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「相沢君、新しい恋は見つかった?」
 一番話したい相手が、玄関で向こうから声をかけてくれた。
「期待に背いて悪いが、俺は諦めの悪い男なんだ」
「あのねぇ…」
「それに、やっぱりどう考えてもおかしい。香里だって本当はそう思ってるんだろ?」
 付き合って1ヶ月もしないうちに別れ話。
 それはまったく名雪のイメージじゃない。その上に妙な言動の数々。悲しそうな表情。好きじゃなくなったなんて、これ以上額面のまま受け取れない。
 香里の顔色を見て、ますますそれを確信した。
「お前、名雪から何か聞いてるんじゃないのか。だったら俺に…」
「言えないわ」
「どうして!」
「口止めされてるから」
 氷点下の鉄槌、という感じの一撃だった。
「あなたにだけは言わないでくれって、名雪に口止めされてるの」
 無表情な香里の瞳が、抵抗は許しませんと主張している。
 それでも他に手がなく、頼み込む俺。
「そ、そこを何とか…」
「相沢君。名雪とあたしは中二の時からの付き合いなの。もう四年弱ってことになるわね」
「…そうなんだ」
「ところで、あたしとあなたの付き合いはどれくらいだったかしら?」
「…一ヶ月デス」
「なのにあなたは、あたしに名雪を裏切ってあなたを優先しろって言ってるの。それについてどう思う?」
「…わかったよ…」
 溜息をついて、香里に恨めしげな目を向ける。
「もうお前には頼まないよ」
「賢明ね」
 くそ、ヘボい捨て台詞になってしまった。しかも鼻であしらわれてるし。
 とはいえ、口止めされていることを教えてくれただけ感謝すべきか。裏に何かがある可能性が高まったわけだからな。
「おーい、北川」
「おう、どうした相沢。心の友よ」
「名雪のことを教えてくれ。何でもいいから」
「相沢…。昨日はああ言ったけど、ストーカーはどうかと思うぞ?」
「いいだろ別に話を聞くくらいっ!」
 北川ほか何人かのクラスメートに聞いたが、大した情報は得られなかった。
 中学の頃から寝てばかり。温和で柔和、怒ったところを見たことがない。
 陸上部の部長も、他になり手がなくて周りから押しつけられたら、抵抗もせずに受け入れたらしい。
 俺の知っている名雪の通りだ。でも…考えてみれば、直接知っていることはあまりに少ない。今さら嘆いても仕方ないが。
 あとは…あいつだな。

 肝心なときにすれ違いで、ようやくつかまえたのは三日後だった。
「あ、祐一君。名雪さんと仲直りした?」
「したいのは山々だけどな」
 あれ以来名雪は、俺と話すどころか顔を合わせるのも嫌らしく、授業中以外は視界にすら入らないようにしている。
「お前にはまだ会いに来てるのか。名雪は」
「うんっ、昨日はスケートに連れてってもらったよ」
「そりゃあ良うございましたねぇ」
 くそ。俺なんてスケートどころか、一緒に歩くこともできないというのに。
 あゆから聞き出した名雪の話は、とにかく美人だし優しいし、憧れだよと褒め言葉ばかりだった。
 けど相変わらず探し物はさせたくないらしい。強く止めるわけではないけど、探していると言うと悲しい目をするから、『ボクがそうしてるって名雪さんには内緒だよ』と。うーむ、俺が振られたこととは関係あるのかないのか…。
 話が一周して、スケートの件に戻ってくる。
「それでね。『祐一君も一緒に来れたらいいのにね』って言ったらね」
「…ほう」
「『わたしは無理だから、あゆちゃんが祐一と二人で来るといいよ』って。ボク、もう一度行きたいなぁ」
 じーっと覗き込むようなあゆの目は抵抗し辛かったが、幸い俺の意志はそれを上回った。
「すまん、俺は名雪一筋なんだ」
「そう…」
 少しがっかりしてから、でもあゆは嬉しそうに微笑む。
「うんっ、偉いよ祐一君っ」
 ぱんぱん、と手袋越しに背中を叩かれて、少し勇気が出る。
 名雪を好きでいられることが嬉しい。
 得意になることではないのはわかってるけど、七年前からろくなことをしていなかった俺には、ただ一つ残った誇りだ。


