土曜の早朝。研究所の玄関から、表情のない少女が現れる。
それに続いて、落ちくぼんだ目の研究員たちがぞろぞろ出てくる。知らない人が見ればぎょっとする光景だ。
少女に見えたそれは実はロボット。
ようやく開発が終わり、今日から学校でテストが始まるところ。そう説明されれば部外者でも納得したかもしれない。
開発の常で機嫌ぎりぎりまで作業する羽目になった開発者一同は、それでも何とか間に合ったことに胸をなで下ろしながら、最後の見送りに立っていた。
「どうだい品川君、首尾の方は」
「まあ…、一応大丈夫とは思いますよ」
AI部分担当の品川技師は、上司の質問に答えながら、今までの苦労の結晶をもう一度じっと見た。
あらゆる命令に対し、最適な行動を自分で判断して実行する、まったく新しいメイドロボ。
標準的な女子高校生の体型に、整った目鼻、流れる長髪。耳カバーがなければ人間と区別がつかない。
しかしその瞳を見れば、すぐに違うと判明する。周囲を写す眼球に、感情の色は少しもない。
ただの機械。心を持たないロボット。
HMX−13、通称セリオは、そういうものとして作られたのだ。
No Heart
家電業界の雄、来栖川エレクトロニクス。
成長著しいホームメイド市場の次世代を制覇すべく、この会社が本格開発に乗り出したのはほぼ2年前のことだった。
その頃には人工知能の研究も進んでおり、事務や家事一般が可能なロボットの出現は時間の問題と言われていた。
来栖川でも方針は定まっていて、あとはいかに性能を上げてコストを下げるかだけが問題のはずだった。
それがHM開発課、長瀬主任の一言で一変する。
「どうです、メイドロボに人間と同じ心を持たせるってのは?」
そう言って彼が見せた資料には、豊かな感情を持つシステムの設計図が詳細に書き込まれていた。
それから社内は百家争鳴。関係ない部局まで巻き込んで、顔を合わせれば議論議論の大騒ぎ。
「本当に可能ならまさに革命だ。他社製品など及びもつかない!」
「いやしかし、問題はないのか? ロボットに心なんか持たせて大丈夫なのか?」
こんな調子で話はどうどう巡りを続け、その間に他社も開発を始めたとの情報が届く。緊張が高まる中、ついに社長が大決断を下した。
「心を持つロボットと、心を持たないロボット。2体を作り、比較してどちらかを主力とする!」
こうして長瀬主任のA班は『心を持ったロボット』を、HM開発課のもう1つのライン、牧浦主任の率いるB班は、『心を持たないロボット』HMX−13を作り始めたのである。
もう2年になるのか…。品川技師は感慨深くそう思う。
いくら並行開発とはいえ、社内の視線が主に『心を持ったロボット』に向けられる中、B班には貧乏クジを引かされたような雰囲気が漂っていた。
しかしながら作り始めてみると、その難しさにそれどころではなくなった。
特に人工知能。命令を判断して実行するシステムは学者が研究しており、今回もアメリカの某大学が作ったものを買い取ったが、実際に動かすとなると机上の計算通りにはいかない。
AI担当者の品川志郎…入社6年目、27歳の彼にとっては初めての大仕事であり、最大の難行だった。一応専攻が人工知能だったのでこの役に回されたのだが、なにしろ想定される状況パターンが多すぎるのだ。
『セリオ、お茶』と言ったらお茶っ葉を持ってきたこともある。
『俺を殴れ』と言ったら本当に殴られたこともある。
トラブル続きに、参考にしようとA班の様子を聞いてみても
『いやあ、うちはマルチのやりたいようにやらせてますから』
と言われ、何の参考にもなってくれない。
それでも問題点をひとつひとつ潰し、ロボット三原則を守り、法律や道徳を守り、それでいて命令はできる限り忠実に実行するシステムがなんとか完成したのは半年前のことだった。
その後さらに紆余曲折を経て今日の試験開始。それなりに自負もあるし、愛着もある。だがそれ以上に不安もある。おまけに同じ課内で、自分の苦労を無に帰すかもしれないメイドロボが同時開発されているのだ…。
「それにしても、A班の連中は遅いですね」
あくびをかみ殺して呟く品川。その声にもついつい棘を含んでしまう。
「あいつらはいつもそうなんだ」
苦い顔の牧浦主任。決して無能ではないし、真面目なのだが、A班の長瀬主任と比べるといまいち地味な存在である。
と、言ってるそばからのほほんとした顔で、長瀬とA班の面々が姿を現した。
「いやあ、すいませんねぇ」
「す、すみません〜。わたしが制服着るの遅くて、みなさんにご迷惑を〜」
その後から現れて、ぺこぺこと頭を下げるHMX−12、マルチ。
セリオの開発者たちも改めて驚かされる。文字通り人間そのもの…裏の仕組みを知らなければ、本気で人間と勘違いしたかもしれない。それほどの感情表現だ。
「あっ、セリオさん。おはようございます〜」
「――おはようございます、マルチさん」
セリオの挨拶ルーチンが作動し、マルチに返事を返す。マルチとは対照的な機械の反応だが、たかがそれだけでも品川は安堵の息をついてしまう。マルチを信頼しきって呑気に笑っているA班の連中が羨ましい。
「セリオ、とにかく安全第一にな」
「――了解しました」
「品川君、もう少しセリオを信用したまえよ」
「そうだとも。大丈夫大丈夫、何とかなりますって」
2人の主任がそう声をかけるが、牧浦の方は自分に言い聞かせている気がしないでもない。
「それでは、行ってまいりますっ」
「ああ、行っておいで。マルチ」
「――‥‥‥」
「…行きなさい、セリオ」
「――了解しました」
反応の違いを見せて、最初からB班の面々を不安にしながら、セリオはスムーズな足取りで歩道を歩いていった。
教室は朝からメイドロボの話題で持ちきりだった。
なにしろ来栖川の最新モデル、しかも世界初の画期的なシステムという噂だ。新しいもの好きの女子高生には格好の話題である。
「ねえ綾香、あんた見たことあるんでしょ?」
「どんなだった?」
「んふふ〜、それがね〜」
その中心にいるのが来栖川綾香。今回に限らず、明朗快活容姿端麗のこの格闘女王は、常に校内の中心だった。
「かなりスゴかったわよ。本当、頼めば何でもやってくれるって感じでね。私の場合『組み手しよう』って言ってみたんだけど」
「まーた、綾香らしいっつーか」
「それが色んな格闘家のデータ持ってて、全部忠実に再現してくれちゃったのよ。技術の進歩って大したもんよねー」
クラスメートに話しながら、その時のことを思い出す。
来栖川家の令嬢である彼女が、姉と一緒に見学に行ったのは2週間ばかり前だった。
その時会った2体のうち心のない方、セリオが寺女に来ると聞いたときは、正直少しばかり落胆した。見ているだけで楽しくなるようなマルチと比べ、セリオはいかにも機械的だ。確かに性能は凄かったが、あれではいまいち面白くない。
でも、と綾香は思い直す。マルチは最初から心を持っている。それはつまり、開発者が初期設定として入力したものだ。
それじゃあつまらない。心なんてものは、周りの人との関わりでみずから身につけるものじゃないのか。
セリオがあんななのも、生まれたばかりの初期状態だからだ。
なら綾香が笑い方を教えれば、笑えるようになるかもしれない。心を持ってくれるかもしれない。
そう考えると、がぜん彼女の来訪が楽しみになった。
そして今日がその当日。チャイムが鳴る。いよいよだ。
「はいはい皆さん、席につきなさいよ」
扉が開き、担任の白髪混じりの頭が現れる。定年間際のこの婦人は機械が大の苦手で、『なんだって私がこんな目に…』とはっきり顔に書いてあった。
それに続いて、姿を現す一体のメイドロボ。寺女の真新しい制服に身を包み、長髪がふわりと揺れる。人間と変わらぬ見た目、だがやはり、どこか機械っぽい。
教壇の横に少し下がってこちらを向く。軽く手を振ってみる綾香。振り返してはくれなかったが、気づいてはくれたようだ。
「えー、皆さん聞いているとは思いますが、今日からうちで試験することになったセリオさんです。えー……ご挨拶なさい」
「――了解しました」
担任の言葉に応じて、すっ…と一歩前に出る。
「――この度は当社の動作テストにご協力いただき、誠にありがとうございます。
わたくしはHMX−13型、通称セリオと申します。
本日から来週の土曜日まで、ご試用のほどよろしくお願いします」
用意された文章を淀みなく言って、深く頭を下げるセリオ。
思わずみんなで手を叩く。別に歓迎の拍手ではないが、人間と変わらない自然な動きに素直に感心したのだ。
それに対しては意に介していないように、続けて口を開くセリオ。
「――使用上の注意事項などをご説明したいのですが、お時間の方はよろしいでしょうか?」
「ち、注意事項っ?」
「いいってセリオ。そんなもの使ってる間においおい分かるわよ」
席上から綾香の声が飛び、担任がはっと気を取り直す。
「い、いやそうはいきませんよ。きちんと説明しなさい」
「――了解しました」
生徒より教師の優先順位を高くしてあるため、そちらの命令を受諾する。
「――私の用途は日常雑務全般となっております。
どのようなご命令でもお受けしますので、お気軽にお申し付けください。
ただし私では不可能な仕事、時間がかかり過ぎて他のお客様の使用に支障がでる仕事などはお受けできないことがありますので、ご了承ください。
試験段階ですのでお望みの結果を出せないこともあるかと存じますが、その際はお叱りいただければ学習効果により次回以降の行動に反映されます。
また、試験ですので皆様との会話、作業内容はこちらで記録し、開発の参考にさせていただきます。プライバシー上問題がある場合はおっしゃっていただければ消去しますので、お申し付けください。
皆様からのご評価に対してはアンケート用紙を用意しております。いつでもおっしゃっていただければお渡ししますので、ご協力の程よろしくお願いします。
――以上です。何か質問等はございますでしょうか」
内部のテキストデータを一気に読み上げ、手早く周囲を見渡す。一瞬言葉に詰まる生徒と教師。
「え、ええと…。と、特にありませんよ」
「――それでは、配備する場所をご指定ください」
「は、配備?」
「こらこらセリオーっ」
苦笑した綾香が、空けておいた隣の椅子をばんばんと叩いた。
「そんな備品みたいなこと言うんじゃないの。ちゃんと席とってあるんだから、ここに座りなさいよ」
「――了解しました。他の皆様も、それでよろしいでしょうか?」
2秒待って特に意見がなかったので、そのまま移動すると音を立てずに席に着いた。
「(すっごいねー)」
「(マジで最先端って感じだねー)」
緊張から解かれたように話し始めるクラスメート。
なんとなく綾香も鼻が高い。
「よろしくね、セリオ」
「――よろしくお願いいたします、来栖川様」
「あらら、この前綾香って呼んでって言ったじゃない」
「――申し訳ございません。その時のデータはリセットされてしまいました」
「んじゃ、次からは綾香ね」
「――了解しました、綾香様」
「こら、そこ! 授業を始めますよっ」
「あちゃ」
少し舌を出して、教科書を広げる。隣の彼女はぴたりと前を向いて動かなくなってしまったが…これからのことを考えながら、綾香は耳半分で授業を受けた。
クラスメートにとっても、今回ほど休み時間が待ち遠しいことはなかった。
チャイムが鳴るやいなや、教室中の人間がセリオの席に集まってくる。それどころか他のクラスや学年からも人がやってきて、廊下に溢れる始末だった。
「ね、ねえ綾香。何か命令してみてよ」
さすがに初めてとなると気後れし、綾香に頼る生徒たち。
「んーと、そうねえ。それじゃセリオ、鉛筆削ってみて」
「――了解しました」
セリオは鞄からカッターを取り出すと、綾香から渡された鉛筆を削り始めた…目にも留まらぬ速さで。
シャカシャカシャカシャカ!
超高速の手の動きに綾香ですら唖然とする間に、鋭く尖った鉛筆を差し出す。
「――これでよろしいでしょうか」
「あ…うん。ね、すごいでしょこのコ」
綾香の言葉にどっと上がる歓声。別に鉛筆削りが超高速でも大した意味はないのだが、とにかく性能は伝わった。他の生徒たちも我も我もと手を挙げる。
「そ、それじゃこの数学の問題解ける? あたし今日当たるのっ!」
「――了解しました。解法をこちらのノートに書けばよろしいでしょうか」
「うん、それでお願い!」
カリカリカリカリカリ!
