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夜の帳が辺りを包んでいる。 ドゥルーガの民の信仰のより所として大勢の参詣と奉納の人々が訪れる聖砂神殿も、今は安寧の眠りについていた。 聖砂神殿の本殿を挟んで政務宮と対の位置に並ぶ礼拝宮もまた、寝ずの番をしている守神兵の他に人の気配はない。壮麗な造りを誇る礼拝宮の中心にある白の広間には大きな祭壇があり、さらに壁際の天幕で覆われた奥の間に、白玉石の曲柱に支えられ、ほの光りする青硝子の大扉が夜目にも美しく浮き出ていた。 大扉の向こうに続く、異界への道筋にもなり得る地下回廊を思いのままに行き来できるのは、<聖都>ドゥルーガにおいてただ一人、使徒界の支配者、左手神シグのみである。 どこからともなく、夜の風が流れてきた。 風が揺らす群青色の燐光を頭上から注がれて、大扉の前に立つ守神兵は湖底に沈んだ二つの彫像のようだった。 が、突然、 稲妻に打たれたかのごとく一人が飛び上がり、長槍をかまえ直す。 「どうした?」 あたりを見渡している守神兵に、傍らの同僚が声をかけた。 「い、いま何か光るものが」 「なにっ、見えたのか。どこだ?」 「いや、その見えたんじゃなくて、頭の中にぱっと…こう、いきなり目の前が真っ白になったんだ」 「なんだ」 同僚は、ほっと肩の力を抜いた。 「こう静かで何もおこらないんじゃ、居眠りが出るのもわかるがな。もうじき明るくなるまでの辛抱だ。それまでがんばろうぜ」 守神兵たちの会話と同時に、彼らの背にした大扉の向こう側に白い麗影が生まれた。 群青色の壁面に銀の文様が鮮やかに織りなされた、どこまでも続く青い回廊の果てに、瞳を閉じたままの類いまれな美貌を向けて、ルシェは額にかかった黄金色の髪をかき上げる。 ここは自分の領域ではない。 静謐な青の世界は、静かなたたずまいの裏に未知の危険と恐怖が蹂躙するもう一つの容貌を隠している。 (帰りはともかく、行きはシグのように一足飛びというわけにはいかないか) これといって逡巡するふうもなく、苦笑めいた独り言を胸の内で呟くと、ルシェは滑らかな足取りで歩き出した。 長い、長い回廊である。 入り口付近は一直線であった道筋が、進むにつれて次第にゆるやかな左回りの曲線を描くようになり、傾斜しているとも思われないのに奇妙な下降感が始まった。一歩を踏み出すごとに、急激に落下していく感覚と耳鳴りが身体を襲う。 途中いくつかの枝分かれした横道をやりすごし、そのまま道なりに沿って歩くうちに、ルシェの超感覚は刻一刻と強くなる耳鳴りに加えて、時空のねじれを捉え始めた。 左回りの曲線が右方向へと転じた。 十歩も行かぬうちに、今度は左に垂直に折れる。また再び右へ傾いたかと思うと、ルシェが足を早めたわけではないのに、通路はめまぐるしい早さで螺旋の渦を巻き出す。 轟音と同時に、遠近感が唐突に消失した。 周囲の壁がぐずぐずと音を立てて崩れ、吐き気を催す臭気とともに不浄の内部をさらけ出していく。 毒々しく脂光りする肉壁に青黒く浮き出た管が、どくんどくんと耳障りな音を立てていた。 蛇のようにうねくる生ける回廊の中に、いつしかルシェはいるのだった。 天井から滴り落ちてきた粘液が足下に飛び散り、黒煙を上げた。 それでもルシェの歩みは止まらない。 歩きながら不気味な蠕動を続ける肉壁に手を伸ばし、半ば埋もれ腐食された銀の飾り文字を、その白く美しい指先でなぞっていく。 ルシェの指先の動きに唱和するように、青黒い肉壁が──わなないた。 耳鳴りが消え、回廊の動きが止まると同時に、壁や石畳が無機質な堅さと清涼な色合いを取り戻していく。 回廊のどこかで、悩ましげなため息が漏れた。 招かれざる侵入者の全感覚を狂わせ、目的地にたどり着くことも、地上に引き返すことも許さずに、未来永劫狂った地下をさまよい続けさせるはずの銀色の呪文字は、恥じらいを自らの色合いに乗せてルシェの行くてを淡く照らしていた。 その前方──、 蛇行する回廊が消失している。 道の先には青光一色に浸された無限の空間が広がっていた。足下のきらめく黒曜石の階段が、遙か下方の青闇へと溶け込んでいる。 