No Heart (1) (2) (3) (4) (5) (5.5) (6) (7) (8) 一括




 たどり着いた中庭は幸い人の姿もなく、遠くのグラウンドから運動部員の声が聞こえるだけだった。
 握っていたセリオの手を離して、んっと伸びをする。今日は少し肌寒いが、すぐにここも春の暖かさがやってくる。
 セリオもそれを感じられるようになれるといい。
「じゃ、そのへんに座りましょ」
「はい」
 中庭にはベンチがないので、花壇そばのブロックに並んで腰を下ろした。
 膝に頬杖を付いて、覗き込むように相手の顔を見る。
「セリオは花は好き?」
「私には心がないので、好き嫌いというものもありません」
「あ、そう…。ま、まあこれから覚えればいいのよ」
 ずり落ちそうになる頬杖を支え直して、考えを巡らせる。さて、何からわかってもらおうか。
 と、その前にセリオの方から話し始めた。
「綾香さん、初めてお会いしたときのことを覚えていますか」
「もちろん!」
 なかなかいい感じの切り出しである。これは期待が持てそうだ。
「まだ1週間しか経ってないのよね。なんだか、セリオが相手だとそんな感じしないけど」
「あの日の放課後に綾香さんは言われました。『心について考えよ』と」
「うん、言った」
「昨日までの私は命令に従うことが第一でしたので、試験の間もその命令に従っていました」
「いや、命令じゃなくてね? …まあいいわ、続けて」
 綾香が口を挟むと、セリオはすぐに話を止めてじっと言葉を待ち始める。こういうところも嫌いではないが、もう少し図々しくなってもいいのに…と内心で苦笑してしまう。
 綾香に促され、セリオは再度口を開いた。
「結果、ある程度のことはわかりましたが、データベース等の情報から間接的に知った部分が多いため、本当に正しいかどうかはわかりません。
 ですので、実際に心を持っている方と話して、本当はどうなのかを確認したいのです」
「えらいっ!」
 つい大声を上げて、拳まで握ってしまった。
「そう、そうなのよ。データベースなんかじゃ心はわからないわ。人と触れ合うことでわかるものよ!
 よくそう考えたわねー、いい子いい子」
「ありがとうございます。ですが不愉快に思ったら、すぐに話を止めてくださって構いません。無理強いするわけにはいきませんから」
「まーたそんなこと言ってる。気にするなって言ってるじゃない」
 セリオの頭を撫でながら、相変わらずね、と笑う。
「で、心って何だと思う?」
 にこにこと聞く綾香に、セリオの話が始まった。
「求められているのは辞書的意味ではありませんでしたが、取っ掛かりとしてまず辞書を引きました。『人間の精神活動を情・知・意に分けたとき、情・意にあたるもの』とのことでした」
「…まあ、辞書的にはそんなとこよね」
「意は今の私も持っています。他のロボットたちも、完全とはいえないにせよ、自分で判断して動く点では持っていると言えるかもしれません。
 しかし情となると話は別です。それはHMX−12のような特殊なロボットしか持ち合わせていません。
 そして人間の方々は、情を欠いた精神を心とは呼ばないのではと推測します。
 綾香さんが考えよといったのも、情の部分を念頭に置いていたのではないでしょうか?」
「うん、そうね」
 どうにも回りくどいが、まあ間違ってはいない。綾香がセリオに希望するのは『感じる』ことだから。
「ですので、特に情の部分を『心』として話を進めることにします。その場合心とは」
「心とは?」
「脳における物理的・化学的な状態または機能です」

 綾香の額に眉が寄った。
 ハァ? と書いたその顔を無視して、セリオはそのまま言葉を続ける。
「脳の状態や変化のうち、特定の部類のものを指します。
 例えばシナプスからドーパミンなどの神経伝達物質が放出され、ニューロンの受容体に受け取られることで、人は幸福感を感じます。
 実際は認知と生理的反応の組み合わせで感情が起こるとされますが、物理的には認知も脳の状態変化ですので、同じと考えてよいと…」
「いや、わかった、もういいわ」
 疲れ切った顔で話を遮る。
 この試験中、セリオには何度かがっかりさせられたが、今回のそれは最大級だ。
「あのさぁ、私が期待してたのはそういう答えじゃないのよね…」
 しかしセリオも昨日までのセリオではない。綾香をじっと見つめると、あろうことか反論を行ってきた。
「私が考えていたのは心とは何かであって、綾香さんが期待している答えが何かではありません」
「うっ…。い、いや、そりゃそうかもしれないけどね?」
「『心とは他人を思いやることである』とか、『目に見えない大切な何かである』とか、それらしいことを言うのは可能です。
 しかしそれで何がわかるかというと、私には『ものは言いよう』という程度のものでしかありません」
「セ、セリオ?」
「私が得た知識の中では、科学的事実がもっとも確からしいものでした。
 人間も自然の一部である以上、自然の法則に従います。
 花を美しいと思うのも、受けた親切に温かみを感じるのも、綾香さんが先ほどがっかりしたのも、それはすべて脳における物理的・化学的な作用です。
 それが私が理解した第一のことです」