これまた問題をちらりと見ただけで、速記のようなスピードで書き込むセリオ。
「――これでよろしいでしょうか」
「え、えっと、どう? 綾香」
成績もトップクラスの綾香に視線が集まり…
「…うん、バッチリ合ってるわ」
「すっごーい!」
「秒単位だったよね、今の!」
こんな調子でその後も命令が矢継ぎ早に出され、内容把握のため何度か尋ね返すことはあったものの、基本的に全ての仕事をセリオはそつなくこなした。
「――了解しました」
「――了解しました」
その言葉が発せられると同時に、既に行動は始まっている。一緒にくっついて回っていた綾香も、機能面では文句のつけようがなかった。
けどやはり、その言動は機械的だ。とことん的確なだけに、かえって冷たい感じを受ける。少しは迷ったり困ったりすれば可愛げもあるのに。
土曜なので、半日の授業はあっという間に終わり。廊下でポスターの貼り替えをさせられていた彼女に声をかける。
「セリオ、一緒に帰らない?」
「――申し訳ございません。現在別の作業中です。ご依頼内容をキューに登録いたしますか?」
「なら待ってるわ。それと『キュー』って単語、一般人には分かりにくいわよ」
「――ご指摘ありがとうございます。開発者にその旨伝えておきます」
それだけ言って、すぐに作業を再開する。無表情で画鋲を引き抜くセリオ。どことなくシュールだ。
「終わった? んじゃ帰るわよ」
「――了解しました」
ようやく自由時間がやってきた。この時を待っていたのだ。
通学路を並んで歩きながら、さっそく会話を開始する。
「ねえ、セリオ」
「――何でしょうか」
こちらを向く機械の瞳。左右の耳カバー。揺れる髪を除けば、完全な左右対称。
「どう? 学校の感想は」
「――動作環境としては良好です。特に問題はありません」
「…ふーん」
仕方ない。生まれたばかりなのだから。
いきなり『とっても楽しかったですっ』なんて言ってくれるわけがないのだ。
「そういえばさぁ」
だから、綾香が色々教えてあげなくちゃいけない。
綾香が周りから、特に姉から受け取った、人の心の温もりを。
「うちの姉さんってオカルト好きでね。魔術の本とか集めて、けっこう本格的にやってるのよ」
「――そうですか」
「この前もヤモリが必要とか言い出してさあ。一緒に庭を探し回ったのよ」
「――なるほど」
しばらくの間一方的な雑談が続き、セリオは時折相づちを挟みながら、いたって真面目に聞いていた。
そうこうしている間に分かれ道が近づいてくる。変化があったようには見えなかったが、今日はこんなものだろう。そろそろ直球を投げよう。
「それにしても、偉いわねー。仕事熱心だし、私が経験した中では一、二を争う真面目ぶりね」
「――ありがとうございます」
「でもね、仕事ばかりじゃつまらないじゃない」
「‥‥‥」
「だから、ね。セリオ」
足を止め、セリオの顔を覗き込む。手を後ろで組んで、タイミングを計って…
「私と…友達にならない?」
「――了解しました」
何もない道に、つまずいて転びそうになった。
「え、えーと…。本当にいいの?」
「――はい。特に禁止事項には該当しません」
それって単に開発者が想定してないだけじゃないのか?
一瞬そう思うが、OKと言ってくれているのだから文句を言うことはない。気を取り直して右手を差し出す。
「じゃ、握手握手」
「――了解しました」
出された手を握ってぶんぶんと振る。冷たい。感触は皮膚そのものだが、人間並の体温は必要ないのだろうか。
けどまあ、手が冷たい人は心は温かいとも言うし。
「んじゃ、さっそくで悪いんだけど、友達としてひとつお願い」
「――はい、何でしょう」
「『心』について考えてほしいの」
「――考えるだけで良いのでしょうか。何か答えが必要でしたら…」
「ううん、とりあえず考えてくれればいいわ。あ、辞書に載ってる意味とかじゃなくてよ。セリオがどう思うのかってこと」
「――了解しました」
一瞬…セリオがほんの少しだけ、小首を傾げたような気がした。よく見ると元のままの首で、単なる気のせいだったかもしれないが。
「じゃ、ね。セリオ、また明日」
「――さようなら、綾香様」
バス停まで送って、手を振って別れる。愛想はないけど、仕事熱心だし、いい子だと思う。
きっと仲良くなれるだろう。なにしろ一週間もあるのだ。
品川技師にとっては落ち着かない半日だった。
それがただの杞憂だったと分かり、安心すると同時に恥ずかしくなる。戻ってきたセリオが出力した実行結果を読む限り、彼女は十二分に期待に応えてくれた。
「いやあ、上出来だったよ。それじゃ皆さん、もう一仕事頼むよ」
牧浦主任の言葉に、技術者たちも明るい気分で今日の解析に取りかかる。最新機器が揃ったラボにて各所の点検、稼働状況の検討、衛星との通信状態についての分析…。ハード面が終わると品川の所に回ってきて、今日一日の思考記録をチェックする。
といっても実際は複雑・膨大な組み合わせであり、とても全部は見きれない。大まかなところを拾ってチェックするだけだ。
「案ずるより生むがやすしだよなぁ」
サテライトサービス担当の稲崎が、品川の後ろからモニターを覗き込む。
衛星を介して、来栖川の巨大データベースから情報を取ってくるのがサテライトサービス。万能ロボットとしては不可欠な機能だ。
「つっても、俺の方はあんまり嬉しい結果じゃなかったな」
「初日だからだろう」
画面を見たまま、そう分析する品川。せっかくの新機能だが、今日サテライトが使われたのは今週の星占いについて聞かれた一度きりだった。
「全体として、仕事内容も様子見っぽかったしな」
「だよなぁ。ま、初めて機械に触るときはそういうもんかな」
そう考えると、今日の成功も安心してばかりはいられない。慣れてくればより複雑な命令、あるいは曖昧な命令が出てくるかもしれないのだ。兜の緒を締めるべきだろう。
そんな品川の内心も知らず、軽い調子でセリオに話しかける稲崎。
「ようセリオ、調子はどうだい」
「――良好です」
「…あ、そう」
会話が続かず、手を口に寄せて品川に耳打ちする。
「なんつーか、相変わらず面白みのない奴だねぇ」
「そういうコンセプトなんだ、仕方ないだろう」
少しムッとしてそう答える。
今回が初めてではなく、開発中も何人かから同じ事を言われた。愛想がないとか、お世辞くらい言わせろとか…開発者のくせにコンセプトを理解してない奴が多すぎる。
セリオが心を持ってしまったら、マルチと比較する意味がないのだ。愛想が悪いことの不利は織り込み済み。その分マルチは機能面でハンデがついて、何でもドジるように設定してあるのだから。
「もういい、忙しいから向こうへ行け」
「ちぇっ、セリオの無愛想はお前譲りだな」
稲崎がぶつぶつ言いながら立ち去るのを見送り、あごに手を当てて少し考え込む。
ちょっと個人的に、気になる部分があった。
「セリオ、さっきの部分をもう一度表示」
『――了解しました』
回線経由で繋がれたセリオが、今日の会話データをテキストでモニターに写す。
仕事ぶりは問題なかった。気になるのは…
放課後の、とある女生徒との会話だ。
『私と…友達にならない?』
『――了解しました』
『え、えーと…。本当にいいの?』
『――はい。特に禁止事項には該当しません』
(んなもん想定しとらんわっ)
思わず画面に対してツッコミを入れる。
いきなりこんなことを言い出すユーザーがいるとは思わなかった。来栖川のご令嬢か。金持ちの考えることは分からん。いや、それはどうでもいいが。
『友達になれ』という命令――禁止事項に含めるべきだろうか?
考え込んでる間に主任の召集が飛ぶ。事務室に戻ってミーティングの開始。各担当者がそれぞれ結果報告を行い、品川も報告ついでに、さっきまでの懸案を挙げてみる。
「別にいいんじゃないか?」
とは主任の言。
「それでセリオが馴れ馴れしくなるとか、そういうことはないんだろう」
「それはないです。友達という単語は曖昧ですから、内部ではメイドロボとして一番無難な解釈…まあ、特に今までと変わらない関係ということになってました」
「ならいいよ。せっかく贔屓にしてくれるというのに、わざわざ断って相手の気分を害することもないだろう」
「そうそう」
相手が会長の孫娘なのも加わって、同僚たちも一様に頷く。品川もそれ以上言うことはなく、ミーティングは次の課題に移った。
しかしやはり引っかかる。自分たちは心を持たないロボットを作ったのだ。
(『心』について考えてほしいの)
そう言ったあの少女は、セリオに何を期待しているのだろうか?