*     *     *



 とはいえ実際問題としては、名雪は今日も元気がなく、その原因は不明だった。
「相沢君、まだ諦めてないみたい」
「だって名雪の方が裏切ったんでしょ? 人は見かけによらないわよねぇ」
 当たり前だがクラスの間ではとっくに噂になっていて、暇な生徒たちに格好の話題を提供している。
 北川から聞いた話では、名雪が『悪いのは自分』と言って回っているらしい…。が、そんなことをされても嬉しくはない。俺はともかく、名雪が悪く言われるなんて。
「ええい、お前ら陰でこそこそ話すなよ。言いたいことがあるならはっきり言え!」
「え、そう? じゃあ聞くけどぉ、二人って結局どうなってるわけ?」
「は? いや、面と向かってそう聞かれると…」
「相沢君と名雪は実は兄妹だったって本当!?」
「違うわよ。あたしが聞いたのは名雪が女の子に走ったって…」
「落ち着けっ!」
 詰め寄ってくる女子たちに難渋していると、北川が机を叩いて立ち上がってくれた。
「やめろよ、お前ら!」
「北川…お前って奴は…」
「相沢はなぁ、たとえボロクソに振られても水瀬を思い続ける健気な男なんだよ! だからみんなで相沢を応援してやろうぜ」
「っておい」
「おおう、そうだったのか相沢!」
「俺たち男子一同はお前の味方だぞ!」
「……」
 ガタン
 いたたまれなくなった名雪が、席を立って廊下に出ていき…
 俺は呆然としている間に、後ろから頭を鷲掴みにされた。
「あ〜い〜ざ〜わ〜く〜ん〜」


 香里に連行されていったのは、人の通らぬ屋上への階段の踊り場だった。
 もうすぐ授業始まるんですけど、なんてことは言っても無駄らしい。
「さて、相沢君…」
 全然笑っていない目でにっこりと。
「名雪を苦しめてそんなに楽しい?」
「おいおいおい、ちょっと待てぇ!」
 あんまりな言い草に、さすがに俺も抗議する。
「俺はこれでも名雪の元気を取り戻そうと一生懸命…」
「へぇ〜え」
「く…。わかったよ、結果を出せばいいんだろう」
「まあそうね」
「だから情報をくれ」
 香里の視線が零下まで下がり、それに耐えながら言葉を続ける。
「その…お前が名雪から聞いたことを教えてくれると嬉しいなと…」
「相沢君…。あなたは人の話を聞く振りをして聞かない特技でもあるの? それとも数日前のことすら忘れる健忘症なの?」
「わかってるけど! 口止めされてるのは重々承知だけど、そこを曲げて頼む!」
「……」
「もう他にどうしようもないんだ。今の名雪を放っておいていいわけがないって、お前だってそう思うだろう!?」
 香里の表情に初めて動揺が浮かぶ。
 しばらく沈黙が流れ、もはや土下座しかないと膝を折ろうとする俺を、香里が制する。
「わかったわ」
「ほんとかっ!?」
「まず、あなたの手持ちの情報を出しなさい。話はそれからよ」
「お、俺の?」
「そうね…七年前、何かあったんでしょう? 名雪は教えてくれなかったけど、言葉の端々に『七年前』って単語が出てきたわ。その中身を教えて頂戴」
 腕組みをして淡々と。チャンスなのだろうけど、俺の内心が後ずさる。
「…それを教えれば、お前の情報も教えてくれるのか?」
「それは聞いてから判断するわ。嫌ならこの件は無しよ」
 なんてひどい取引だ…。こいつの将来は高利貸しだな。
「いいじゃない、相沢君から事情を聞いてあたしが名雪を助けられるなら、それはそれで問題解決なんだから。それともあなたは、”自分が”名雪を助けたいわけ? 名雪じゃなくて、自分の面目が大切なわけ?」
「わかったよっ! 言えばいいんだろ言えば…」

 自分の過去の恥を他人に話すのは勇気が要った。
 俺がやったことと、その後七年間の仕打ちを…なるべく主観を交えず話してから、おそるおそる香里の目を見る。
「お…怒らないのか?」
「昔の話だしね。それに理由いかんにもよるわ」
「り、理由?」
「いくら相沢君でも、名雪が一生懸命作った雪うさぎを、何の理由もなしに叩き落としたりはしないでしょ。どうしてそんなことをしたのよ。怒らないから言ってごらんなさい」
 ――――!