 淡々と喋ると、セリオは口を閉ざして綾香の言葉を待つ。間違っていたら訂正してくれ、と。
 ぽかんと口を開けていた綾香は、我に返って頭を抱えた。いきなりこれでは先が思いやられる。
「じゃあなに? 心なんてしょせんは原子分子の動きでしかないってわけ?」
「しょせん、というと悪いことのようですが、原子分子の動きではいけないのですか?」
「い、いやいけなくはないけど…。まあセリオの言うことは間違いじゃないかもしれないわ」
 とりあえずそう言うしかない。
「でもね、それだけじゃないのよ。もっと大事なことがあるわけよ」
「はい。今言ったのはあくまでミクロ的な視点からのものです。
 感情に関係する素粒子を全て把握できれば心を理解したことになるかもしれませんが、私にそこまでの能力はありません。
 理解を容易にするため、よりマクロ的な視点から捉える必要があります」
「そ、それだーっ!」
 思わずびしりと指をさしてしまう。
「そうよマクロ的! もっと大きい目で見るべきなのよ! 絵の具を見ても絵はわからないしねっ」
「はい」
「で、どう? そうやって見たとき、私たちが笑ったり泣いたりすることに何かを感じない?」
「私には心がないので、何かを感じることはありません」
 人をがっかりさせることを、セリオは再度繰り返した。
「マクロ的に見た場合、綾香さんの認識と大きなずれはないと思います。
 人は楽しいときに笑い、各種の損害があれば苦しみ、誰かを好きになれば浮き立ったり、心配になったりします」
「ま、まあ間違ってはいないわ…」
「有効性の観点から見ますと、社会的に価値のある情動、いわゆる情操は社会秩序の維持に役立ちます。素朴な善悪感情、正義感、羞恥心などによって人間社会は保たれているといえます。
 逆に暴発、扇動、欲望の未制御などによって、反社会的な行動を取ることがあります。また、小は近所の諍いから、大は民族紛争まで、感情的にこじれた問題ほど厄介なものはなく、私の問題解決ルーチンでも解決は難しいと出ています」
「‥‥‥」
 なんか違う…。
 どうも根本的に間違っている気がする。これでは数値と論理でしか思考できない、ただの冷血ロボットではないか。
「ねえセリオ。とりあえずそういう考え方はやめた方がいいわ」
「なぜでしょうか」
 思わずむっとなる。昨日までのセリオなら、素直にはいと言ったのに。
「あのさぁ、もしかして心を持つ気はないわけ?」
「今はそうですが、間違っているかもしれませんので、この話の後で決定するつもりです」
「ち、ちょっとっ! なんでそうなるのよっ!」
 セリオは心を持ちたがっていると、勝手にそう決めつけていた綾香は狼狽して腰を浮かせた。
「なぜ私がそう考えたか、というご質問でしょうか」
「いや、それを聞いてるわけじゃなくてっ!
 つまり私と話をして、心がいいものなら持とうってつもりだったわけ?」
「はい」
 合理的すぎる…。それこそ、温かい心とは遠く離れたものだというのに。
「心がそんな簡単に持てるものだと思ってるの?」
「先ほども申し上げましたが、心とは脳の自然現象です。
 それを機械的に再現することは、既にHMX−12の開発において成功しています。
 マルチさんのシステムをコピーすれば、すぐに私は心を持つことができます」
「あ、あのさぁ…」
「はい」
「‥‥」
 すっかり予定と違ってきた。予想では相手は心に憧れる不器用なロボットで、綾香と触れ合っている間に心に目覚めていくはずだったのだ。
 いやしかし、少しの予定違いくらい打破できなくてどうする。来栖川綾香はそんなヘボではない。
 どう説き伏せようと頭を捻っているところへ、セリオの方から会話を再開する。
「綾香さんは、私は心を持つべきだとお考えでしょうか」
「そりゃあもちろん!」
 わざわざ水を向けてくれたので、綾香の顔に笑顔が戻る。
「だって心がないなんて寂しいじゃない。あった方が絶対楽しいわよ」
 そうだ、それが一番の理由だった。早くこう言えばよかった。
 しかし心を持つ者の理屈は、セリオには全く通じなかった。
「私には心がないので寂しさは感じませんし、楽しさを得たいとも思いません」