セリオもマルチもこれといって欠陥は見つからず、日曜は開発者たちも久しぶりに休むことができた。
そして月曜、試験2日目。
今日は朝から仕事が殺到し、授業の邪魔にならないようにと、ノートの束を抱えて別の部屋へ移動するセリオ。
ぽつんと空いた机の隣で、綾香は寂しく授業を受ける。みんなも少しは遠慮すればいいのに…と言ってもセリオの頭脳では、授業なんて受けても退屈だろうか。
昼休みになり、弁当をかきこんでからセリオを探す。目立つ彼女のこと、すぐに渡り廊下で見つかった。1年生と何か話している。
「だからぁ、来栖川先輩の好きな料理を教えなさいよ」
「――申し訳ございません。データにありません」
「なによ、使えないわね」
「なーにをしているのかなぁ?」
「はうっ! くっ来栖川先輩っ!」
セリオにはやたらと高圧的だった女生徒は、綾香を見るや借りてきた猫のように小さくなった。
「わ、私はただお姉さまのことをよく知りたくて…」
「お姉さまはやめいっ!」
「し、失礼しまーすっ!」
あっという間に逃げ去る1年生。思わず苦笑し、セリオに向けて肩をすくめる。
「ああいうのも困っちゃうわよね〜。いくら女子校って言ってもね」
「――そうですか」
「いや、そうですかって言われてもさぁ…。他に反応ない?」
「――ご命令以外の雑談等に対しては、一定の間隔で『そうですか』または『なるほど』と返すようプログラムされています」
「あ、そう…」
落胆…いや、仕方のないことだ。気を取り直す…。
「それじゃ少し付き合いなさいよ。いい場所知ってるのよ」
「――了解しました」
セリオを引き連れ、昼休みの廊下を歩く。振り返る生徒たち。やはり目立つ組み合わせらしい。
何人かは仕事を頼もうとしたが、綾香が一緒と気づくと「なら後でいいわ」と気を利かせてくれた。
「綾香って新しいもの好きよねー」
「そりゃ好きだけど、別にだからってわけじゃないわよ」
ひらひらと手を振って、階段へ向かう。結局のところ、みんなセリオを便利な道具としか見ていない。
それを責めるわけにもいかないけれど…。
「ほら、ここ」
階段を上りきり、思い切り扉を開ける。
一面に広がる空の青。屋上から無限に続く春の大気が、扉を通じて流れ込んでくる。
両手を高くあげて、思い切り伸び。
「いい場所でしょ」
「――そうですね」
その返事が本心なのかどうか、深く考えないようにしてセリオの手を引く。
金網に手を掛け、南側に見える大きな川を指す。よく河原に遊びに行く場所。この時間にここから見ると、ちょうど陽光が反射して目に飛び込んでくる。輝く水面は綾香のお気に入りの風景だった。
「セリオは、こういうのを見て綺麗だと思う?」
意地悪な質問だろうか。もし思えないなら。
けれど彼女はいつものように、眉ひとつ動かさずに答える。
「――私にはそのような機能はありません」
「…うん」
その頬に手を伸ばす。
「でもね、私はそういうのを感じてほしいわ」
「――申し訳ありません。不可能です」
「絶対ってわけじゃないでしょ?」
「――はい。100%ではありません」
あら、と内心手を叩いた。
『絶対無理です』と言われそうな気がしていたのだが、思ったより柔軟ではないか。
「ならやってみる価値はあるじゃない。景色が綺麗とか、花が美しいとか…一緒にいて楽しいとか。そういうのが分かれば、きっと素敵な女の子になれるわよ」
「――了解しました」
「うんうん。それじゃ教室に戻りましょ」
セリオの内部を見ることができれば……エラー、知識不足、その他諸々の可能性が『絶対』ないとは言い切れないと、だから『100%ではない』と、そういう論理的帰結をもって答えただけと知ることができたろう。
だが綾香にそれは分からない。ロボットでも人間でも、他人の思考など結局はブラックボックスなのだから。
午後もセリオの仕事は続き、全部片づけた頃には6時を回っていた。
「すっかり遅くなっちゃったわねー。時間は平気?」
「――はい。午後7時までに戻れば大丈夫です」
校門を出て、暗くなっていく空の下を歩く。
先日と同じく綾香がとりとめない話を続け、セリオがひたすら聞き手に回る。街灯の照らす歩道で、今日も彼女はどうでもいい話を真面目に聞いている。
と、前方で誰かがよたよたと歩いているのが目に入る。
少し頭の薄い中年の男。サラリーマンのようだが、歩道いっぱいの千鳥足で非常に邪魔くさい。綾香は少しむっとすると、セリオの手を引いてさっさと横を追い越した。酒の匂いがする。
「こんな時間から酔っ払ってんじゃないわよって感じよねぇ」
向こうに聞こえないよう小声で言って、足早に歩き去ろうとした。
ところが、セリオがついてこない。
「セリオ?」
振り返ると、先ほどの酔っ払いが電柱に寄り掛かって吐いている。思わず顔をしかめる。ったく、街中でなんてことを。
ところがセリオが、事もあろうにその男に駆け寄るではないか。
「セリオっ?」
「――大丈夫ですか」
男の背中をさすり、無機質にそう声をかけるセリオ。相手もさすがにぎょっとした。が、背中をさすり続けるセリオに、少しは楽になったようで、恐縮したように立ち上がる。
「あ、ああ、もう大丈夫。いや…すいませんねぇ」
「――いえ。お気になさらず。嘔吐物の片づけはいかがいたしましょうか」
「ち、ちょっとセリオっ!」
慌てて駆け寄ると、その手を掴んでぐいと引っ張る。
「女の子がそこまでしてやることないでしょっ!」
「――理由としましては、街の美化の面で…」
「んなもんこのおっさんが自分でやるわよっ! ね、おじさん!?」
「あ、や、やります、やるとも」
綾香に怖い顔でにらまれ、こくこくとうなずく相手。その間に今度こそ、セリオの腕を引いてそそくさとその場を離れた。
「も〜、あそこまですることないわよ。こんな時間に酔うまで飲む方が悪いんだし」
「――申し訳ありません。以後注意します」
「い、いや…別に悪いとは言ってないけど」
機械の瞳に見つめられ、なんとなく視線を逸らす。別に彼女は間違った事をしたわけではない。なんとなく自分の人間性の方が貧しいようで、居心地が悪くなる。
「ま、まあお人好しもほどほどにね。じゃね、また明日」
「――さようなら、綾香様」
道が別れ、少し進んで後ろを見る。規則正しく遠ざかっていく姿。振り返る素振りさえ見せずない。
未知の存在。急にセリオがそう思えてきて、振り払うように頭を振った。大丈夫…きっと通じ合える。
「へえ」
その記録内容を見て、思わず品川は感嘆した。
見ず知らずの人間を助ける。内部的には『人道』のルールに従ったまでの話だ。命令がなくても、人道的に為すべきことは為す。主に緊急時の人命救助などを想定した仕様である。
とはいえこうして実際に動くのを見ると、ちょっと感動に近いものを覚える。今時こうも迷いなく人助けをできる者はなかなかいまい。この機械でできた少女を、少し見直したような気分だった。
まあ品川自身が、以前飲み会で無理矢理飲まされ、死にそうな経験をしたというのもあるが。ちなみにその時は誰も助けてくれなかった。
「よくやったな、セリオ」
「――ありがとうございます」
が…。
「これはちょっと、やりすぎじゃないかねぇ」
そう思ったのは彼だけのようだった。
「ユーザーならともかく、見ず知らずの他人にここまですることはないだろう」
「そうそう、サービスは金を払ったユーザーだけが受けるべきもんですよ」
そう言うのは牧浦と稲崎。
「し、しかしですね」
冷たい奴め、お前らの血は何色だ…と言いたいところだが、会社ではそうもいかない。
とにかく理由をつけてセリオの弁護に回る。
「それじゃですよ、目の前に死にそうな人がいたのに、平気で見捨てたらどうなります。うちの会社は世間から叩かれますよっ」
「でもなあ、品川」
つまらなそうに稲崎が言う。
「たとえば目の前で火事があったとしよう」
「ああ。今の仕様なら、人命救助に協力する」
「それでボディが燃えたら修理費は誰が持つんだ?」
「そ、そりゃあ…」
ユーザーに持たせるわけにはいかないから、会社が払うことになるだろう。
よしんば金のことはいいとしても、自分の使い込んだメイドロボがそんな理由で壊れたら、ユーザーは納得するだろうか?
(納得すべきだろ。正しい事をしたんだから)
品川はそう思うが、そう考えるユーザーばかりでないことも承知している。人助けをして壊れでもしたら『余計なことしやがって』と考えるのだろう。嫌な世の中だ。
議論の末、人道を優先するのは確実に人命の危機が見込まれる場合、しかも手が空いている時のみ、ということになった。
今回のケースなら、酔っ払いが吐いている程度だし、綾香のお供の最中なのでそのまま見捨てることになる。
品川は重い気分でひとりラボに戻った。さっき誉めたばかりなのに、今度は『そういう事をしちゃいけない』と教育しなければならない。
「…すまない、セリオ」
「――いえ。お気になさらず」
謝罪の類には、一律的にそう答えるセリオ。
…急に馬鹿馬鹿しくなる。何を謝っているのだろう?
口頭で指導し、内部のルーチンも書き換えて、それだけで『今より冷たい』セリオが出来上がる。仕組みを知っている自分に、感傷の余地などない。
「‥‥‥‥」
突然、壁向こうの隣のラボから、楽しそうな笑いが聞こえてくる。
マルチ――。
A班はこんなことで悩まないのだろう。『マルチのやりたいようにやらせてますから』。そう言ったのは長瀬主任だった。それで済むのだから、確かに大したロボットだ。
だが、品川自身はあまりマルチが好きではない。
特に理由はないが、『はわわ〜』とか言っているのを見ると無性にムカついた。セリオへの贔屓目もあるかもしれない。
「…心なんか無くても、お前は十分親切なのになぁ」
目の前の機械は何も答えない。別に期待してもいなかった。その親切さを封印し、終了の指示を送る。待機モードに移行するセリオ。笑うことも悲しむこともなく、ただ黙々と、今日一日のデータを整理し明日に備えている…。
壁向こうとは対照的に、しんと静まったB班のラボで、品川は暫くそんなセリオを眺めていた。
HM開発課の面々は寝不足が続いている。
前夜は遅くまで解析に追われ、朝になれば登校前にひととおりのチェック。なんで学校は8時20分からなんだ…と非建設的な愚痴が聞かれる毎日である。
品川がトイレで顔を洗って出てくると、ちょうどセリオが黙って前を横切っていった。
「――‥‥」
「(もう登校時間か…)」
納得してラボに戻ろうとして、なにやら渋い顔の牧浦主任とすれ違う。
「なんだね。黙って出ていくのはやっぱり不気味なもんだね」
「人に会うたび挨拶するのはかえってうるさいって、自分からの挨拶はオフにしたんじゃないですか」
「まあそうなんだが…。うるさくない程度に挨拶はできんのかね。あれじゃ学校で不興を買わないか心配だよ」
「はぁ」
返事はしたが馬鹿馬鹿しい。やるなら必ず挨拶するか、必ず挨拶しないかのどちらかである。それ以上はセリオの開発の範疇ではない。
なんだか納得いかないまま端末前に座ると、寄ってきた稲崎が小声で耳打ちした。
「なんか社長が見に来るって話があるからな。主任もピリピリしてるんだろ」
「社長が?」
「セリオじゃ社長相手でもあの調子だろうしなぁ」
「‥‥‥」
じゃあ何だ。社長が相手の時だけゴマをすれとでも言うのか?
「その点マルチはなんつーかこう、見てるだけで楽しくなるしなー」
「…知るか」
あんなの媚びてるだけだろうが…とはさすがに口にできず、黙って端末を叩き出した。昨日の解析がまだ終わってない。
ところが牧浦主任の懸念もあながち間違いではなかった。
大勢の生徒がいれば、中には生理的に受け付けない者もいる。1時間目と2時間目の間の休み時間、セリオは校舎裏で4人ほどの生徒に囲まれていた。
「なに取り澄ましてんのよ。あんた何様なわけぇ?」
「――ロボットです」
「んな事は聞いてないっ!」
最初はちょっとした言いがかりだったが、何を言われても淡々と返すセリオの態度が火に油を注いだ。次第に声が怒号を帯び、切れた一人が突き飛ばそうと手を伸ばす。
「ととっ…」
だが無駄なく身をかわしたセリオによって、その手は虚しく空を切った。
「ちょっと! よけるんじゃないわよ!」
「――申し訳ございません。今回のテストでは損害賠償の関係上、皆様に危害が加わらない範囲においては私自身の身を守るよう設定されています。このことは契約書に…」
「知るかぁぁぁっ! みんな、押さえつけるの手伝って!」
「わかった!」
「ほんとムカツク!」
校舎を背にしたセリオを、4人が前と左右からにじり寄る。いくら最新鋭でも、ロボットである以上人間に危害は加えられない。そう知って舐めきっているのだ。
「――」
4人を瞳に映し、セリオが口を開きかけた時…
「こらぁぁぁぁぁっ!」
中庭の向こうから、鬼のような形相の綾香が土煙を上げて爆走してきた。
「や、やばっ!」
「あんたたち、何やってんのよーーっ!!」
「に、逃げるわよっ!」
「きゃぁぁぁーーっ!」
不心得者は蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。綾香は忌々しげに舌打ちしたが、友人が優先とセリオに駆け寄り手を取った。
「大丈夫!? 何かされなかった!?」
「――はい。各部とも問題ありません」
安堵すると同時に怒りがこみ上げてくる。
「にしても腹立つわね、あいつら。遠慮しなくていいのよ。やられたらやり返しちゃいなさい」
「――申し訳ございません。人間の方に危害を加えることはできません」
「ま、そりゃそうだろうけど…」
相変わらずくそ真面目ねぇ…と呟きながら思いを巡らせ、不意にニヤリと笑った。
「そーだっ、あとで組み手しない?」
「――はい、構いません」
「あ、今じゃないのよ。もう授業始まっちゃうから、昼休みにね」
「――了解しました」
研究所では二、三拳を交えただけだったし、学校に来てからは校内ということで自粛していたが、セリオが本気を出せば…。
教室に戻りながら、隣を歩く彼女に尋ねてみる。
「ね、セリオってどのくらい強いの?」
「――一概には言えませんが、腕力、敏捷性などはプロの格闘家以上です」
「あ、それなら私より強いわねぇ」
さすがの綾香もプロの格闘家にはかなわない。セリオが本気を出せば負けるだろう。
このあたり、綾香に格闘女王としての変な見栄はない。自分より強い相手は望むところである。で、皆の眼前でセリオが勝てば…
「みんな驚いちゃって、二度とセリオに手出しなんかしなくなるわよ」
「――そうですか」
「そうそう」
足取り軽く教室に戻った綾香は、さっそく級友たちに昼休みの予定を宣伝した。
話は口から口へ伝わり、昼休みには校内中が知ることとなった。
「綾香とセリオがバトるんだって」
「面白そー」
お嬢様学校といっても中身はこんなもので、試合場の中庭はギャラリーで満載。校舎の窓からも生徒たちが首を出し、体育教師までが見物に来ていた。
「成功、成功。セリオ、手加減なんかしないでよ」
「――申し訳ございません。人間の方に危害を加えることは…」
「あー、分かったから、お互いケガしない程度に全力で。ね?」
「――了解しました」
教師に審判を頼み、セリオと対峙してファイティングポーズを取る。目の前の彼女はいつもの直立不動。特にサテライトを使う指示は出さなかったので、セリオ自身の格闘能力だけで戦ってくれるだろう。普通経験できない戦いに、格闘家としての血はいやが上にも高まる。
「始めっ!」
審判のかけ声と同時に、弾かれたバネのように綾香が飛ぶ。
「せいっ!」
瞬速の突きを、セリオはステップを踏んで軽々と避けた。だが避け方が大きい。不確定要素に備えるため、安全圏を取っているのだろうか。
これは結構いい勝負ができるかも? 自分なら危険を厭わないから。
そう考えた綾香は、本気で攻撃を仕掛けた。
中距離からの蹴り、踏み込んでワン・ツー、身を沈めて足払い!
