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 誰かをかばっている。
 その相手は明らかだけど、理由がわからない。
「存在って言っても、こいつはピンピンしてるしなぁ…」
「うぐぅ?」
 目の前で呑気にたい焼きをかじっているあゆに、俺は少しだけ途方に暮れる。
 土曜なので今はまだ昼だが、陽はすっかり雲に覆われて見えない。
「お前、実は病気だったりしないか?」
「え、ボクは元気だよ? 病気なんかしたらたい焼きが食べられなくて困るよ」
「すまん、聞いた俺が馬鹿だった」
「うぐぅ、なんだかバカにされてる気がする…」
 だいたい、俺とあゆの間には何にも…
「……」
「祐一君?」
「…いや、何でもない」
 七年前。
 何かあったとしても覚えていない。その話から、今回の事件は始まったのではなかったか。
 敢えて今思い出そうとしてみるが、やはりそれは霧の中だ。世界史の試験中に、どうしても人名を思い出せないのと同じくらい、
「――あゆ、七年前のことって覚えてるか?」
「え…。ううん、あんまり覚えてないよ」
「そうか…」
 たい焼きを平らげてから、不安な表情になるあゆ。
「なんだかボクって、いろいろ忘れてばかりだね」
「気にするな。俺だって似たようなもんだ」
 そう言って、あゆの忘れ物と名雪の繋がりについて思い出す。
「名雪は、まだ探し物に反対なのか」
「うん、そうみたい」
「でも探すわけだ」
「大事なものだからね。思い出せるように頑張るくらいはしなきゃ」
「気がするだけだろ。大事って」
「でも本当に大事なものだったら、忘れてるのってすごく良くないんじゃないかな。そのせいで誰かを傷つけてることだって、あるかもしれない」
「…そう、だな」
 あゆは手を振って、再び当てもない探し物に戻っていった。
 俺も家へ向けて歩き出す。その歩みが段々と早くなる。

 七年前。残る情報源はそれだ。
『別に思い出せないならそれでいい』
 この街に来たとき、俺はそう思っていた。
 けど今は、その必要性がわかる。というより怖くなってきた。
 忘れているせいで、何か馬鹿なことをしでかしているかもしれない。
 名雪への仕打ちだって、思い出せたのはたまたま夢に見たから。それがなければ、今でも忘れたままではなかったか。謝りもしないまま、ぬけぬけと名雪に告白していたかもしれない。
 もしそんなことになっていたら、穴があったら入りたいどころの話ではない。無知は罪とはよく言ったものだ。
 どんどん大きくなる不安に半ば駆け足になる。思い出さないと。
 早く思い出さないと。

 思い出すために、俺が努力すべきことといったら一つしかない。
 ただ秋子さんのところへ行って、『七年前って何がありましたっけ?』と聞けばいい。本来は自力で思い出すべきなのだろうけど、もはや四の五の言っていられない。
 それでも一応部屋に戻って一時間ほどうんうん唸ってみたが、結局徒労に終わり、秋子さんに頼みに居間へ向かった。
「…本当に、話していいんですか?」
 深刻そうな秋子さん。それはやはり、思い出したくなくなるような何かがあったということだ。
「お願いします。もっと早くこうすべきだったんです。覚悟はできましたから」
「…わかりました。気を落ち着けて聞いてくださいね」