「青闇が暗黒と交わり、虚無の闇に変わるところ──それが使徒界の入り口となる…か」 回廊を歩き始めてから初めてルシェの優美な姿は、階段の下方を心持ち覗きこむようにして──むろんルシェの両眼は閉じられたままであったが──立ち止まった。 「階段は使えぬか。そのほうが楽だが」 何気ない一段の下降は、侵入者にとっては天空から奈落の底に叩きつけられるに等しい衝撃を与える。 階段を漂って足下から立ち昇ってくるかすかな妖気を、ルシェは視覚に頼ることなく瞬時に解析したものとみえる。 ルシェは肩から袖口へと流れ落ちる黄金色の長髪を、しなやかな手つきで一本抜き取ると、両手の親指と人差し指でつまんで、ぴんとのばした。 手が離れても、髪の毛は撓まない。 ルシェは一本の長い針金と化した自らの髪を使って、足下の地面に自分を中心にしてすっと弧を描いた。完璧な円周の軌跡上に白光が生まれ、ルシェをのせたまま浮き上がると、音もなく階段を下り始める。 たしかにこれなら、自分の足を使うよりも楽だろう。 次第に濃くなってゆく青の薄闇の中を、ルシェは深い水底へ沈みゆく一粒の宝石のように静かに下降してゆく。 行く手の青闇から沸き上がった、次なる「監視」の動きがぎこちないのは、その夢のような美しさゆえであったのか。 |
おぼろげな数個の霧塊が深青の底からためらいがちに立ち昇ってくると、遠巻きにルシェを取り囲んだ。 かろうじて人の姿を模した輪郭を保っているとはいえ、これらの霧魔には眼も耳も口もない。 全身を絶えず小刻みにぶるぶると震わせながら、青の闇底へ恐れげもなく突き進んでいく侵入者の正体を探るべく、よどんだ波動を送りこんでくる。 ──あなた様は…? 霧魔から驚愕の気配が伝わってきた。 ──あなた様は…! ──我らの主人がこの世でただ一人、尊び礼をつくされる御方… 声なき声がルシェの頭の中に響いてくる。 ──今宵我らが主人は使徒界にはおられぬ。それをご存じか? 「シグは都の外に出向いている」 穏やかにルシェが応じた。 「私の方は時間がないのだ。ここを通してはもらえないかな」 ──ドゥルーガの智を司る右手神、ルシェ様ともあろう御方が… ──なにゆえ禁断の次元へ、我らが主人の許しなく、おいでになろうとされる? ──なにゆえ…? ──なにゆえ…? 「私がここへ来たのはドゥルーガの未来を想うゆえだ。そしてシグは現在を護る。この二つの均衡が永続する限り、<聖都>ドゥルーガは桃源郷として、この世に君臨し続ける」 神秘的な笑みを浮かべたルシェを取り巻く霧魔が、ぞわりと蠢いた。 ──お戻りを…ルシェ様 ──主人が不在の使徒界を守は我らが使命…たとえあなた様でも… 「だが…その均衡を、破らねばならないときがある!」 滅多に見せることのない感情をその澄んだ声にのせて、ルシェの姿がつと、前進した。 前方の霧魔の輪郭がぼやけ、互いに溶けあい、ルシェの行く手を塞いだ。上下左右から迫ってくる霧魔の壁には無数の黒穴が穿たれ、びっしりと鋭い牙が生えている。 白い長衣が、壁の牙に引き裂かれる寸前── 世界一の美姫さえもが、胸を焦がす輝きと。 野望を抱くこの世の全ての男たちを駆り立てずにはいられない、危険な陶酔を秘めて。 進路を封じた前方の壁めがけ、黄金髪の麗人はその美しく、たおやかな手を一振りした。 ルシェの手から放たれた黄金の髪針は、その優雅な所作からは想像もつかないほどの速度で青闇を切り裂き、霧魔の障壁につき刺さった。 ぼかり、と命中点に暗黒の大口が生じる。 耳を覆いたくなるような絶叫とともに粉々に砕け散った霧魔の残骸の渦中を、長衣をひるがえし、ルシェは一気に突破した。 ──ルシェ様! ──お待ち下さい! 言葉づかいとは裏腹に、霧魔どもから獲物を取り逃がした恨みに燃える、獰猛な唸り声がいっせいに沸き上がる。 飛翔したまま階段からはずれ、一条の光となって流れ下っていったルシェの後を、なだれを打って追い始めた。 長く尾を引いた光の航跡が、黄金色にきらめいては濃青の闇の中に溶けていく。 いつしか漆黒に塗り替えられた闇の中に漂う光の名残りをかき散らし、霧魔の声がどこまでも追いすがってきた。 ──逃がしませぬ! じりじりと距離が縮まる。 