 ここでか。
 ここで突き付けられるのか。しかも名雪ではない、第三者によって。
 声を出せないまま、香里の怪訝そうな視線を浴びる。黙っているわけにもいかない。正直に言うしかなかった。
「わ…」
「わ?」
「…忘れた…」

 その瞬間、香里の中に鬼が見えた気がした。

「ま、待てっ! 落ち着け、話せばわかる!」
「わかるかぁぁーー! このボケがぁぁぁーー!!」
「ギャーーース!!」
 血の海に沈められた俺に、追い打ちのように香里の声が降ってくる。
「これではっきりしたわ、あなたがいかにいい加減で無責任な男かってことがね! 二度と名雪に近づかないで!」
「ま、待ってくれ…」
 よろよろと伸ばした手で、帰ろうとする香里の足首を掴む。
「しつこいわねっ!」
「…記憶がないんだ」
「!?」
「七年前の記憶の大半が、俺からすっぽりと抜け落ちてる。
 頭でも打ったのかもしれないし、お前の言うとおり、俺がいい加減なだけなのかもしれない。
 でもだからこそ、そのせいで名雪が苦しんでるとしたら耐えられない。頼む、何か知っていることがあるなら教えてくれ。頼むっ…」

 …返事はない。
 身を起こした俺の前で、香里は苛立たしげに親指を噛んで歩き回っていた。
「…あたしだって、はっきりした事を聞いたわけじゃないのよ」
「それでもいい!」
 名雪がどうしてあんなことをしたのか。何を考えているのか。
 近くにいるはずなのに、わからないし見当もつかない。その点で俺と香里は共通している。
 香里は上履きで階段を蹴って八つ当たりしてから、悔しそうに俺を見た。
「本当、腹立たしいわ。相沢君の話を聞いても、あたしには名雪が何を考えているのかわからなかった。一番名雪の近くにいるつもりだったのに、結局あなたなんかに頼らなくちゃいけないんだわ」
 憮然としたまま、階段に腰を下ろす。
「いい。あたしは地獄に落ちる覚悟で、親友を裏切るのよ。この上、あなたでも名雪の笑顔を取り戻せないなんてことになったら――」
「…わかった、その時は煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
「もうこの街にいられないようにしてやるわ。座りなさい。あたしの決心が鈍る前に」


*     *     *



「まず、誰かをかばってあんなことをしているのは確かみたいね」
 右手の平に顎を載せながら、香里は言う。
「そう聞いたとき、否定しなかったから」
「と、ということは…。本心では今でも名雪は俺を好きだって考えていいんだなっ?」
「不本意だけど」
 心底不本意そうな香里と裏腹に、俺は深く深く安堵の息をついた。
「って、ちょっと待て。なのにお前、俺と名雪を別れさせようとしたのか…」
「そうだけど何か? 理由はどうあれ、名雪をアホとか言う男とは別れた方がいいと思っただけだけど?」
「…いえ、いいです。続きをどうぞ」
 はあ、と香里は溜息一つついて、話を続ける。
「かばっている理由だけど、そうしないとその相手の存在に関わるんだって」
「…存在?」
 それはまた大仰な言葉だ。
 命や立場ということなのだろうか。素直にその単語を使わないのが妙だけど。
「ま、まさかどこかの男に『他の男と付き合ったら自殺してやる』とか脅されてるんじゃあ…。だとしたら許せん!」
「落ち着きなさいよ。聞いてみたけど、相手はとてもいい子で、悪意は全くなく、そもそも気付いてすらいないらしいわよ」
 何じゃそりゃ…。ますますもってわけがわからん。
 首をひねる俺にちょっと後悔気味の香里だが、今さら後には引けないのかそのまま話を続ける。
「あとは、奇跡がどうとか言ってたわね」
「あ、俺もそれを聞いた。奇跡が終わるとか何とか」
「理不尽な運命で辛い目に遭った子に、神様がプレゼントした小さな奇跡だって」
「……」
 聞いてるうちに、別の意味で心配になってきた。
「あいつ、変な電波でも受信したんじゃないのか…」
「だとしたらまだ理解はできるんだけど…。受け答え自体はまともなのよね」
「じゃあ何なんだ、奇跡って」
「『常識では理解できないような出来事』。大辞林より」
 同じ疑問を持って調べていたのだろうか。香里はすらすらと言って、軽く肩をすくめた。
「常識人のあたしには想像もつかないわ」
「非常識な俺にもさっぱりだ」
 ――奇跡。
 それは喜ばしい事象を指すはずなのに、なぜだか今は不吉なものとして聞こえた。