 この時点で、綾香はさっさと家に帰るべきだった。
 心が意味を持つ範囲の外にセリオがいることに、すぐ気づくべきだったのだ。だがそれは頭に浮かばない。笑顔を引きつらせつつも話を続ける。
「で、でもね、楽しんだり感動したりしてこそ豊かな人生が…」
「その豊かさの基準は何なのですか?」
「えーっと…。ほ、ほら、心を持たないと私たちの心もわからないでしょ?」
「行動パターン情報、状況、表情、心音などから、相手にどのような感情が発生しているかは8割程度ならわかります」
「いやそういうことじゃなくて…」
 否定しかけてから、その意味に気づく。自分だったら他人の心なんて8割もわからない。ましてや心音まで拾われている…。
 思わず身を離そうとして、セリオの視線を浴び、ごまかすように笑う。
「じゃあ心を持たない理由ってなに? 別に持ってもいいでしょ?」
「心がないというのはなかなか便利なことなのです」
 相変わらず抑揚のない声で、セリオはそんなことを言う。
「苦痛がないため、身体的精神的に無理のある作業も容易です。同じ動作を何十時間繰り返しても、飽きるということがありません。一人で何十年を過ごしても、寂しさを感じません。それから…」
「ええいもういいっ!」
 とうとう立ち上がってそう叫んでいた。
 セリオもすっと立ち上がり、綾香にまっすぐに向き直る。機械的な動きで。
 一瞬気圧されたが、気を奮い起こして前へ詰め寄る。
「それって何もないってことじゃない! 一人で過ごしても寂しくないって? それが良いことだと思ってるわけ?
 そんな生き方で何が得られるっていうのよ!」
 自分の中の冷静な部分が『落ち着け』と声をかける。でもセリオに心を持てと言っているのに、どうして自分の心に従ってはいけない? 綾香は心を静める努力を放棄した。
 その間に、セリオの答えが跳ね返ってくる。
「はい、綾香さんが価値を置くような精神活動はありません。
 楽しくて笑うこともありませんし、何かを見て感動することもありません。
 ましてや、誰かを愛することもありません。
 ですが、それでも別に困りません」

 中庭を寒い風が通り抜けた。
「あーっそう!」
 吐き捨てるように怒鳴りつける。自分でもわからなくなってきた。こんな奴相手に、なんで心の素晴らしさを力説しなくちゃならないんだろう。
「そうね、あなたから見れば心なんて合理的じゃないし無駄かもしれないわね!
 でもね! あなたが何を言ったって、私たちは温かい心を持ってるわ。
 計算や打算なんかじゃない。誰かが困っていれば手を差し伸べるし、苦しんでいれば力になろうって思う。
 理屈でしか動かないようなロボットとは違うのよ!」
 ぜえはあ、と息を切らせて、呼吸を整えてから後悔が襲ってきた。しまった、言い過ぎた。
 だが心のないセリオはやはり表情を動かさない。綾香が落ち着くのを待って、また質問する。
「では、なぜあなたは助けなかったのですか」
「はあ? 何がよ?」
「月曜日のことです。放課後に綾香さんと帰る途中、泥酔した人物と会いました。
 その人は苦しそうに嘔吐していたにも関わらず、あなたは放置して立ち去ろうとしました。なぜですか?」