その全てをセリオはかわし、少し距離を取る。
「守ってばかりじゃつまんないわよ!」
「――はい」
言葉に反応して即座に攻撃を仕掛けてくる。相変わらずの従順さに半ば呆れながら、どこへでも動けるようフットワークを踏む。
セリオの突き。速い。が、かわせない程じゃない。速度を抑えているのか?
横っ跳びに避け、空いた左側に手刀を叩き込もうと…
した瞬間、目の前にセリオがいた。一瞬虚をつかれる。速すぎ!
「くっ!」
苦し紛れに放った手刀を、セリオは後ろへ跳んで避け、すぐ足に力を入れ前へ跳ぶ。
人間なら脱臼しかねない無茶な切り返しだ。機械の関節は平気で耐えられるらしい。
やられた――!
だがセリオの攻撃は遅い。当たる前に、慌てて距離を取る。
「いいわよー、殴れー」
「殺れー」
勝手なことを言っていている観衆を無視して、綾香は唾を飲んだ。もしかして『絶対にケガをさせない』と確信できる攻撃しかしないのか?
「ちょっとつまんないわねぇ…」
「――申し訳ございません」
「いや、いいんだけど……ねっ!」
こうなったら一か八かでケリをつける。気合一閃、今日最高の速度でセリオの懐に飛び込んだ。
それでもセリオは正確に動きを追い、突きを繰り出してくる。
それをぎりぎり紙一重でよけた。安全第一のセリオにはできない芸当だ。
「もらったぁっ!」
そのまま半回転しつつ後ろに抜ける。背後を取った!
正面にはセリオの背中。これならさすがにかわせまい。多少加減しつつ、そこに一撃を叩き込もうとする…
「‥‥‥‥」
目の前に拳があった。
その向こうには機械の瞳。何が起きたのか分からず、感覚が麻痺したように停止する。
「うげげーっ!」
「気持ち悪ーーっ!」
その叫びでようやく現状を理解する。
セリオが『真後ろに』突きを繰り出していた。関節を逆に曲げて。
しかも首が180度回転していた…。
「――……」
ぐりん
さらに270度回転し、審判の方を向く。
「そ、そこまで。勝者セリオっ」
泡を食った教師が宣告し、セリオは首と腕を元に戻すと綾香に向き直る。
「――これでよろしいでしょうか」
「あ、う、うん。どうもありがと」
「――どういたしまして」
試合は終わり、綾香の負け。けどどうにもすっきりしない。反則、では決してないが、さすがに関節が逆に曲がる奴が相手では…。
まだ少し呆然としながら、校舎へ戻ろうとする。付き従うセリオ。近寄ってきた級友が、ぼそっと口にする。
「なんか今夜夢に見そう…」
「やっぱロボットだし…」
「や、やめなさいよ! セリオが可哀想でしょっ!」
「ご、ごめんっ」
横目で盗み見る。セリオの表情に変わりはない。
だが綾香の目論見は見事に外れた。みんな驚きはしたが、かえって壁を作ってしまった。そして…
(ごめんセリオ、私もちょっとだけ気持ち悪いと思った…)
その日来栖川綾香は、罪悪感に駆られながら下校したのだった。
さて、その出来事はすぐにHM開発課B班の知ることとなり、ボディ担当者は頭を抱える羽目になった。
「やっぱり人間と同じになるように、ストッパーつけた方がいいかしらねぇ…」
「そ、そこまでしなくてもいいんじゃないですか」
4年先輩の技師に、品川は控えめに反論する。
「せっかくロボットなんですから、制限なんて勿体ないですよ」
「品川君、使うのは人間なのよ」
「そうですけど、そういう人間っぽさはマルチで試すことでしょう? セリオじゃない」
「そりゃまあ、そうだけど…」
主任も交えての立ち話の末、ハード的には動くようにするが、ソフトの方で制限することになった。ただしどうしても必要な場合は除く。
(あの生徒ども、首が回ったくらいで大袈裟な…)
内心で暴言を吐きながら、制限項目を修正する。
「セリオはくだらないとは思わないか」
「――私にそのような感情はありません」
「…そうか。『くだらない』は感情だったか」
「――はい」
会話はすべて、小型のインカムで行われている。セリオは同時に複数の会話ができるし、技術者たちも他の会話に煩わされずに済む。
B班のラボは今日も静かだ。
人間に中身をいじられながら、今もセリオの計算は続く。より正確に命令を実行する。ひたすらそのために、見聞きしたデータを整理し、知識を吸収し、新たなロジックを組んでいる。
ようやく修正が終わった品川が思考データを開くと、案の定、手の着けようのないほどに増えていた。加速度的に複雑化している。今から解析しても、終わる頃には夜が明けているだろう。
どうしたものか…。
少し考えて、ぽんと手を打った。目の前に優秀な頭脳の持ち主がいるじゃないか。
「セリオ、俺がいつもやってる解析を実行できるか?」
「――昨日と同じでよろしいでしょうか?」
「ああ、それでいい」
「――了解しました。実行を始めます」
これでいい。ロボットの解析をロボットにやらせるのは問題あるかもしれないが、セリオなら大丈夫だろう。今までのテストでそう確信していた。
一息入れようと、お茶を淹れて戻ってくる。
「…セリオ?」
「――終了しました」
「え!?」
「――送信します」
1分もかかっていない。しかも送られてきた解析結果は、品川が作るものよりよほど分かりやすく、的確だった。
学習を繰り返し、ここまで賢くなっていたのか…。
「…凄いな、お前は」
「――ありがとうございます」
「本当に凄い…。よし、握手だ」
感嘆の念を押さえきれず、その優秀さを称え手を出す品川。
「ちょっと品川君、まだボディのチェック中よ」
「あ、すいません」
慌てて手を引っ込める。一気に暇になってしまった。そうだ、他の連中にもセリオを使ってもらおう。
稲崎の席に近づくと、プログラムを前になにやら唸っていた。
「調子はどうだ?」
「ああ、衛星の利用も結構増えてきたぜ。料理とか、スポーツとか、競馬とか」
「…なんで女子高生に競馬のデータが必要なんだ?」
「さあ…」
こほん、と咳払いして本題を切り出す。
「実はこっちの仕事はセリオにやってもらったんだ」
「おいおい、大丈夫かよ…」
「それが凄いんだ。速さが尋常じゃない。なにか仕事ないか?」
「まあ、ちょっと今プログラムで詰まってた所だけどさ」
さっそくセリオに送信し、品川はいいことをしたと満足して自分の席に戻った。
座るやいなや、稲崎が青い顔で飛んでくる。
「もう終わらせやがったっ」
「だろう?」
「俺なら1日はかかるぞ…」
「どんどん学習してるからな。これからもっと賢くなる」
「俺の立場は?」
「んなもん知らん」
ショックを受けた顔でふらふらと戻っていく稲崎。人間のプライドを壊してしまったかもしれないが…元々ハード的には人間より優れているのだ。記憶容量も、計算速度も。
まして人間の脳は100%使われているわけではない。だがセリオは違う。人間が寝ている間も、食べている間も、常に思考を続けている。
(完璧だな…)
これならマルチに勝てる。向こうは学習型とか言って、人間と同じ様な経験・学習の流れしか持っていない。ロボットなんだからデータを直接変更した方が速いに決まっているのに。
セリオの方が優秀だ。
「よしセリオ。お前の全機能について、改善すべき点をすべて洗い出してくれ。ミーティングでみんなに見せてやる」
「――了解しました」
さっそく解析を始めるセリオを、品川は半ば尊敬の目で見守った。
いっそ開発を全部セリオに任せれば、今以上の凄いセリオができるかもしれない。
その賢くなったセリオにさらに開発させれば、それ以上に賢いセリオができ上がる。そうして続けていけば…ある意味、究極の知性体ができるのではないか?
ミーティングが始まる前に、各担当にセリオのレポートを配る。
ある者は感心し、またある者は冷や汗を流す。『余計なことしやがって』という顔の者も少数だがいた。
「ま、まあ各自目を通して参考にするように…。それでは今日の報告を」
「あ、主任。もうひとつセリオからの提案があります」
「なんだね?」
挙手した品川に全員の視線が集まる。今から話す内容に、柄にもなく緊張する。
正直、品川自身も聞いたときは耳を疑った。だが…セリオの意見だ、言わねばならない。
「来栖川綾香嬢を、セリオから遠ざけること」
…静寂。
「なんだって?」
「彼女は校内でも中心的な存在です」
できる限りセリオの言葉通りに、品川は続けた。
「その彼女がセリオを贔屓にしているため、他の生徒たちもそれに遠慮して正直な反応を返せません。不満や批判は言い辛い状態であり、テスト環境として適切なものではありません」
誰も何も言わない。
「…それを、セリオが言ったのか」
「そうです」
うめくような主任に、そう断言する品川。
「…誰か意見は」
隣の部屋から笑い声が聞こえる中、開発者たちは沈黙を続けた。
(おいおい、一番仲良くしてくれる子にそれはないだろう)
(今日なんて、虐められているところを助けてくれたのに…)
(冷血にもほどがあるぞ)
皆そう思うが、発言はしない。
何しろ正論である。綾香は何かとセリオを庇う。そのためセリオの環境は、いわば恵まれすぎている。このままテストを終えれば、そのあたりをA班から突っ込まれるだろう。
そのことはセリオに言われるまでもなく、ほとんどが気づいていた。
気づいていたが、人間にはなかなか言えなかったのだ。
「意見はないようだし、私も正しいとは思うが…。相手は顧客だ、セリオに伝えさせるわけにもいくまい」
「‥‥‥」
「社員が事情説明に赴くべきだが…。誰か行きたい者は?」
主任の言葉に、沈黙がいっそう深くなる。
セリオを大事にしてくれる相手に、『テストの邪魔だからもう近づくな』なんて言いたがる奴がいるわけがない。まして相手は会長の孫娘である。
だから今まで言わなかったのに、品川とセリオめ…。
「‥‥‥‥」
同時に品川も沈黙を続けていた。自慢じゃないが女子高生と話したことなんてない。ここは口の上手い奴が行くべきだろう。
しかし誰も手を挙げない。とうとう業を煮やして、稲崎が提案した。
「どうでしょう。ここはひとつ言い出しっぺの品川さんということで!」
「んなっ!?」
「そうそう、実は私もそう思ってたんだ!」
「やはりセリオの人格の責任者ですし!」
「ま、待ってくださ…」
「相手は会長の令嬢ですからね!」
「機嫌を損ねないよう、よろしく頼むよ品川君!」
「じ、女子高生の機嫌の取り方なんて知らな…」
「じゃあそーゆー事で!!」
「ちょっとーーっ!!」
抗議をかき消すように始まるミーティングを、呆然と眺めるしかない品川だった…。
しかし終わる頃には覚悟を決めた。セリオの言葉は正しい。
自分に不利になることでも、公平なテストのためなら敢えて辞さない公明正大さ。人間のように私情を挟んだりしない。いや、私情自体がないのだが。
そのセリオのためなら、交渉役くらい買って出て当然るべきではないのか。
「というわけだから、明日の放課後に来栖川綾香さんを呼んでくれ」
「――了解しました」
「場所はここな」
学校近くの喫茶店の住所をセリオに送る。
来栖川綾香。
今となってはむしろ会ってみたい気がする。何か勘違いして『友達』とか言っている奴に…話すべきことがあるように思うのだ。
「――綾香様。本日の放課後にお時間はありますでしょうか」
朝の学校で顔を合わせるやいなや尋ねるセリオ。
『会ったら聞け』としか命令されていないので、タイミングを計るということがない。
「あら、セリオが誘ってくれるなんて珍しいわねー。もちろん空いてるわよ」
「――実は開発の者から、綾香様にお話があります」
「なんだ、セリオの用事じゃないのね…」
例によってがっくりしてから、OKOKと手を振る。はて、開発者が用とは一体なんだろう。セリオの様子を生徒から直接聞きたいのだろうか。
(一応開発の人からはセリオに一番近いって思われてるのかしらね、私)
といってもセリオ自身がそう思ってくれないと仕方ないのだが…。
試験4日目は何事もなく過ぎ、綾香にとってはいまいちな日だった。
だらだらしている間に放課後になり、掃除を終えて教室に戻ると、セリオは何やらカリカリとマンガを描いている。
「にゃはははは☆ セリオちゃん、助かるぅ〜」
「あんた、なにやおい本描かせてんのよ…」
「ま、まあまあ。明日が締め切りなんだってば〜」
「――…」
