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夜明け前にガデスはルシェに呼び出された。 連日連夜、昼夜を問わずの酒盛りづけが続いて、今宵もまた寝所に入ってからいくらもたっていない。 寝入りばなをたたき起こされたガデスは、だが、すぐさま呼び出しに応じた。 身じたくを整え、部下とともに未だ目覚めぬ都の大通りを急ぐ。 聖砂神殿の敷地内のはずれにある小宮殿につくと、彼らを迎えに来たときにルシェからの口上を伝えたきりで、後は一言も喋ろうとせぬ年老いた神官と一緒に、ガデスだけが中へ通された。 肌に突き刺さるような夜明け前の冷気よりもなお、ひんやりとした建物内の空気にガデスはぞくりと身体を震わせた。 なんと冷たく暗い廊下だ、と彼は思った。 昼間ならば天窓から差しこんでくる光をいく重にも反射させながら、眩いばかりに輝いて訪れる人々を迎えるであろう宮殿内の長い廊下に並ぶ白玉柱には、今はただこの通路を真の闇に落とさぬように灯された燭台が、かろうじて自らのわずかな周囲において、その役目を果たしている。 ガデスが頼りなげな燭台を十いくつか数えたところで神官は立ち止まり、ゆっくりと彼のほうを振り返った。頭上の壁ぎわにかけられた燭台が神官の皺深い顔の影を、ゆらゆらと揺らめかせている。それを上目づかいにちらと眺め、これは今までよりひときわ大きい燭台のはずだが、とガデスは傍白した。 どうして他の燭台の光より、いっそう暗く見えるのだろう? 右側にそびえる大扉を指さし、神官はのろのろと口を開いた。 「…ルシェ様は、こちらに…」 無言でうなずいたガデスが、扉に手をかけて押そうとした、そのとき──、 扉の向こうから突然襲いかかった気配が、彼を金縛りにした。 「うわっ!」 それはガデスの精神に入りこんだと見る間に、あらゆる感情反応を強要して彼の内宇宙を思うがままに駆けめぐり、攪拌する。 (助けてくれ!) 自らの感情の暴走をどうすることもできずに、ガデスは叫んだ。 きさまは何だ、誰だ? 俺の頭の中を掻き回してメチャメチャにするな。やめてくれ、やめろ! ──戻れ 狂乱したガデスの頭の中で、新たな別の意思が響いた。 ──まだ早い。その方から離れよ 静かな声に打たれたかのように、彼の心から気配が引いた。 「お、俺はいったい…?」 硬直していた身体が今度はいきなり弛緩する。扉にすがりつくようにして身体を支えたガデスの眼に、黄金色の輝きが映った。 「ルシェ殿…か」 「お気を確かに、ガデス殿」 額に脂汗を浮かべているガデスにルシェは手をさしのべて、寒々とした部屋の中に招じ入れた。 「い…いまのは…、いったいなんだ?」 「このような時間にお呼びだてしておきながら、さらに不快な思いをおかけして、申しわけない」 まだ呆然としているガデスを長椅子に座らせると、ルシェは気の毒そうに言った。 「…いや…俺のほうは…商談のことで、と聞いては昼も夜もかまってはおれん。そ、そうだ、ルシェ殿!」 いきなり彼は飛び上がった。 「それではやっと、ここでよい返事を聞かせてもらえるのか? バデク王の望みを手に入れることが出来るのだな、そうであろう? …なんだ、どうされたルシェ殿」 「いや、別に」 思いもかけぬルシェの反応に、ガデスは眩しそうに目をしばたたいた。 「な、なにがおかしいのだ?」 「失礼…この使徒の好奇心の旺盛さには、いささか私も驚いたが、あなたの回復力もなかなかどうして大したものだ」 「なに、で、では、いま俺を襲ったのが…」 思わずガデスの声がかすれる。 「あれが…闇の生命を浄化させた聖都の使徒か」 「ただし、先ほどガデス殿に憑依しかけたのは、使徒の気配の片鱗といった程度のものに過ぎないが」 「………」 青ざめた顔で、またもやガデスは長椅子にへたりこんでしまった。