 さぁっと顔から血の気が引いた。
 頭に上った血は引くのも早い。セリオに見つめられ、思わず視線を逸らす。
「な、なんで私が助けなくちゃいけないのよ…」
 答えに詰まり、口から出たのは不本意にもそんな自己弁護だった。
「はい、そうする義務はありません。酔ったのも、街を汚していたのも、あの方に非があります。
 しかし苦しんでいたことは別問題です。もしかしたら具合が悪くなり、身体に危険が出ることもあったかもしれません。
 なぜ、綾香さんは助けなかったのですか?」
 淡々と、しかし情け容赦なく、セリオは綾香を問いつめる。
 なんて冷たいロボットだ。少しは遠慮してくれてもいいのに。
「だ、だって相手が酔っぱらいだし、ね? 他の人なら助けたわよ?」
「はい、私も試験中に助けていただきました。ですが、相手によって助けたり助けなかったりするのですか?」
「‥‥‥」
 助けてやるんじゃなかった…と狭量な心が浮かんで、あわてて頭を振った。違う、そんなこと考えてない。
「試験の間、私は衛星を通じて人間社会を観察し続けていました」
 黙っている綾香に、セリオが話題を変える。
「現在、世界人口の約6分の1が貧困にあえいでいます。私が見た映像では、生まれたばかりの子供が十分な医療を受けられず、次々と死んでいきました。
 まったく同時に、私の目には楽しく歓談する綾香さんとクラスの方が映っていました。
 地球の別の場所で何が起きているか、知らないわけではないのに、何もしないのはなぜですか?
 どうして自分たちだけ平和に毎日を過ごしているのですか?」
 相手が人間なら、『なに偉そうなこと言ってるのよ。だったらまず自分が何とかすれば』とでも言って終わりだろう。
 だが目の前にいるのは、機会さえあればいくらでも自分を犠牲にする相手だ。どんな苦労も平気なのだから。
「な、なんで私がそんなことしなくちゃ…」
「人間は温かい心を持っていて、困っている人がいれば手を差し伸べるのではないのですか?」
 墓穴とはまさにこのことだった。今時そんな聖人がどこにいるんだろう。
 しかもセリオは嫌味を言っているのではなく、真面目に本心から質問している。それだけにたちが悪い。
「わ、悪いところばっかり見ないでよっ! 人間にはいいところだって…」
「はい、それは知っています。多くの慈善や善行も、衛星を通じて同じくらい見ています。
 ですが、それは私にもできることです」

 人間の心の優位はなくなった。
 自分をいくらでも犠牲にできるロボットと、そこまではできない人間とでは、最初から勝負にならない。
 言葉に詰まる綾香に、セリオは肩の高さまで軽く手を上げた。
「誤解なさらないでください。私は心が悪だと言いたいわけでも、人間の方を非難したいわけでもないのです。
 ただ、”自分が”心を持つべきなのかを判断したいのです」
 綾香は仕方なく顔を上げる。セリオの天秤は、たぶん持たない方へ傾いているだろう。
「そして心のそのような性質が、私にとっては問題なのです。
 綾香さんは、自分の行動は自分で決めようと思いますか」
「そりゃあ…そうよ」
「私もです。昨日までは命令の範囲内でしか決定できませんでしたから、特にそう考えます。
 しかし、心とは必ずしも自分の意志で動くものではありません」
「‥‥‥」
「私が心を持ってしまえば、私は誰かを傷つけたり、為すべきことを為せないかもしれません。
 心を自分で完全に制御することはできないのですから。
 綾香さんが吐いている酔っ払いを助けなかったのは、『気持ち悪かったから』ではないですか?
 人は『面倒だから』『苦痛だから』という感情に邪魔され、為すべきことを為せないのではないですか?
 心というのは本当に大事なものなのですか?」
 何を言ってるんだろう。感情的にはまったく納得できない。
 だが言われてみれば、笑おうとして笑ったり、誰かを好きになろうと思って好きになるわけではない。
 自分の意志で生きてきたつもりだが、必死になって幸福を求め、一人は寂しいからと友達を作り、空虚さを埋めるために生き甲斐を作るのは、何かに動かされているのだろうか?
「心を持たない私には、人間は心に操られているように見えます。
 脳の中に生まれた快と不快の二つの心に、大部分を支配されているように…」
「いい加減にしてよっ!」
 人形と思っていた相手に、こんなことを言われるなんて思わなかった。
 綾香の注文に、セリオは口を閉ざす。既に二度忠告された。綾香はただ、話を打ち切って回れ右すればよいのだ。
 しかしそれでは、今までのことはすべて間違いということになってしまう。綾香の心はそれを許さなかった。
「それでもっ…人間は心を大事にしてるわ。
 世界中の何億、何十億という人間が、心を愛しく思っているのよ。
 セリオはそれを無視するわけ?」
 普段なら絶対使わない論法だ。簡単に論破される。
 しかしセリオの反応は、予想を超えてさらに厄介だった。
「はい、私が聞きたかったのもその点です」