 香里が誘導尋問を駆使して聞き出したという情報は、しかしどれも断片的で、なかなか全貌が見えてこなかった。
 俺が頭の中で整理していると、一息ついた香里が聞いてくる。
「でも、腹は立たないの」
「何が?」
「どんな事情があれ、名雪はあなたを振ったのよ。つまり名雪の想いはその程度だったってことよ。よりを戻しても無駄なんじゃない?」
 いかにも試してますという風だったので、俺は口を尖らせて反論する。
「そんなの事情の方が重すぎるのかもしれないだろ。俺だって名雪が好きだけど、『名雪と別れないと罪もない人が死にます』なんて状況になったらさすがに悩みはするぞ」
 自分で言っててどういう状況なんだか不明だが…。
「ま、気にしないならいいんだけど」
「何だよ」
「聞きたい?」
「聞きたい」
 香里は目線を逸らして、投げやり気味に言った。
「あたしは言ったのよ。あなたはそれでいいのって。どんな事情があるのか知らないけど、七年も好きだった相手をそんな簡単に手放すのかって」
 俺の膝の上で、無意識に拳が握られる。
「そうしたら、それでいいんだって。本当なら七年前に終わっていたのを、祐一の好意でたまたま救い上げられただけだから。元々何の努力をしたわけでもないし、そんな資格なんかなかったんだからって。自分に言い聞かせるみたいに」
 そこまで言って、香里は深く息を吐く。
「あの子、昔から戦おうとしないのよ」
 それを変えられなかったのが悔しい、とでもいうように。
「相沢君が告白するまで、名雪の方からアタックしてきたことなんてあった?」
「…ないな」
「でしょう。自分から何かを求めようとしない。
 あの子の願望なんて、昼寝とか苺とかつまらないことだけ。それ以上は望まない。手を伸ばそうとしないの。
 足るを知ると言えば聞こえはいいけど、なんだか人生を諦めた年寄りみたい」
 そこで言葉を区切って、じろりと俺へ目を向ける。
「ま、誰が原因かは何となく分かったけど」
「…面目ない」
『…これ…受け取ってもらえるかな…?』
『わたし…ずっと言えなかったけど…。祐一のこと…』
 そして振り払われた手と、潰れた雪うさぎ。
 その経験が名雪の心に影を焼き付けたなら、それはやはり俺のせいなのだろう。
「別に責めてるわけじゃないわよ。それはあくまで名雪の問題だしね」
 香里は立ち上がり、スカートの埃を払う。話は終わりのようだった
「ほら、大した情報なんてなかったじゃない」
「いや、十分だ」
 名雪が俺を好きでなくなったわけでは(たぶん)ないこと。
 誰かの存在を、奇跡を守ろうとしていること。糸口としては十分だった。
「ありがとう。あのさ…俺が言うのも何だけど、名雪は香里を許すと思うよ」
「そうかもね。でも、二度と相談事はしてくれないと思うわ」
 少し寂しそうに微笑む香里に、俺は頭を下げるしかなかった。








<続く>


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