 急速に、金槌で殴られたように、俺の記憶は戻った。
 赤い記憶。雪の上に広がる血と、動かなくなっていく女の子――
 すべて思い出した。
「ゆ、祐一さん。大丈夫ですか?」
「大丈夫…です」
 頭を振って答える。それは確かに精神を直撃する記憶だったけど…
 案外耐えられたのは、所詮は過去の話でしかないからだろう。
「大丈夫です、昔のことだし。あゆは全快して、今は元気じゃないですか。はは。でもあいつが忘れっぽいのって、あの時頭を打ったせいなのかなぁ」
「……」
「…秋子さん?」
 ざわ、と胸騒ぎがする。
 所詮は…過去の話でしかないはずだ。
「祐一さん。今まで話さなかったのは、あなたに余計な負荷をかけたくなかったからです。
 でもね、条件さえ整えば話すつもりでいたの。あの樹から落ちた子が目を覚まして元気になれば、祐一さんがこの街を嫌う理由もなくなるから……退院したら教えてくれるように、病院にお願いしてありました」
 胸騒ぎが鼓動に変わる。どうしてこんなに不安なんだ。
「…けれど、病院からは今もって連絡はありません」
 静かに告げる秋子さんを、俺は直視できずに小さくうめいた。
「どういう…ことですか」
「わかりません。たまたま忘れてしまっただけかもしれません。ただ、名雪が笑わなくなったのは、病院に行ってからだから…」
 そう言って、秋子さんは頬に手を当て、悲しそうな目をする。
「ごめんなさいね、名雪はわたしにも何も話してくれないの。あんな風に一人で抱え込んでしまうのは、あの子なりの優しさなのかもしれないけど、でもそうなって欲しくはなかった。
 わたしが、母親として何かいけなかったんでしょうか…」
 しょんぼりとする秋子さん。それは逆で、この人が完璧すぎるのがひとつの原因なんじゃないだろうか。
 しかし言っても仕方ないことなので、代わりにとんと胸を叩く。
「大丈夫です、俺に任せてください。何となく全体が見えてきました。数日中に名雪を元気にしてみせます」
「お願いします、祐一さん。名雪をお願いしますね」
 ここでも勇気をもらう。名雪をずっと好きでいること。それがこんなに力になるなんて、今気付いた。

 慣れたのか、落ち着いた心でノックできた。
「名雪」
 返事はない。が、そのまま続ける。
「全部思い出したよ」
 かたん、と部屋の中で音がする。
「とりあえず、あの時借りた千円を返す。悪かったな」
「…いいよ、もう」
「そういうわけにはいかないだろ」
 利子をつけて千円札二枚を、扉の下から押し入れる。
「なあ、確かに昔はあゆのことが好きだったけどさ。そりゃ小学生の頃の話じゃないか。そんなのに遠慮してるんなら…」
「そ、そういうことじゃないよっ…」
「……」
 そう。そんなことじゃない。いくら名雪でもそこまで逃げ腰じゃないし、『奇跡が終わる』という言葉の説明もつかない。
「いい加減、全部話してくれないか?」
「…話すことなんて、ないよ」
「そうか…」
 もはやこれまで。誰にも話さないのは、"話すことそれ自体が何かを壊す"という、そういうことなのだと思う。
「病院へ行ってくる」
 椅子を蹴飛ばすような派手な音がした。
 扉が開き、泣きそうな名雪が現れる。
 俺まで泣きたくなる。いつも笑っていて、平和そのものだった名雪が、今や見る影もない。
「ま、待ってよ祐一っ…!」
「やっぱり、あそこに何かあるんだな? 行ってくる。行ってこんなことには決着をつける」
「や、やめてよ、お願い、後生だから…」
 俺の袖を掴んで必死に言う姿に、さすがにこちらの決意も揺らぐ。
 もしかして俺は、とんでもない間違いをしているんじゃないか。
 似合わないことをしてまで、名雪が守ろうとしている何かを…その努力をわざわざ踏みにじろうとしているんじゃないのか。
 けど…。
「俺にはわからない。こうすることで事態が解決するのかもしれないし、さらに悪くなるのかもしれない。
 けど、それを十分に判断できる情報が手元にない。今ある情報でどっちかを選ぶしかないんだ。
 はっきりしているのは、今現在お前が苦しんでるってこと。そうである以上は何かする方を選ぶよ」
「わ、わたしは苦しんでなんかないよっ…」
「無理するな。演技が下手なんだから」
 苦笑する。身を翻して歩き出そうとする俺の前に、名雪が回り込む。
「どうして? 祐一、もうわたしのことなんか放っておいてよ…」
「好きな女の子を放っておけるわけないだろ」
「わ、わたしは…」
 まただ。
 嬉しいけど、辛い顔。俯いて、小さく。
「祐一のことなんか、好きじゃ、ないよ」
 振り絞るようなその声は、ただ悲しかった。
 終わらせないと。
 どんな形でもいいから、こんなことは終わらせないと。