自分の精神が無抵抗のまま破壊されかけた恐怖が、生々しく蘇ってきたのである。 元気になったり、青くなって頭を抱えこんだりと、浮き沈みの激しい気の毒なガデスの様子に、ついにルシェはくすくすと笑いだした。妙入るばかりの美貌の持ち主にもかかわらず、ルシェがこういう笑い方をすると、悪戯っぽく、それでいて邪気のない無垢な子供のような笑顔になる。 「心配はご無用。封印をほどこしたので寒流山脈へお帰りの道中、二度とこれがガデス殿に危害を加えることはあるまい」 「そ、そうか。かたじない」 ほっとするガデスに、ルシェは傍らの石台を指し示していった。 「取り引きは成立した。ガデス殿の主君、バデク王の望まれる聖都の使徒を受け取られよ」 「おお…、し、しかし、これは」 白い指先に吸い寄せられるようにして、石台の上に置かれた漆黒の光を放つ物塊を一目見るなり、ガデスは戦慄した。 (こいつのせいだ!) この部屋に近づくにつれて燭台の火が薄れ、自らの悪寒とともに周囲の温度が下がっていくような気がしてならなかった元凶を、彼は知った。 (あれを…持ち帰れというのか?) そこには精緻な彫刻が一面に施された、禍々しくも美しい闇色の棺がおかれていた。 天雲はすでに白み、朝の光を地上に投げかけようとしている。 はてしなく連なる砂丘の黒影が煙るような濃紺、そして紫がかった茶色から金色を帯びた淡黄色へと変わってゆく、その一日のうちで最も砂漠が美しく彩られる時間の訪れまで、あと幾ばくもない。 かすかに朝の湿り気を帯びた風が、さらさらと砂紋を鳴らして砂丘の表情を変えていく様子は、いつも見るものの心を和ませる。それはまるで、穏やかな大海のさざ波にも似ている。 もっとも、ユスラは海というものを見たことがない。 のみならず、ドゥルーガのはずれの小丘に立って彼方を眺めている今朝のユスラは、夜明けの情景をしみじみと鑑賞している気分ではなかった。 昨晩のうちに、ユスラはルシェに命じられたとおりに出発の準備を整えておいた。あとは二頭の砂竜につないだ砂橇に、油布にくるまれた大きな長櫃のような荷物をガデスの部下たちが固定し終えるのを待つばかりである。 ここへ来るときに積んできた荷物ではない、というところからして、あれの中身がガデスたちが寒流山脈のバデク王のもとへ持ち帰る聖都の使徒なのだろう。 どうしたものか、とユスラは思った。 足もとにまといつく風の感触は、夜半からの彼女の不安を確実なものにしている。 (やっぱり、嵐になる) 砂漠の案内人としての直感に狂いはない。たとえどのように些細なものであっても、大自然の驚異の兆しを捉えたならそれに従順であるべしとは、この地に生きるものが最も優先しなければならない道理のひとつである。 まして、ガデスたちを連れてでは。 (ルシェさまだって、気がついているはずなのに) そのルシェはといえば、いつもと変わらぬ様子でガデスと挨拶を交わしている。 「旅の無事をお祈り申し上げる。砂漠の女神ジュゼのご加護があらんことを」 ルシェが別れの言葉を送れば、 「ドゥルーガに永久の繁栄あれ」 ガデスもオアシス都市で習い覚えた礼句を返す。 今ここを出発すれば、間違いなく砂嵐に遭遇するとわかっていながら、危険を承知で客人を砂漠へ送り出してしまうつもりなのか。ユスラにはルシェの考えていることがわからない。 それともこれほどの危険をあえて犯しても、急いで出発しなければならない事情があるのだろうか。 いや、そもそも<聖都>ドゥルーガの右手神として砂漠の民に崇められているルシェの思慮を、一介の案内人風情が理解したいなどと考えるほうがおかしいのだと、ユスラは強いて自分に言い聞かせようとしていた。 (それくらいは、あたしだってわかるってるけど) 切ない思いがこみ上げてくるのを、さっきからユスラはどうすることも出来ないでいる。 手の届かない、至上の存在だとわかっていても、好きな人のことを想う気持ちは止められない。自分に出来ることでルシェの役に立てることといえば、案内人としてのつとめを無事に果たすことなのだから、今はただ、がんばるしかないのだと思う。 それでも…。 「ユスラ」 ルシェがユスラを呼んだ。 砂丘を駆け下りてきた彼女がなにか言いたそうにするのを、周囲にそれと知られないようにそっとさえぎって、ルシェは言った。 「すぐ出発しなさい。ユスラの案内ならば私も安心だ」 「ルシェさま…」 「何も心配いらない。私を信じて、ユスラ」 澄んだ声と白い美貌に、ユスラは陶然となった。 ルシェにとって命令することや、人々がそれに従うことはあたりまえのことなのだろうに。今までにいったいどれだけの人が、ルシェの願いの言葉を聞くことが出来ただろう。 ユスラは腹を決めた。もともと割り切りは早いたちだ。 「まかせてルシェさま。次のお客を連れて、またきます」 しなやかな身のこなしで砂竜にまたがり、出発の号令をかけようとした、そのとき──、 白々と明け初めていた砂漠がにわかに光を失い、闇と突風が一行を包み込んだ。 見よ。 立ち往生するユスラやガデスたちの行く手より、暗黒の美影が沸き上がる。 「…バデク王の願いを聞き入れ、使徒界の禁忌を犯されるとは」 足もとから殷々と這い上がってくるその声の、なんという恐ろしさ。 黄泉より馳せ戻った左手神シグの烈風に煽られて乱れなびく漆黒の髪、そして昏い瞋恚に燃えさかる妖姿の、なんという美しさか。 人外の魔性の怒りを浴びせられた恐怖と、禁断の官能の情念に魂を鷲掴みにされたまま、旅人たちは身動きはおろか、息をすることさえ出来ずに立ちすくんだ。 「その棺の者…ドゥルーガより出すこと、この私が許しませぬ。お返し下さい、ルシェ!」 砂橇もろともユスラたちが暗黒の彼方に引きずりこまれるよりはやく、ルシェの白い繊手が闇を薙いだ。 ぴしり、という音をたてて裂けた闇の隙間から光粒がほとばしり、たちまち闇を押し流してユスラたちの呪縛を解き放った。 「行きなさい、ユスラ!」 ルシェの声に旅人たちを乗せた砂竜が、はじかれたように走り出す。 「ルシェ!」 闇を押し流した光粒の障壁に阻まれて、暗黒の化身さながらの妖美なシグが叫んだ。 もうもうたる砂塵を上げて遠ざかる一行を庇うように、黄金髪の麗人は動きを封じたシグの前に立ち塞がった。 「ここは通さぬ」 怒りに燃えるシグを押しとどめる行為とは裏腹に、その類まれな美貌も澄んだ声も、二人の間になにも変わったことなどおきていないかのごとく、静かで穏やかだった。 「あの使徒をバデク王に与えたのは、我々の未来のためなのだよ」 「アロウを…未完成のままドゥルーガから出せばどのようなことになるか、知っておられながらあなたは…」 「それも熟慮してのことだ。未来の可能性のために現在を変えねばならないときがある。たとえ使徒界の禁忌を犯すことになろうとも、今はバデク王が我々に約束した<時間の流れ>の知識を手に入れたい。わかってくれ、シグ」 「ルシェは…」 シグの姿が激しい身震いに、ぼうと霞んだ。 |