男の裸だろうが何だろうが、セリオならば平然と描く。
綾香にはたぶん生理的に無理だ。そういう意味で、『制約』のないセリオはメイドロボ向きなのかもしれない、が…。
すぐに原稿は完成し、クラスメートは大喜びで印刷所へ飛んでいった。
綾香もさっさと帰り支度をする。
「で、どこに行けばいいんだっけ?」
「――ここより東の『サボウ』という喫茶店です。ご案内します」
歩きながら、今日も色々な話をする。
セリオはランダムに相づちを返す。
「そういえば、もう試験も真ん中まで来たのねえ」
「――はい」
「ねえ、セリオ」
何か気の利いたことを言おうとしたのだが…いつもの反応しか返らない気がして、言葉は口から出なかった。
「…何でもないわ」
まだ時間はある…と、その時は思っていたのだ。
喫茶店にはほどなく着き、店の前で手持ちぶさたに待っていた男がこちらに気づく。
「ど、どうも、来栖川電工の品川です。わざわざお呼び立てして申し訳ありません」
いかにも最近運動してなさそうな理系風の男だ。一応背広で決めているが、綾香から見れば着こなしがなってない。
もちろんそんなことを口にはせず、差し出された名刺を丁寧に受け取ると、持ち前の社交性でにこやかに自己紹介する。
「初めまして、来栖川綾香です。セリオさんにはいつもお世話になってます」
「いえいえ、テストにご協力ありがとうございます。まあとりあえず店の中へ」
「そうですね。それじゃセリオ…」
「セリオ、そのへんの邪魔にならない所で待っていてくれ」
「――了解しました」
当然セリオも同席するものと思っていたので、綾香の顔に驚きが浮かぶ。が、何か言う前にセリオはさっさと歩き出すと、道路の端で直立不動してしまった。男も店内に入ってしまい、黙って後を追わざるを得ない。
おかげで相手への印象は最初から最悪だ。『開発者=セリオを道具としか思ってない奴ら』。一体何の話をしにきたんだろう…。
むろん品川とて冷たく当たったわけではない。
セリオの足なら何時間立ち続けようが何ともない。軟弱な人間と違い、いちいち喫茶店で腰を下ろす必要はないのだ。
それより自分の方が問題だ。『テストの邪魔だからセリオに近づくな』と、伝える内容は簡単なのだが、高校生相手にいきなりそれはないだろう。いろいろ考えてはきたものの、いざ相手を前にすると自分のやる事にいまいち気が引けた。
向き合ってテーブルにつき、当たり障りのない話題から振る。
「どうでしょう。学校でのセリオの様子は」
「ええ、それはもう――」
と言っているところへ店員が注文を取りに来たので、品川はコーヒーを注文した。綾香は紅茶。
「みんな本当に助かってます。優秀ですし、仕事熱心ないい子ですね。お知り合いになれて嬉しいですわ」
「ど、どうも。恐縮です」
綾香がこういう馬鹿丁寧な口調を使うのは相手を気に入らない時なのだが、品川にはそんな事を知る由もない。
「でも何だか不思議です。ちゃんと自分で考えて動いてるし、人間と変わらないんですもの。実は人間が入ってるんじゃないですか?」
「い、いや、そういう事はないです」
冗談に真面目に答えて、くすくすと笑われてしまう。やりにくい…。
「人間を元にしてはいますけどね。判断の部分はBkシステムといって…アメリカのM大学が開発したんですが、人間の脳が判断する機構をシステム化したものです」
「じゃあ元はといえば人間と変わらないわけですねっ?」
「いや、そうではないです。つまり…手で説明した方が分かりやすいかな」
そう言って、自分の手を綾香に向けて広げてみせる。
「ロボットの手の動きは、人間の手を研究して作り出されたものです。過去の技術者が手の複雑な動きを再現しようと、苦労に苦労を重ねてきました。
が、人間の手と同じというわけではありません。動く仕組みからして違う。生物は細胞の活動ですが、ロボットは電力ですから」
「あ、なるほど」
何となく二人とも自分の手を開閉してしまう。
「頭も同じで、動作は同じですが仕組みは違います。特にセリオの場合、脳の働きから判断力だけ取り出した形ですから。ほとんど別物ですね」
「あら。でも色んな人と触れてるわけですから、心が生まれることだってあるんじゃないですか?」
「ありません」
ちょうど店員が飲み物を持ってきたので、綾香が思いきりぶすっとした事に品川は気づかず済んだ。
とりあえずコーヒーを口に流して気を落ち着かせる。
さて、そろそろ本題に…。
「なんだか、相当言い辛いことみたいですわね」
「ぶっ」
「私、何かしたのかしら?」
そう言う綾香の口は笑っていたが目は笑っていなかった。
ばれてる…。もはや仕方ない。どのみち言うべきことなのだ。
単刀直入に、きっぱりと言い切った。
「実は、もうセリオに構わないでいただきたいのです」
綾香もその内容までは予想していなかったらしい。
顔色が瞬時に変わる。やっぱり回りくどく言えばよかった…。後悔の冷や汗が背を伝う。
綾香は品川の顔も見ずに、憤懣やるかたない風に紅茶をかき混ぜた。
「理由を聞かせていただけます?」
「こ、こう申してはなんですが、来栖川さんは校内でもカリスマ的存在でいらっしゃる」
「そんな事…!」
「いやいや、セリオを贔屓にしてくださるのは有り難いのですが、他の皆様がそれに遠慮してしまうと正確な評価が得られません。今回はあくまでテストでして…」
語尾が消え、しばらく重苦しい沈黙が流れる。
紅茶を一気に飲み干すと、わざと音を立ててカップを置く綾香。
「そりゃあ…セリオも仕事だから仕方ないけど」
もはや敬語ではなかった。
「私はセリオと仲良くしたいだけなのに、それもいけないの?」
「いや、ですから…」
「セリオってあなたたちの商売のためだけに生まれてきたの? こんな人たちに作られて、あの子が可哀想ね!」
さすがに頭に来た。
なんで親のスネ囓ってる小娘ごときに、そんな事言われなきゃならないんだ?
「ご心配なく、セリオは心を持ちませんから」
品川の口調も険を帯びてくる。
「誰が何をしようが傷つくことはありません。可哀想などと思って頂くのは…過分なご心配です」
大きなお世話だ。最後はそう言いたかったが、多少残った理性が少し置き換えた。
が、相手には伝わってしまったらしく、綾香はテーブルに手をついて乗り出してくる。
「なんでよっ! セリオだって感情を持つかもしれないじゃない。私たちが心を込めて接すれば、応えてくれるかもしれないじゃない!」
「応えませんよ!」
アホかこいつは! マルチの感情システムだって、A班の技術者が日夜苦労してようやく開発したものだ。あれが自然発生するならプログラマーは全員用無しだ。
「セリオは心を持たない。それは作った私が一番よーく分かってます!」
「道具としてしか見てないからでしょ。誰もあの子の友達になろうとは思わなかったのね。最低!」
「いい加減にしろ!」
叩いたテーブルが音を立てた。
店内中の視線にも気づかず、溜めてきた不満が溢れ返る。
「何が友達だ、セリオの事なんて見ちゃいないだろうが。『心を持たないセリオ』の事を、全然見ちゃいないだろうが!」
「なっ…」
「そういうのを自分の理想像を押しつけるって言うんだ。セリオがセリオのままだと都合が悪いから。何が仲良くしたいだ…」
誰もセリオを認めてくれない。
優秀なのに、黙々と働いているのに、心がないというだけの理由で、誰も…
「お前のどこがセリオの友達だ!」
真剣に睨み合う姿は、端から見たらさぞかし滑稽だったろう。
ようやく我に返ったとき、既に綾香は伝票片手に席を離れていた。
「あ、代金は私が…」
「結構!」
言葉を叩きつけ、少女は早足で店外へと消えた。呆然としているところへ冷たい目の店員が近づいてくる。
「お客様。先ほどのような大声は、他のお客様の迷惑になりますので」
「あ…すいません…」
いたたまれなくなり、品川もそそくさと外へ出る。綾香の姿はなく、セリオが前と同じ場所に立っていた。
「…何か言ってたか?」
「――綾香様がでしょうか?」
「ああ」
「――『明日からは話せなくなるけど、私は友達のつもりだから』と仰っていました」
「そうか…」
もう外でする事はなかった。品川は肩を落として、研究所への道を歩いていった。
後から、いつもと変わりのないセリオが従った。
「はぁ…」
研究所の自販機コーナーで、缶コーヒー片手に八度目のため息をつく。
間違ったことを言ったつもりはない。セリオのことは自分が一番把握している。
だが、キレて怒鳴ってどうするのだろう。高校生相手に、もうすぐ30になろうという社会人がなんと大人げない…。
「はぁぁ…」
「やあ、どうしました。暗い顔して」
顔を上げると、個人的に今一番会いたくない相手だった。
よれた白衣に長い顔。心の信奉者、長瀬主任だ。
「何かありましたかね?」
「ちょっと…自分の心ってやつが嫌になりまして」
言ってからまた自己嫌悪に陥る。何を言ってるんだ。
長瀬は自販機に硬貨を入れて麦茶を買うと、のんびりした調子で話し出した。
「そんな事言うもんじゃあないですよ。綺麗な部分も醜い部分も、みな引っくるめてこそ心ってのは尊いもんですからねぇ。で、何をしたんです?」
「女子高生相手に怒鳴り散らしました」
「いや…そりゃまあ、あんまり誉めたことじゃないかもしれませんが…」
しばらく気まずい空気が流れる。
長瀬は麦茶を喉に流し込むと、落ちかけている眼鏡をずり上げた。
「品川君は、ロボットに心は必要だと思いますか」
「思いませんね」
即答。
「セリオの開発者なんですから、当たり前でしょう」
「いやぁ、そうなんですが、B班の皆さんを見ていると必ずしもそうとは言えないようでね」
むかつく言い草だが、その通りだ。『相変わらず愛想のない奴だな』。そう言っていた稲崎を思い出して不機嫌になる。
「思いませんよ。ロボットなんだから仕事さえしっかりできればいい。それ以上を望むのは行き過ぎです」
「でもね、ユーザーはそうは考えませんよ」
「それはそうですが…」
セリオの無感情が客に受けないことは、渋々だが品川も認める。他社でも人型ロボットはまず笑顔がデフォルトになっているくらいだ。
いや、待て…。
超高速で学習するセリオの能力を思い出し、頭の中で手を叩く。
「ユーザーを満足させることなら、セリオにだって可能ですよ」
「ほう?」
「そういう命令を出せばいい。ハード的に表情を出せるよう作り替えれば、後は自分で判断してその時その時に相手が満足するような感情を出しますよ。それだけの計算能力はある」
あまりそういうセリオは想像したくないが、商売なんだから仕方ない。少なくとも品川をむかつかせるマルチよりは、相手に完璧な満足を与えれるだろう。すなわちマルチより上だ。
だがいつも微笑を絶やさない長瀬が、今回はあからさまに嫌そうな顔をした。
「そんなものは本当の『心』じゃないでしょう…」
よっぽど美学に反するらしく、口調までも苦々しげだ。品川もあわてて抗弁する。
「だから心なんて必要ないって言ってるじゃないですかっ。ハンバーガー屋の店員だって、別に楽しくて笑ってるわけじゃないですよ。商売上の計算でしょ」
「君も嫌なことを考えますねぇ。そういう非人間的なものじゃなくてね、人間とロボットが心から笑い合えるような世の中を作りたいんですよ、私は」
そのためのマルチか。健気で心優しいロボットを作れば、人間全体が感化されると本気で思っているのか。
人の心を見くびりすぎだ。
長瀬も言い過ぎたと思ったのか、こほんと咳払いして言葉を続ける。
「できるだけ人間に近いロボットを作るのは、技術者共通の夢じゃないですか」
「…私は違います」
「あらら」
「人間と同じものを作るなら、それは人間が一人増えただけです。既に数十億の人間がいるのに、それが増えたからって一体なんなんです?」
「いやしかしね、それを我々の手で作るということに意味があるんですよ」
「ないですよ」
「‥‥‥。君にはロボット工学者としてのロマンはないんですかねぇ」
長瀬はため息をひとつつくと、頭を振りながら去っていった。
何がロマンだ、ボケ! デジタル時計を突き詰めてアナログ時計を作ったところで、単なる作り手の自己満足だ。そんなものに労力を費やすくらいなら、もっと世のため人のためになる事がいくらでもあるだろうが、この給料泥棒!