霧魔の一群が巨大な蜘蛛の巣状に広がった。怒濤の勢いでルシェをからめ取ろうと襲いかかる。 金色の蝶の舞い。 捕り方の網から苦もなく逃れる動きの、なんと華麗なことか。 ──使徒界は危険です ──どうか…闇底まで行かれるのは我らが主人が戻られるまで、どうかお待ちを…! よほどこれ以上、先に行かれては困るのだろう。殺気を通り越して狼狽さえしはじめた霧魔たちの必死の制止など聞きもあえず、ルシェは限界域に張り巡らされた最後の結界を突き破った。 ──ルシェ様…! 霧魔の群れも制御しきれずに結界に激突した。 衝撃が広がるかわりに──霧魔を捉えた結界の闇の震えが、異世界の未知なる生命に遭遇する機会を得た、貧欲で邪悪な喜びへと変わっていく。 ルシェのように結界を抜けることの出来なかった霧魔の群れは、ゆっくりと闇に呑まれていった。 吹きすさぶ風に押し流され、細くたなびいてゆく霞が使徒界の闇底に連なる黒曜岩山の滲むような光沢を、とぎれとぎれに映し出している。その、ひときわ高く切り立った岩棚の一つにルシェは降り立った。 闇の中の黒曜岩山の放つ、冷たくも幻想的な光彩の中に白く浮かび上がるルシェの麗姿は、余人には伺い知ることの出来ぬ深い思索に沈み込んでいるかのように、その場に立ちつくしたまま動かない。 方角の定まらぬ風が四方よりびょうびょうと吹きつけ、純白の長衣の裾を乱しては使徒界の闇に吸い込まれていく。 その濃密度の闇の中に。 何かが、いる。 ルシェの前後左右、周囲に風の唸りに紛れて。 闇よりも、なお暗く凝結した暗黒がどろどろと沸き上がり、這いよってくる。 「そなたたちの静寂を、乱すつもりはない」 身動きひとつしないルシェの唇から洩れた言葉など、まったく理解しないように暗黒の動きは止まらない。 「アロウはどこにいる?」 その問いが、ここではどのような意味を持つものか。 忽然と風が途絶える。 使徒界から、いっさいの音が喪失した。 身を切るような死の静寂が、質量すら伴ってルシェにのしかかってくる。 やがて微かに──、 そして、それは次第に大きなざわめきとなって、この使徒界でかりそめの生命を吹き込まれた形なき生ける暗黒が、ルシェめがけてひたひたと押しよせてきた。 ──姿モツモノ… ──眼……鼻…腕…… ──獲ル… きわめて稚拙な思考の断片は、だが、侵入者にとっては身の毛がよだつ欲望を露わにしている。 ──白キ身体…獲ル… ──獲ル…! 迫り来る無数の暗黒から、凄まじい飢えが放射された。 誕生以来、おのれの姿を狂おしいほどに欲し、焦がれ続けてきた闇世界の申し子たち。 飢えた狂気の渦がルシェに襲いかかった、その瞬間──血煙が奔騰し、逃れる間もなく暗黒の群れに捉えられたルシェの神々しいまでの肢体は、千々に引き裂かれていた! 陰惨な喜悦が、使徒界に溢れる。 収穫に酔いしれる暗黒が、たちまち血溜まりを覆い隠した。獲物を奪い合うべく無惨な肉塊となって岩棚に飛び散った四肢や胴体や首に、われ先にと闇が群がっていく。 「なんとも荒々しいことだ」 呆れたような声が、上空から降ってきた。 口元に苦笑の翳を浮かべたルシェが宙を漂いながら、醜怪な光景を他人事のように眺めている。 「私の身体…それでよければ獲るがよい。ただし──」 暗黒の群れに動揺の波がさざめき立つなか、ルシェは平然と身をひるがえして惨状の場に降り立った。 「生き物の身体というものは、そのようにしてばらばらに所有したところで、あまり役には立たぬ。シグに教わらなかったのか?」 静かに諭すルシェを前にして、満たされぬ欲望を抱きつつ暗黒の群れは動かない。 ドゥルーガの民の誰が、このようなルシェを知るだろう。 取るに足らぬ知性しか持ち合わせておらぬ、闇世界の申し子たちにも感じられるのだ。これ以上ルシェに逆らえば、そしてルシェさえ本気になれば、取り返しのつかぬ恐怖と破滅がこの世界にもたらされることになる、と。 底知れない不可侵のオーラを白い麗姿にまとい、ルシェは先ほどの問いをもう一度、繰り返した。 「アロウ・ルウジャは──どこだ?」 |
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