「俺は、名雪が好きだよ」

 そう告げて、ジャンバーを取りに自分の部屋へ戻る。
 背後でかすかな呟きが聞こえた。


 再度部屋を出たとき、待ち構えていた名雪は、もう崩れる寸前だった。
「デートしよう」
「な!?」
「噴水公園に、三時。絶対行くから、先に行ってて」
 ……!
『デートに誘っておいてすっぽかすのが一番効果的かしら』
 嘆息する。あの時の香里も、まさか実行に移されるとは思わなかったろう。
 こんなことしたって、多少先延ばしになるだけだろうに。
「…わかった。待ってるよ」
「ゆ、祐一」
 今さら我に返ったのか、気まずいような名雪の顔。
「その…わたしがしようとしていること、わかってるよね?」
 悪人になりきれない奴だなぁ…。
「じゃあ中止しろ」
「し…しないよ」
「なら、俺は待つしかないよ。好きな女の子と待ち合わせしたなら、喜んで駆けつけるのが当たり前ってもんだ」
 俯いてる名雪とすれ違う。
 どうしてこんなことになったんだか…。
 頭を振る。名雪を愛してる。それだけを道標に進むしかないのだ。

 完全防寒して外に出る。
 今は二時四十分。急げば病院にも行けそうだけど、調べものをする時間はないだろう。真っ直ぐ公園に向かうしかなさそうだ。
「あ、祐一君」
「よう」
 こんな時にも、あゆは平和そうだった。
「ねえ、ボクは思ったんだけど。名雪さんは、ボクの探し物を知ってるんじゃないかな」
「まあ、わざわざ探すなって言うくらいだから、その可能性はあるな」
「うん。何か心当たりはない?」
「そうだなぁ…。病院で何か見つけたらしいけど」
「病院…」
 その顔から元気が消える。
「…ボク、病院は嫌いだよ」
「俺だって別に好きじゃないぞ」
「うん…。でも、行かなきゃいけないのかもしれない。行ってみるよ。ありがとう、祐一君」
 おぼつかない足取りで去っていく。心配だけど、今の俺は待ち合わせの身だ。
 行きがけのコンビニでカイロと熱いお茶を買い、万全の対策で公園に着く。
「さあ、待たせるならいくらでも待たせやがれってんだ」
 ……。
 俺はもしかして馬鹿なんだろうか…。
 嘲笑うように雪が降ってきて、俺は黙って折り畳み傘を広げた。

 約束の三時はあっさりと過ぎた。
 雪は勢いを増し、傘に積もるそれを何度か落とす。
 結局こんなことをしているのは、どこかで名雪が来ることを期待しているのかもしれない。

 四時、五時、六時…。
 暗くなり、雪に霞む街灯が時計を照らす。針はのろのろと動き続ける。
 七時を、八時を、九時を過ぎた。防寒具とカイロの力をもってしても、体の芯から冷え切っていく。
 こんなことをしても無意味なんじゃないだろうか。名雪への嫌がらせにしかならないんじゃ。
 でも、病院へはいつでも行ける。名雪が好きなら、俺にできるのは待つこと。これくらいしかできないから。
(あ、まずい)
 眠い…。気分が冬山なせいだろうか。
 寝たら死ぬぞ!とお約束の声が聞こえる。起きてないとな。そうでなくても待ち合わせなんだし。
 しかし状況はまずかった。これはあれだ。朝起きて着替えて学校に向かってるつもりが、全部ベッドの中で夢を見ているだけという、あの時と同じだ。
 その証拠に、公園の景色がいつの間にか消えていってるじゃないか。








<続く>


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