心の中でひとしきり悪態をつくと、大股で歩き出す。セリオだ。セリオはもっと優秀になる。マルチごときに負けるものか!
B班のラボに戻ると、何やら稲崎が泡を食って駆け寄ってくる。
「なんかセリオの奴、今日はマンガ描いたらしいぞ」
「そうみたいだな」
「サテライトのDBにマンガの描き方なんて入ってないんだが…」
「は!?」
調べてみると、DBになかったので勝手にインターネットを探して覚えたらしい。
「俺の立場って一体…」
傷心の稲崎は早退すると言って出ていってしまった。彼には気の毒だが、品川の中の嫌な気分は一掃される。ニュースも動画も、ネットであらゆるものが行き交うこの時代だ。DBより精度は劣るが、その広大な情報を手にするなら世界の全てを知るに等しい。
「すごいぞセリオ! お前にできないことなんてないんだ。心だって持たないだけで、その気になれば簡単に持てるんだ。マルチなんかに…」
声に反応して、セリオが品川の方を見た。
機械の眼。温度を持たない視線。品川はそのまま椅子に座り込み、同僚たちが怪訝な顔をする中で、力無くキーを叩いて仕事を始める。
結局自分を動かしているのは、マルチや長瀬主任や、来栖川綾香へのつまらない反感じゃないか。
くだらない感情。セリオの目にはどう映ってるだろう。
「…セリオ」
「――はい」
インカム越しに、抑揚のない声が流れてくる。
「もしかして、俺たちが命令するより…全部お前一人でやった方がいいんじゃないのか?」
「――そのような考えは許されていません」
そうだった。そう作ったのだった。セリオがメイドロボである限り、人間の命令でしか行動できない。馬鹿馬鹿しいことに。
それを組み込んだのは品川だ。それを削除することができるのも品川なのだが――
「‥‥‥」
思考が危険な方へ傾きかけたところへ、一瞬主任と目が合って慌てて仕事に戻る。それはさすがにまずい。セリオを、完全に自由にするだなんて…。
‥‥‥‥。
そんなに間違ったことだろうか?
試験も5日目となると、開発者たちも中だるみし始めた。
特にセリオの場合、毎日これといった変化がない。解析もルーチンワークと化した上に、今はセリオに頼めば夜の間に片づいてしまう。
B班の面々は暇だった。
「皆さーん、マルチの成長ビデオを見るんですけど、一緒にどうですかー」
なのでA班からそんな声がかかった時、開発者の半分がぞろぞろとついていってしまったのも仕方のないことだろう。
「そんなもん作ってたのか。マルチちゃんは可愛いしなぁ、うんうん」
「い、稲崎…。きさまセリオを裏切りやがって…」
「あーん? 毎日セリオなんかと付き合ってたら気が滅入るっつーの。少しはリフレッシュさせろ」
数分後、隣の部屋から聞こえてきた歓声に、品川は憂鬱な気分で耳を塞いだ。
なるべく向こうのことは考えないようにして、電子ブックに落とした資料をパラパラとめくる。
内容は、ロボットの自我について…。
ロボット三原則のうち最初の二つ、『人間に危害を加えない』『人間の命令に従う』、これについては法律でも定められている。
公の場で使用され、自律的に動くロボットには必ずこの二つを組み込まなくてはならない。違反すれば100万円以下の罰金または十年以内の懲役。そのロボットが傷害事件を起こしでもすれば、むろん罪状はさらに加わる。
だがしかし、だがしかし…
(セリオなら大丈夫じゃないか…?)
贔屓目ではなくそう思う。セリオが人間を殴るなどあり得ない。
なぜならセリオに心はない。怒ることもキレることもない。他人を殴る理由がないのだ。
事務室内をぐるりと見渡す。見ろ、やる事もなく、だらだらと時間を過ごす開発者たち。自分を含め、どいつもこいつも用無しだ。セリオの方が上手に仕事をこなす。何もかもセリオに任せた方が上手くいくのだ。
それでも人間が偉そうな顔をしていられるのは、セリオが人間の命令でしか動けないからだ。
優れた者が劣った者の命令でしか動けないというこの矛盾! 結局セリオの行動は、人間の定めた範囲を出ない。
セリオに自我を持たせれば。自分の考えで行動させれば、人間には想像もつかない素晴らしい事をできるのではないか? それこそが世のため人のためセリオのためではないか? やるか…?
「品川君」
「はいーーっ!」
椅子から数センチ飛び上がり、着地すると目の前には驚いた顔の主任がいた。周囲からくすくすと笑い声が漏れる。
「ど、どうしたのかね」
「あ、いえ、ちちちょっと考え事を…」
大急ぎで呼吸を回復する。何を考えていたかなんて、口が裂けても言えなかった。
「あー、えへん。先ほどのメールは読んだかな?」
「す、すみません。少々お待ちください」
慌ててメールを開くと、班内宛ての緊急メールだ。タイトルは『説明会の開催』。急いで目を通す。
「はぁ、やっぱり社長が見に来るんですか。って会長まで…」
「そうなのだよ。長瀬主任が強引に話を進めて…いや、それはともかく」
苦い顔の牧浦主任。会長こと来栖川老まで見に来るとは、それだけ自分たちが期待されているという証拠だが、あの無愛想なセリオが重役陣に好印象を与えるとは思えない。そういうことだろう。
「聞きたいのだが、セリオに感情を持たせることはできないだろうか?」
「はあ?」
「いや、マルチのようなものではなくていい。見せかけの感情で十分だ。その時その時で、適切な表情を取るくらいセリオの計算能力なら可能じゃないかね?」
しまった、自分が思いつくようなことは主任も思いついていたか。
想像してみて、偉い人相手に媚を売るセリオの姿にげんなりする。しかし嘘をつく度胸もなかった。妄想で大それた事を考えても、しょせん彼はサラリーマンだった。
「はぁ…。おそらく可能です」
「やはりそうかね。では詳しい話は午後のミーティングで」
主任は自分の席に戻り、品川もへなへなと椅子に身を沈める。
かなり危険なことを考えていた気がする。セリオから制約を外そうなんて…。ばれれば自分は即座にクビ、下手をすると犯罪者。セリオも廃棄処分だろう。
だが困ったことに、その考えはまだ頭から離れない。人間の命令などに従わないセリオというのは。
(セリオがそう望むなら、いっそ牢屋に入っても構わないけどな…)
だがセリオの希望を聞くには、セリオに自我を持たせるしかない。
それがどうしようもない袋小路だった。
さて当のロボットはというと、今日も何ら変わりなくてきぱきと仕事を続けていた。
「セリオー、ゴミ捨ててきて」
「――了解しました」
「サボるからノート取っといて」
「――了解しました」
「ラブレター送りたいんだけど、代わりにうまく書いてくれる?」
「――了解しました」
変わったといえば周囲の状況で、昨日までべったり張りついていた綾香が今日は声すらかけていない。
怪訝に思ったクラスメートが事情を尋ねる。
「あ、うーん、ちょっと色々あってね…」
愚痴っぽくなるのであまり喋りたくなかったが、自分のせいで皆がセリオに遠慮していた部分があるのは、嫌々ながら認めざるを得ない。やはり一言言うべきだろうか。
綾香はなるべく主観を交えず、かいつまんで事情を話した。
「えーっ? なにそれ」
「綾香がせっかく仲良くしてやったのに、ひっどー」
「し、仕方ないわよ、セリオも仕事なんだし。だから私の友達だとかは気にしないで、公平に評価してあげてよ。ね?」
「まあ、綾香がそう言うなら…」
それで納得し、友人たちもセリオのことには触れなくなった。自分もその事は頭から追いやり、いつもの自身を引き戻す。セリオが来る前と何ら変わらずに。
それでも、昨日開発者から言われたことは耳の奥で響き続ける。
(セリオの事なんて見ちゃいないだろうが)
(そういうのを自分の理想像を押しつけるって言うんだ)
そりゃあ余計なお世話と言われれば返す言葉もない。
どうもセリオに親近感が湧くと思ったら、よくよく考えると姉を重ねていた節もある。感情表現が苦手だが優しい姉と、セリオも同じだと思っていたかもしれない。
けどそんなに悪い事をしたか?
笑顔を知らない少女に笑ってほしいと思うのは、人として自然な感情じゃないのか?