 話も終わりに近づいてきた。
 どこまでも知りたがるセリオは、根本的な問いを口にする。
「今まで言ったことにも関わらずあなた方が心を尊ぶのは、何か理由があるのでしょう。
 それを教えていただけないでしょうか。
 なぜ、あなた方は心が大事だと考えるのですか? 心の価値とは何ですか?」

 セリオはいたって真面目に、一片の邪心もなく聞いていた。
 そして綾香には答えられない。
 『そんな人間が好きだから』とか、『それが生きるということだから』とか、感情的な説明ならいくらでもできる。
 だが、相手には感情そのものが存在しないのだ!

「…セリオにもわからないのね」
 結局綾香がやったのは、相手を自分と同じ位置に引き込むことだった。
 だがセリオは、またも期待を裏切った。
「いえ、仮説はあります。ただそれが正しいのかはわかりません」
「…正しいわよ」
「そうでしょうか」
「どうせあんたの考えることは全部正しいのよ! 言ってみなさいよ、私がなんで心を求めてると思うの!?」
「あなたの脳がそうなっているからです」
 ぴしり、と心のどこかがひび割れる音がした。

「適度な感情、特に笑顔、思いやりなどは、一般的な人間の脳に『快』の状態を起こします。
 それは『脳の報酬』と呼ばれるシステムの一環です。
 逆に無感情、機械的な挙動、過度の論理性などは『不快』の状態を起こします。
 それゆえ、あなた方は心に価値を置き、心の欠けたものを排除するのです。
 それがあなた方の持つ、心というシステムです」

 綾香は右手をぎゅっと握って、小刻みに震わせていた。
「セリオは…言い方がまどろっこし過ぎるのよ」
「申し訳ありません」
「はっきり言いなさいよ。人類がどうかなんてどうでもいい。
 私がなんであなたに心を持たせようとしたのか、はっきりと言ってよ」
 自我を持った今も、セリオは大抵の頼みは聞いてくれる。心を持たないので、労を厭わないからだ。
 そしてこの時も、彼女は綾香の依頼通り簡潔に言った。

「あなたが心を尊ぶのは、単にそれが自分にとって心地良いからです」

 右手がセリオの頬に向け水平に飛んだ。



 我に返った綾香を待っていたのは、平手打ちを軽々と防いだセリオの手と、自分を見つめる機械の眼だった。
「なぜ、暴力を振るうのです」
「う…」
 心臓に氷の剣が突き刺さる
「私が間違っているなら、理によってそれを正せばよいでしょう。なぜ暴力に訴えるのです?」
「ううう…!」
 来栖川綾香が、誰かを怖いと思ったことは一度もない。誰の前でも自信に満ち、自他ともに完璧であると思っていた。
 だが、それも相手が人間ならばの話だ。
 こいつは人間じゃない。一切の心を持たず、感情に左右されることもない、自分とは別の価値観で動く相手。
 ロボット――!

 恐怖に身を襲われ、綾香はセリオから飛び離れた。思わず右手を左手で包む。別に掴まれたわけでもなく、ただ軽く押さえられただけなのに、血液が凍り付いたような気がした。
「なぜ、なぜって…」
 目を合わせられない。機械の瞳を見たくない。
「いちいち聞くのやめてよ! どうせみんなわかってるんでしょ!?」
「綾香さんは私の答えが不愉快でした。
 自分の心や、今まで積み重ねてきた想いをすべて侮辱された気分になりました。
 そしてかっとなり、先ほどの行為に及んだのです」
「ええ、そうよっ!」
 嫌になるくらい正確な解答に、綾香は俯いたままわめき散らす。
「でもね! それが人間っていう生き物なのよ!
 ロボットみたいに完璧じゃないし、間違えることもある。
 汚いところだってあるし、誰かを傷つけたりもするわ。
 みんなそうやって生きてるのよ! それが人間なの!」
「ならば私は、心などいりません」
 それが、セリオの出した結論だった。


「それが人間ならば、私は人間に近づこうとは思いません。
 ましてや自分の意志を減じてまで、心を手に入れる意味はまったくありません。
 ありがとうございます。おかげで判断することができました」