「ルシェはドゥルーガを滅ぼすおつもりか!」 悩ましいとさえ感じる低周波の振動に、光粒の障壁は世にも美しい音をたてて原子に還った。 対峙する両者の空間がスパークし、渦巻く砂塵が互いの存在を覆い隠した。白濁した砂塵の四方の帳から飛来する数条の黒い稲妻を、二転三転とかわして身をひるがえすルシェの表情が、かすかに動く。 もとよりルシェには視覚など必要ない。 稲妻の飛来したいずれの方向からも、シグの存在は感じ取れなかった。 頭上の空気が動いた。 それが、吹き荒れる風とは異質の気配と察知したとき、高圧の電磁波がルシェを直撃した。 間髪を入れず異次元の裂け目から舞い降りた漆黒の美影が、夢のように青白く燃え上がる黄金髪の麗人を背後から抱きすくめた。 抗うかわりにルシェは、肩ごしに振り返って囁いた。 「そなたの超力と私の知識…互いに競いあうなど、無意味なことだ」 「私との争いを望まれたのはルシェではありませぬか。聖都の使徒を、使徒界を統べるのはこの私であることをお忘れですか。たとえあなたでも…」 ふと、シグが言いよどむ。 激しい怒りに燃えさかるシグの瞳に、ためらいの色が浮かんだ。 「たとえあなたでも──私に勝てるとお思いか?」 「いや、私はそなたの超力には勝てぬ。かなわないよ」 シグの腕の中で、ルシェは微笑んだ。 限りなく優しく、そして圧倒的な不敵さをこめて。 「ならば、このまま私を滅ぼして闇世界に戻るか。そなたはそれを望むか、シグ?」 そう問いかけるルシェの華奢な麗姿には、自らの信条を他のいかなる存在にも変えさせない、汚させない、強靱な意志が秘められている。 誇り高き<聖都>ドゥルーガの頭脳、至高の右手神。 だからこそ、そんな情熱を余すところなくドゥルーガに注ぐルシェだからこそ、誰もが魅了されるのだ。ドゥルーガが民が心酔し、敬愛してやまないのだ。 シグすらも、また。 いつしか燃えさかる劫火は焦げ跡一つ残すことなく鎮まり、一つに溶けあう二人の足もとの砂丘が、朝の光を浴びて淡金色に染まってゆく。 「あなたは…私があなたを滅ぼすことなど、出来ないと思っておられる」 ほとんど聞き取れない声で、シグが呟いた。 「それは、シグが決めることだよ」 「人の心も万物の真理すらも、なにもかもご自分の思い通りにすることがお出来になるよう定められた御方。いつでも惑わず冷静で、あなたにはすべての成り行きがわかっていて…」 切なく、狂おしく。ルシェを抱くシグの腕が、小さく震えていた。 苦悩する顔さえもが、妖美に艶めかしい。 「…私には、あなたを傷つけることさえ出来ない。だが、彼らをこのまま見過ごすことも」 心のわだかまりを振り切るように、シグが叫んだ。 「彼らを…追わせて下さい、ルシェ!」 「シグ!」 二人の姿がもつれ合い──、 眩いばかりの閃光が、砂漠を全力で逃走する旅人たちの背中に叩きつけられ、膨れ上がるや世界を白一色に塗りかえた。 無限とも思える一瞬が去り、ようやく色彩を取り戻した彼らが見たものは──、 「ドゥルーガが…消えた」 呆然とガデスが呟く。 どこまでも見渡す限り連綿の砂丘、また砂丘。 麗飾絢爛の宮殿、そびえ立つ無数の尖塔も、活気溢れる人々で賑わっていた街並みも、伝説の幻都の名にふさわしいように跡形もない。 「取り引きが、終わったんだよ」 ユスラが、ぽつりと言った。 「あんたたちにはもうドゥルーガは必要ないんだ。ドゥルーガにとってもね」 (どうかご無事で──ルシェさま) ふっと、淡い感傷が彼女の心の中を吹きぬけた。 さらさらさら… もう耳慣れた風の運ぶ砂の音を道連れに、長くつらい炎獄の旅が再び始まる。 「さあ、行くよ。こんなところにぐずぐずしちゃいられない」 いつものテンポに戻って、ユスラはガデスたちを急きたて始めた。 「とりあえず、あと二、三刻もしないうちにやってくる、やっかいな砂嵐をやり過ごさなきゃね。なによぉ、ルシェさまだっていってたでしょ。そんな顔しなくたって大丈夫だって。あたしはレグアノ砂漠一の案内人なんだから」 荒涼と広がる砂漠のぬくみを帯びはじめた大気を、ユスラは胸一杯に吸い込んだ。 |
(完) |
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