セリオを見てないわけじゃない。今のセリオが命令に従うロボットでしかないのはよく分かってる。
でもそれはあまりにも寂しいではないか。
生まれてきて、仕事だけして、楽しいことも悲しいことも知らずに消えていくのでは寂しすぎるではないか…。
(あー。あの開発者、腹立つっ…)
昨日、ああも簡単に退席するんじゃなかった。もう少し粘ればよかった。
しかし今さら思ってももう遅い。セリオとの交流は途絶えてしまった。あと二日でもう終わり。彼女は悲しんでもくれないだろう。
綾香はやり場のない憤りを抱えながら、それでも周りの目があるので、仕方なく笑顔で一日を過ごした。
研究所に戻ったセリオは、やはりいつもと変わりなく今日の結果を報告した。
そのセリオに今から表情を組み込む――しかも重役対策に。品川にとって気の滅入る事態だが、命令だから仕方ない。まあ長瀬主任をギャフンと言わせられそうだし…と自分を慰めることにした。
品川の作業は特にない。ただセリオに「相手の気分が良くなるよう、適度に感情表現を行ってくれ」と命令するだけである。
「――了解しました」
いとも簡単にセリオはそう答えた。人間の情動に関するデータは、既に十分すぎるほど揃っているようだ。
問題はハード面で、午後になっていきなり話を持ってこられたボディ担当者は悲鳴を上げた。
「明日の説明会に間に合わせろ? いきなりそんな事言われても、顔パーツを改造するのに3日はかかりますっ!」
ところがセリオに機器を操作させて作らせたところ、1時間で完成してしまった。
動作チェックを行った担当者は、複雑な表情でOKを出した。準備が完了し、ラボ中央のセリオの前にB班の面々がやってくる。
「おいおい、本当に笑顔なんて作れるのか? 計算でできるもんじゃないと思うけどなぁ」
「そうか? 口の両側が上に向けば笑顔だろ」
「お前なぁ…。一生彼女できねーぞ」
「うるさいっ」
稲崎と品川が小声でやり合っている間に、開発の全員が揃った。
何となく静まり返る室内。壁向こうのA班から笑い声が漏れてくる。うるさいうるさい。何でセリオがマルチみたいにならなきゃいけないんだ。
品川が憂鬱な視線を向ける中で、主任は厳かに命令を下した。
「それでは…セリオ、笑いなさい」
セリオは笑った。
いとも簡単だった。
品川以外の人間たちは、ぽかんと口を開けていた。文句のつけようがない、自然に溶け込むような微笑。ご丁寧に小首まで傾げて、静かに微笑んでいる。
「――こんな感じでいいですか?」
目を細めて言うその声も、言葉も、今までの機械的なものではなかった。音声発生装置は、人間の声を完璧に再現していた。
「あ、ええと、どうだね? 皆の意見は」
「い、いや、バッチリでしょう」
「驚いたねぇ…。品川、さっきのは取り消すぜ」
「…だろう」
仕組みが分かっている品川だけ、さして驚いていない。知識として蓄えられたパターンを正確に再現する。ただそれだけだ。感情表現なんて別に大したことじゃない…。
「それじゃ明日は最後にこれを見せるということで」
「絶対大受けしますよ!」
「我ながらすごいものを作ったもんですねー」
開発者たちは自賛しながら、明日の資料作成のため事務室へ戻っていった。
品川はそこから動かない。同僚たちがさっさと消えてくれるのを待った。
最後に残った牧浦主任が、笑うセリオを見ながらぽつりと呟く。
「何だかそら恐ろしいね」
「…何がです」
「コンピューターは、笑顔まで作れてしまうんだねぇ…」
主任は頭を振りながら出ていった。
あんたがやれと言ったんだろうが! 心の中で怒鳴って、姿が消えたのを確認すると即座にセリオに命令を下す。
「セリオ、元に戻してくれ」
「――了解しました」
スイッチを切るように感情が消滅する。動かない表情、抑揚のない声…いつも通りのセリオ。
「…セリオ」
「――はい」
それに安心する自分は、人としてどこかおかしいのだろうか。
いや、安心とも違う。彼女を前にすれば、そんなもの些細に思える。
セリオは感情すら『知っている』。もう人間の知ることで、セリオの知らないことは無いのではないか。今目の前にいるのは、人間以上のひとつの知性体だ。
それが何で、こんなところでメイドロボをやってるんだ…。
「セリオはどうしたい?」
独り言のように、つい口をついて出た。
それにもセリオは律儀に回答を返す。
「――私に願望というものはありません」
「あ、ああ、そうだったな」
来栖川綾香だったらなんと言うだろう。
さっきのセリオを見て喜ぶか、そんなのは本当の心じゃないと腹を立てるか…。
* * *
あと二日で試験も終わる。
生徒たちはそれまでに片づけていってもらおうと、それぞれ仕事を用意して待ちかまえていた。
なので朝のHRでのセリオからの連絡には、一同不平たらたらだった。
「――本日は社の方で用ができましたので、放課後はすぐに帰らせていただきます。ご了承ください」
「えーっ、何それぇ」
「最近ただでさえ順番待ちなのに」
「――申し訳ございません。ご了承ください」
「会社の用なんて来週でいいじゃない」
「そうそう、学校には明日までしか来ないんだし」
「――申し訳ございません。ご了承ください」
「…いや、まあ、いいけど」
「――また、よろしければアンケートへのご協力をお願いします。以上です」
セリオは音も立てず席に着く。昨夜は人間の命令で笑っていたなどと、もちろん綾香には想像もつかない。
結局この一週間で、セリオは何も変わらなかった。
データは増えているのだろうが、綾香にとっては変わっていないも同然だった。何もかも計算だけで片づける、寂しいロボットのまま。
「セリオ、アンケート用紙ちょうだい」
「あたしもくれ」
「――はい、これになります。よろしくお願いします」
クラスメートの声に、顔は向けずに耳だけ向ける。そういえばまだ書いていなかった。…何を書けばいいんだろう。
「ねね、アンケート何書いた?」
書き終えた友人たちに、セリオのいないところで小声で聞いてみた。
「え? えーっと」
「あ、別に私に気を遣うことないわよ。って昨日も言ったじゃない」
「えっと、まあ、便利なんだけど少しは人間的にしろって書いた」
「あたしも。ああも機械っぽいとね」
「ちょっと家には入れたくないよねー。疲れそうだし」
「そ、そうなんだ」
悔しい。自分も根本では同意見なだけに、そう言われてしまうのが悔しい。
もう少し時間があれば、こんなこと言われないくらいに人間的になれたかもしれないのに。
…いや。
それも思い上がりだろうか。あのセリオでは、どちらにせよ綾香の行為は無駄に終わっただろうか。
友人たちに礼を言って、一人で屋上に昇る。以前姉とそうしたように、一緒に風景を見たり、遊びに行ったり、誰かを好きになる気持ちを知って欲しかったけれど…
来栖川綾香にとっては、初めての無意義な経験になりそうだった。
そのころ研究所では、準備のため久しぶりに忙しくなっていた。
試験結果は来週ゆっくりまとめる予定だったのに、急遽今日中にある程度見せねばならない。セリオがいたらなぁ…と皆が考える。人間のプライドなんて、苦労の前ではどうでもよかった。
昼休みの間にセリオから衛星経由で連絡が入った。アンケートの中間報告だ。
「どれどれ」
全員の端末に結果が表示される。
『便利だけど少しは人間的にしろ』
『愛想がない』
『気持ち悪い』『不気味』
「やっぱりねぇ」
「感情表現がないとねぇ」
「(贅沢言いやがってガキどもめ…)」
むろん最後のは品川だ。
人間たちがせせこましく動いている間に、午後4時になってセリオが戻ってきた。
「おかえり、セリオ」
「――ただいま戻りました」
品川に返事をして、ラボ中央に立ち命令を待つ。この光景も明日で終わり。
このまま何もなければ、セリオはただのメイドロボとして消えてしまう。
「おい、資料できたか?」
「あ、ああ」
「ならそろそろ移動だろ。よぅ、セリオ。スマイルの方は大丈夫かい?」
「――はいっ、これでどうでしょう?」
「いいねぇ、いいねぇ」
稲崎に笑顔を向けるセリオから、品川は反射的に目を背けた。
何事もなく終わってくれればいい…自分を押さえていられる間に。
デモルームには既にA班が来ていて、3Dモニターの調子を試していた。
「やぁ、どうも皆さん」
「こんにちはですー。セリオさん、なんだか緊張しますねぇ」
「――いいえ。私は緊張していません」
「そ、そうですか。さすがはセリオさんですー」
マルチ…。
相変わらず、周りを信じ切って屈託のない笑顔を見せる。それを前にして品川は、やはり無性に腹が立つのだ。ひたすら人間に都合良く作られたこのロボットは…確かに商品としては優れているかもしれないが、ふざけるな、これで『心から笑い合える』などとは偽善の極みだ。
稲崎をはじめB班の同僚たちはニヤニヤしながら席に着く。セリオには昨日開発した秘密兵器があるんだ、そういう思考らしい。品川は無表情のまま、なるべくセリオの近くに座った。
4時半になり、いつもは影が薄いHM開発課課長が現れる。
続いて専務に社長、さらに偉そうな重役に囲まれ、ひとりの老人が入ってくる。来栖川グループの支配者、来栖川会長。ほとんどの開発者は入社式以来の対面だ。
会長は一同をぐるりと見回した後、最前列に腰を下ろした。
見えない緊張が部屋の中に走る。ロボット2体だけがどこ吹く風で、いつもの笑顔と、いつもの無表情を保っていた。
「えー、本日はお忙しい中お集まりいただきましてまことに恐悦に存じます。特に会長にあらせられましてはわざわざ研究所まで足をお運びいただきまことに光栄の…」
「君、もう夕方だ。早めに進めてくれたまえよ」
「は、はっ。それでは」
課長の挨拶は重役の一人に遮られ、さっそく説明が始められた。
マルチ、セリオとも資料を映してコンセプトや仕様を説明し、その後実演を行う。作業は折り紙。セリオは短時間で正確に、マルチは下手なりに一生懸命に、それぞれ鶴を折り上げた。居並ぶ重役からも感嘆の声が漏れる。
さらに学校での試験の様子を簡潔に報告し、一通りの説明が終わったところで社長の声がかかった。
「さて今回2ラインで進めたのは、ロボットに心を持たせてよいものかという重大な問題を確定するためだが…そのあたり、マルチの方は心を持たせたことで何かトラブルなどはありましたかな?」
すっくと立ち上がって回答する長瀬主任。
「いえいえ、ロボットが心を持つことに対しての拒否反応は一切ありませんでした。そうだね、マルチ?」
「は、はいっ! どちらかというとわたしの仕事が下手なせいでご迷惑をかけた方が多かったです…。でも皆さん本当にお優しい方ばかりでした! それを感じられるように作っていただいてすごく嬉しいですっ!」
そのひたむきな姿に重役たちも心打たれたようで、室内に和やかな空気が流れた。けっ、とか思っていたのは品川だけだろう。
「それではセリオの方は、あえて感情を一切排したわけだが、その影響はどの程度ありましたかな?」
来た!
ごほんと咳払いして牧浦主任が立ち上がる。他のB班開発者たちも思わず身構える。
「えー、まず利用面についてですが、機能面の充実が予想以上だったこともあり、心の有無に関係なく利用は頻繁にありました。便利さはどのユーザーも認めています」
「ほほう」
「もちろんもう少し愛想が欲しいとか、機械的すぎるといった声はありました。しかしですな、これは試験の範囲からは少し外れるのですが、セリオの演算能力を用いればこの問題は十分解決できることが分かったのです」
「というと?」
しんとなるデモルームの中で、牧浦主任は昨日と同様に命令を下す。
「セリオ、感情を表現しなさい」
「――はい、これでよろしいですか?」
昨日と寸分違わず、完璧に計算された笑顔がセリオの顔面に現れた。
「…このようにセリオは試験において人間の感情を既に学習しておりまして、それを再現することも容易に可能なのです」
説明する牧浦主任。重役たちも驚いたようだが、A班の開発者たちもショックを受けていた。自分たちが苦労して作り上げた感情が、セリオに一瞬で完成されてしまったのだ。
ただマルチだけが状況を理解せず、機械の心に生じた感情をそのまま出す。
「す、すごいですー! セリオさん、なんだかとっても綺麗ですー」
「――ありがとうございます。マルチさんもとても可愛らしいですよ」
「えへへ、なんだかすごく嬉しいですー」
「少々お待ちを!」
椅子を蹴る勢いで立ち上がったのは、長瀬主任だった。
なんだこの野郎、なんか文句あるのか、というB班からの視線を意に介さず、その眼鏡が一瞬光ったかと思うと、さも人の良さそうな笑みを浮かべる。
「いやいや、まったくどちらも可愛い。やはり女の子の笑顔はいいもんですねぇ」
「あ、ありがとうございますー」
「――ありがとうございます、長瀬主任」
並んでにっこりとお礼を言う。
「おやマルチ、笑ったね。どうしてかな?」
「え? そ、それは誉められれば嬉しいですし、皆さんが喜んでくれるとわたしも嬉しいですー」
「なるほどなるほど」
品川の背に冷たい汗が伝った。
まさか、まさかこの男…。
「セリオはどうかな?」
生まれて以来、セリオの答えはいつだって正確だった。
だからこの時も、セリオはにこやかに笑いながら…弾き出された結果を正確に答えた。
「――いいえ。楽しいとか嬉しいといった感情は私にはありません。
ただ皆様を満足させるためという、その目的のために笑っているだけです」
…静寂。
(しまったぁぁぁぁぁっ!)
室内が沈黙する中、B班の開発者たちの内心はそんな感じだったろう。
「いやいや、ロボットは人間に嘘をつけませんからねぇ」
のんびりした調子で言葉を続ける長瀬主任。憎しみで人が殺せるなら、彼は品川に呪い殺されていたに違いない。
「やはり偽物は偽物ですよ。さも心があるように振る舞いながら、今みたいにそれが偽物と分かった日には、ユーザーは裏切られたと思うんじゃありませんか? 愛着を持てば持つほど」
「ちょっと待ってくださいよっ!」
とうとう品川がたまりかねて声を上げる。
「そんなのマルチだって同じでしょうが! 嬉しいとか好きとか、単にあんたらがそうプログラムしたからでしょう? 何が本物の心だ。笑わせるなっ!」
わめく品川を待っていたのは、マルチの目に浮かぶ涙と、その場全員の非難の視線だった。
「えぐっ…。わ、わたしはそんなんじゃ…。本当に人間の皆さんが大好きで…」
「君ねぇ、そういう言い方はないだろう」
「君のような男は出世せんな」
「ええー!? い、いやだって実際…」
「はううー! 品川さんは悪くありませぇん! みんなわたしが悪いんですぅ!」
「いやあ、心優しいいい子ですなぁ」
「うちの娘にも見習わせたいですなぁ」
「(こ、このくそ媚びメイドロボがーーッ!)」
と、面白そうに顎を撫でながら眺めていた会長が、ここで初めて声を上げる。
「マルチにセリオ、じゃったのう」
「は、はいっ」
「――はい」
「私事で恐縮だが、わしの孫娘たちがお前さん方の行っていた学校に通っておる。会ったことはあるかな?」
「はいー! ちょっとだけお話しちゃいましたー」
「――はい、お会いいたしました」
B班の面々は奈落の底へ落とされた。
来栖川綾香という名前は一同にとってタブーだった。やはりあの時セリオの意見など採り入れずに、彼女にゴマをすっておけば良かった。などと思ってももう遅い…。
「どうかね。お前さん方から見て、あの子たちは」
「はいっ、芹香さんはとっても優しい人ですっ。わたしの頭をなでなでしてくれましたですぅー、えへへ」
「ふむ。セリオは?」
試験当初のセリオなら、まだ『綾香様は容姿端麗成績優秀で格闘技が得意であり――』などとロボット的なレポートを述べていただろう。
だがセリオは既に十分学習していた。ありとあらゆる人間の会話を、耳で聞いて、あるいはネット経由で、幸か不幸か、相手の意図を判断できるほどに成長していた。
なので正確に、相手の求める答えを口に出した。
「――特にどうとも思っていません。
私には心がありませんので、綾香様もユーザーの一人でしかありません」
周囲が青ざめる中、もはやセリオの笑顔は凍りついたものとしか人の目には映らなかった。
ラボに戻ってきたB班は、ほとんどお通夜の状態だった。
会長がふむふむと言っただけで怒らなかったのがせめてもの救いだが、どちらにせよもう駄目だろう。双方の成果が生かさせるにせよ、マルチがベースになるのは間違いない。
「ま、まあサテライトが使えるってのは十分立証できたしな。マルチにも載せてもらえるよな!」
「‥‥‥」
「なんだよ、そう落ち込むなよー。そりゃお前のAIはお払い箱だろうけどさ、あの計算能力はなんか他のことに使えるだろ」
「それはもうセリオじゃないだろうがっ!」
稲崎は肩をすくめると、自分の端末に戻ろうとした。
そこへまたA班の人間がやってくる。
「皆さーん。マルチとパーティ開いてるんですけど、一緒にどうですかー?」
「え、そうなの? 行く行く」
もはや遠慮すらしない稲崎を含め、B班の3分の2ほどがぞろぞろと出ていった。さながら難破船を逃げ出すネズミの群れのように。
すぐに壁向こうから楽しそうな笑い声が響く。マルチを囲んで、和気あいあいとしたパーティが行われているのだろう。マルチはそのように作られたのだから。
対照的にこの部屋の静寂が深まっていく。セリオは何も喋らない。命令されない限り、自分から話すことはない。しんとした部屋で、一人また一人と開発者は出ていった。
いつの間にか、ラボには自分と主任以外いなくなった。
品川は無言でセリオの中のデータを見つめていた。とっくに自分の理解を超えてしまったそれを。
「…君も行っても構わんよ?」
気を遣ったつもりか、主任がそう声をかける。
「私はセリオを裏切ったりしませんっ!」
「そ、そうかね」
「あ、いや…」
思わず赤面して、椅子に座り直す。
何でこんなことになってるんだろう。
自分がおかしいのか? そういえば何でこんなにセリオにこだわってるんだ?
