので、ここから引き返したのだが、いつもそうするとは限らぬ」
「わ、私のために?」
 若い官史は驚きで息がつまった。
「し、しかし、その、ではシグ様はどのようにして使徒界から地上に…別の回廊をお使いになられたので?」
 応えはない。
 彼が面を上げたときにはシグは白の広間を横切って、上宮殿へ通じている渡り廊下を去っていくところだった。

 

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