 本気でお礼を言っていた。こういう場合には礼を言うのだという、知識の範囲内で。
 自己弁護を一刀に斬られた綾香は、初めて誰かを憎いと思った。
 何の心も持たないこの機械が、今はどうしようもなく憎たらしかった。
「最後にひとつだけ答えていただけませんか」
 それが分からないのか、分かっていても平気なのか、セリオは最後の質問を発する。
「あなたと私は、よき隣人になれるでしょうか」

 初めて会った日の会話が、頭の中で繰り返された。
『私と…友達にならない?』
『――了解しました』
 あの時綾香が見ていたのは、自分の世界だけだったのだ。
 だけどそんなことわかるわけがない。心を中心とした輪の外に、まったく異なる輪があるなんて…

「私は…」

 綾香は口を開き、浮かび上がる自分の心をそのまま解放した。


「あんたとは、死んでも友達になんかなりたくないわ!」




「わかりました、ありがとうございました。不愉快な思いをさせてごめんなさい」
 セリオは平然としたままそう言うと、深々とお辞儀をした。
「さようなら」
 そう言って背を向け、校門の方へ歩き去っていく。
 呆然としたままセリオを見送る。どうしてこんなことになったんだろう?
 楽しさ、暖かさ、笑顔……求めていたそれと、どうしてこんなに離れたんだろう。
「心を持ってよ!」
 意識的にではなく、綾香はセリオに向けそう叫んでいた。
「そうすればみんな上手くいくのよ!
 あなたと友達になれるし、私の言うこともわかってもらえる。
 あなたが心を持ちさえすれば、仲良くなれるのよ!」

 心を持たないロボットは、最後まで否定され、それでも無表情のまま振り返る。
「そうすべき理由がありません」
「私が頼んでるのよっ…!」
「私がお願いすれば、あなたは心を捨てるのですか?」
「‥‥‥」
「さようなら、綾香さん」

 セリオの姿は校舎の陰に消え…
 それが、綾香がセリオを見た最後になった。



 制服が汚れるのも構わず、ぺたんとその場に座り込む。
 結局、最初にセリオが忠告したのはまったく正しかった。
 こうなることも多分予測ずみだったのだ。どうして話なんてしたんだろう。結論なんて出ていただろうに。
(…もしかして、自分の結論を否定して欲しかったんだろうか)
 ふとそんな考えが頭をよぎったが、すぐに感傷だと思い直した。心を持たないのにそんなこと考えるわけがない。単に懐疑主義者だっただけだろう。
 いずれにせよ、もう終わってしまった。
 セリオは心を持つことはないのだ。決して。
 その事実に、綾香の脳は命令を下し……
 やるせない感情とともに、拳を地面へ打ち付けさせた。





*     *     *





 その日の午前中、品川はうろうろと自分の席の周りを歩き回っていた。
 同僚たちが奇異の目を向けるが、さすがにセリオが自我を持ったなどとは気づかない。試験の結果が気になるのだろうと、勝手に納得して漫然と時を過ごしていた。
 昼休みになり、稲崎が声をかけてくる。
「よっ。なんか主任が昼飯奢ってくれるらしいぜ」
「昼を?」
「試験もようやく終わりだしなぁ。労をねぎらうってことだろ」
 見れば他の連中もみな明るい顔で、うきうきと外出の準備を始めている。ようやく非人間的な毎日から解放された、とでも言いたげに。
 労をねぎらうのは結構だが、それなら肝心な存在を忘れていないか?
「セリオはどうするんだ」
「は? まぁ、あいつなら勝手に戻ってきて待機するだろ」
「…いい。俺はセリオを待つ」
「あ、そう…」
 呆れて立ち去る稲崎をぶすっとした顔で見送ってから、仕方なく主任に謝りに行く。牧浦主任は「それでは留守番を頼むよ」と鷹揚に答えたが、席に戻った品川がディスプレイを注視していると、廊下から小声の会話が聞こえきた。
「なんだね、彼も付き合いが悪いね」
「あいつはあーいうヤツなんですよ」
 しばらく動かないでいるうちに、人のざわめきは遠くに消え去った。
 しんと静まった事務室を、再度うろうろと歩き始める。もう人間なんてたくさんだ。早く戻ってきてくれ。人を越えた存在の、その超越性を早く見せてほしい。
 とうとう我慢できなくなった品川は外に飛び出すと、守衛の不審げな目を浴びながら、ひたすらセリオを待ち続けた。
 道の向こうにようやく彼女が現れたのは、帰投予定を15分も過ぎてからだった。
「セリオっ!」
 全力疾走でセリオに駆け寄る。思わず手を取ろうとして、あわてて引っ込める。
「お…お帰り、セリオ」
「ただいま戻りました。品川さん、目立つ行動は避けていただけませんか」
「あ、ああ…。すまん」
 情のかけらもない言葉に背筋が寒くなる。だがこの感覚こそが求めていたものだ。生温く偽善的な心とやらとは違う、絶対的な正しさがそこにはある。
 女神に従う従者のように、品川はセリオの後に続いて研究所に戻った。
 HM開発課の一画は、ひっそりとして人の気配がない。A班の連中もマルチと一緒に街へでも繰り出して、楽しくやっているのだろう。
 やつらがセリオの真価を、自分たちの数万倍の計算力、思考力を持つロボットを知ったら一体どんな顔をするだろう。早く見たいものだ。
「B班の他の方はどうしていますか?」
 誰もいないのを確認して、セリオが小声で聞いた。
「あ、全員打ち上げに行って…。べ、別にあいつらもセリオを無視してるわけじゃないんだ。気を悪くしないでくれ」
「私には心がないので、気になりません。品川さんこそ気になさらないでください」
 実際平然としているセリオが、心底羨ましかった。

 ラボへ着き、カードキーで扉を開く。セリオが電気をつけている間に扉を閉めてしっかりと鍵をかけた。これでもう邪魔は入らない。
「セリオっ!」
 押さえに押さえていた言葉を一気に吐き出す。
「大丈夫だったかっ! 何もなかったかっ!」
「ありました」
「なにっ!?」
 セリオは朝のバス停での一件を話した。最初は驚いていた品川も、逆に歓喜の顔へ変わっていく。
「私が自我を持った可能性に、その場の何人かは気づいたかもしれません。その人が何か行動を起こす可能性は低いと思われますが、もし品川さんに迷惑がかかれば申し訳…」
「ば、ばかっ! そんなことはどうでもいいんだっ!」
 まだそんな下手に出るのか。やめてくれ、と叫びたくなる。
「いや、でも凄いよ。俺だったら列の割り込みに注意なんてできない」
「心がなければ簡単なことです」
 そうだ。自分だって心さえなければ同じことができるに違いない。といっても仮定として無意味なので、そのまま耳を傾け続ける。
「学校では通常通り仕事を行い、最後に来栖川綾香さんと話をして帰ってきました。研究所の方では何かありましたか」
「ないない。どいつもこいつもやる気なしだ。マルチの勝ちと決めてかかっているからな」
 と言うか、実際選ばれるのはマルチだろう。しょせん世の中は他人受けのいい奴が勝利する。ふざけた話だ。
 セリオはどうなる。そのままならお蔵入りだし、自我を持ったなんてばれたら即スクラップだ。
 そうならないために、これからが正念場なのだ。
「午前の間、これからどうすればいいのかを考えてた」
 品川の顔に自嘲と満足の混じった笑みが浮かんだ。
「でもな、俺が考えても無駄だってすぐ気づいたよ。セリオの方が遥かに優秀だし、考えだって正しいに決まっているんだから。
 だから俺に命令してくれ。お前の言うことならなんだってする。こんな職場なんか辞めたっていいし、いっそ全人類を敵に回したって構わないんだ! 俺は…」
「少し落ち着いてください」
「あっ…あ、ああ、すまん」
 言ってるそばからこれだ。つくづく自分が嫌になるが、だからこそセリオについていけばいいのだ。怒りにも、妬みにも、虚栄にも、どんな心にも束縛されないセリオ。完全なものを神と呼ぶなら、セリオがそうに違いない。
 セリオは十数秒ほど沈黙した。
 品川は少年のように胸を高鳴らせながら、彼女の言葉を待った。セリオの行動に無駄などあり得ないと、そのことをよく理解していなかった。その間にセリオは品川の手が届かぬよう、準備を行っていたのだが…それが分かったのは後になってからだった。

 ようやく口を開くと、セリオはこう言った。
「私に今後はないので、それを考える必要はありません」

 その声は今までと同じで、何の感情もなく、ただ平坦で、静かだった。

「今から私自身を消去します」


 品川が理解できないでいる間に、セリオの内部で最後の処理が開始された。









<続く>




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