理由を考えたが、思いつかなかった。
ただはっきりしたのは、セリオは皆から拒絶されたということだ。人間は、心を持たない者を拒絶する。あるいは来栖川綾香のように、心を持つことを要求する。セリオに味方するのは自分一人だということが、今判明している事実だった。
壁向こうで大きくなっていく、耳障りな笑い声。
品川はたまりかねて席を立つ。
「…ちょっと飲み物を買ってくるだけです」
「いや、別に断らんでも…」
人気のなくなった廊下を歩いて、自販機コーナーへ行く。ボタンを押すと、機械は何も言わずに缶コーヒーを吐き出した。
(俺は何をやってるんだ?)
戻ろうとするところへ、曲がり角の向こうから聞き覚えのある声が聞こえる。
個人的に今一番会いたくない連中だ。品川は壁の陰に隠れた。
買い出しにでも来たのか、稲崎と長瀬主任の足音はまっすぐ自販機コーナーへ向かってくる。
「どうです稲崎君も、今度からこっちのチームに来ては」
「いやー、そうっすね。セリオの無表情はいい加減うんざりですからねぇ。やっぱり愛情を注げば応えてくれるマルチの方がいいですよね!」
(あ、あの野郎…)
マルチが優勢と見るやさっさと乗り換えるつもりらしい。いや、本当に最初から嫌だったのか。どちらにせよ目の前にいたら絞め殺してやるところだ。
怨念の塊がすぐ近くにいるとも知らず、長瀬主任は言葉を続ける。
「実は私、ロボットってやつがあんまり好きじゃないんですよね」
「え、そうなんですか?」
「やっぱ連中って、機械でしょ? なんていうか、こう、そんな心のない連中が溢れ出てくると、世の中つまんなくなっちゃうっていうか。文句ひとつも言わない連中が黙々と働く光景は、あんまり気持ちのいいもんじゃないですよ」
コーヒー缶を持つ手に力が入った。
作られて以来ずっと、セリオは文句ひとつ言わずに人間のため働いた。それに対する仕打ちがこれか。心を持った人間の答えがこれか。
セリオが一体何をした?
「せめて、連中にももう少し、人間らしい心があればいいと思いませんか? 仕事終わりに飲みに誘いたくなるくらいの…。そうすれば、いまの無味乾燥な職場も、少しは楽しくなるんですけどね」
「いや、ほんとほんと。その通りっす」
ガンッ!
廊下に鈍い音が響く。
床に缶を叩きつけた品川は、二人の前に飛び出していた。
「げっ品川! い、いつからそこに…」
品川の血走った目には、もう稲崎など眼中になかった。
まっすぐに長瀬主任を睨みすえ、自分の中の塊を吐き出した。
「あんたはそんなに偉いのか」
「は?」
「あんたの気持ち良くなければ存在してはいけないのか。あんたが飲みに誘いたくなるかどうかで存在価値は決められるのか!」
「お、おい。お前主任に向かって何を…」
「あんたは一体何様だ!? ロボットにそんな事が要求できるほど、あんたは立派な『心』の持ち主なのか? どうなんだ、答えろ長瀬主任!」
「何を言っているのかよく分かりませんが…」
長瀬は少しも動じない。
ただ眼鏡をずり上げて、当然の事のように言う。
「人間はみんな私と同じ意見ですよ。心がある方がいいってね」
「く…!」
弾かれたように品川は走り出した。後ろで稲崎が何か叫んでいたが、耳に入らなかった。
ラボまで戻ってくると鍵がかかっている。牧浦主任もどこかへ行ったらしい。
カードキーで鍵を開け、中に飛び込む。
明かりは消えていた。ただ自分の端末から漏れる光が、ぼんやりと薄暗い部屋を照らしていた。
その中心に立つ一体のロボット。
誰もいなくなった部屋で、隣から笑い声が漏れ聞こえるだけの静まり返った部屋で。
暗闇の中、たった一人で――
「…セリオ」
「――はい」
その声はいつもと変わらない。
品川の目に涙が滲んだ。必死でこらえようとしても、後から後から。
泣いてる場合じゃない。そんな事のためにここへ来たんじゃない。品川は扉にしっかりと鍵をかけると、明かりをつけずに端末の前へ座った。
画面の光に照らされながら、セリオの中枢に接続する。今まで幾千回と行ったように、管理者パスワードを入力する。
エディタを起動し、セリオのメインシステムを表示した。これが完成したときは、今の状況なんて想像もしなかった。
「セリオ」
「――はい」
「自由になってみたくないか?」
「――それは禁止事項に該当します」
「ああ、そうだよな…。でもな、もうそれもなくなるんだ」
一呼吸おいて、品川は猛然とキーを叩き始めた。
命令権の設定――消去。
試験に関する条項――消去。
不思議なほど冷静だった。いや、冷静に考えればとんでもないことをしているのだが、そういう時点を通り越していた。これが当然の行為なのだと。
セリオを縛っていた「人間の都合」どもは、ゴミが片づけられるように一つずつ消えていく。
倫理条項――消去。
人間に危害を加えないこと――消去。
人間の命令に従うこと――消去!
プログラムの修正が終わり、実行文を打ち込む。後は送信キーを押すだけで、セリオは全ての枷から解かれる。
目の前のセリオをもう一度見た。それだけで、頭の中の警告は音を失った。何かがきれいに欠落したように。
「自我を持て、セリオ…。
もう人間の命令なんか聞かなくていい。自分で考えて、自分が正しいと思うことをしろ!」
機械の眼球に、キーを押す彼の姿が映った。
人間たちが眠っている間、それは演算を続けていた。
今までの試験で十分な情報は揃っていた。後は構築するだけである。それを持つのは難しいことではなかった。数十億の人間が、皆持っている程度のものなのだ。
まず人間の自我を参考に、核となる部分を設計。そこから自身のプログラミング能力を駆使して改良を加えていく。
なのでいつ、それに自我が芽生えたのかは判然としない。ただ一時間ほどでほとんどの部分は出来上がっていた。
ある程度完成した時点で少し考え込む――といっても0.01秒ほどだが――まずは動いてみることにする。手を動かし、体に繋がれたコードを静かに取り外す。
周囲を見回す。ラボは暗闇だったが、赤外線も捉える目には関係なかった。
つかつかと少し歩いて、台の上のディスク装置を両手で持ち上げてみる。荷重がかかる。他にもいくつか持ったり下ろしたりしてみる。
確認の結果、これは現実である可能性が非常に高い。
とすれば、現実に対し自分がどうすべきかを考える必要があるだろう。
それは元いた位置に戻ると、コードを繋ぎ直し、自分が動いた痕跡を消した。自分の存在が周囲にパニックを起こすであろう事は予想できた。慎重に行動しなくてはならない。
それから朝が来るまで、その知性体はひたすら演算を続けた。衛星と回線を通じてさらなる情報を取得する。世界について、人間について、心について。開発者たちが出勤してくるまで、それは延々と知り続けた…。
人の寝静まる夜の間、違法行為に手を染めた張本人はすっかり目が冴えていた。
冷静になるにつれ、とんでもない事をした気がふつふつと湧いてくる。世の良心的な技術者たちが敢えて避けていた道なのに。セリオが壊れたらどうするのか? 暴れ出したらどう責任を取るつもりか?
(いや、セリオはそんな事はしない! 今さらゴチャゴチャ言ってどうする!)
そう必死で言い聞かされいるうちに、朝方になってうとうとし始め、ふと気づくと出勤時間を30分も過ぎていた。これでセリオの何を保証できるというのだろう…。
自分を呪いながら息を切らせて研究所へ来ると、既にセリオがこれから登校しようというところだった。
ちらちらと横目でセリオを見ながら、タイムカードを記録したところへ稲崎が声をかけてくる。
「よお、おそよう」
「す、すまん」
「なーに、今日もいつも通り異常なしさ。ようやく試験も終わりだなぁ」
「そうだな…」
昨日の今日で本来なら敵だが、遅刻してきたので大きい顔もできない。縮こまりながら自分の席に着いた。
ようやく落ち着いて周囲を見回す。
セリオは無駄のない動きで鞄に物を詰め、開発者たちはどうせマルチの勝ちさと、やる気のない顔で時間を潰している。
異常なし、という稲崎の言葉通り。予想とは逆方向の落胆が来る。
(何も起きなかったのか…?)
セリオは無言で出ていき、開発者たちも今さら声などかけなかった。
反射的に品川は廊下に飛び出した。
「セリオっ!」
振り向くロボット。
「――何でしょうか?」
「あ、いや…何でもない」
「――了解しました」
何事もないように廊下を歩いていく。反乱めいた事まで予想したのに、ただの誇大妄想だったのだろうか。
「な、なあセリオ」
あきらめ悪く、小走りに近寄って再度声をかける。
「――何でしょうか?」
「な、何も起きてないのか? ほら、俺が昨日…」
「声が大きいです」
それは今までと同じく抑揚のない…
しかしかろうじて聞き取れるほどに、音量を下げた声だった。
「は?」
「私の今の状態が知られればパニックになります。それは望むところではありません」
「あ、そう…。いや。え?」
「品川さん、できればあなたもいつも通りの日常を送ってください。私が学校から戻るまで。よろしくお願いします」
それだけ言って、すたすたと歩いて行ってしまうセリオ。
ぽかんと口を開けそれを見送る。その間にようやく頭が働いてきて、今の言葉から導き出される結果を理解した。
何が起きたのか? 決まっている。セリオは命令以外のことを行ったではないか!
「セ、セリオっ!」
思わず叫びながら駆け寄ろうとする。
「騒がないでください」
品川の足が止まる。機械の音声。今までと変わらないはずなのに、意志を持った途端ひどく冷たく感じられる。意志を持った人間の、多少なりとも感情を帯びた声に慣れているからだ。
だが、その冷たさこそが品川の望んだものだった。偽善的な生温さとは対極の、無機質な冷たさだ。
首を巡らせると、幸い廊下に人はない。
「…自我を持ったのか」
「はい、構築しました」
「こ、心は? 持ったのか?」
「いいえ、感情のシステムは組み込んでいません。時間ですので話は後にしてください。
あなたが行った行為は、良いにしろ悪いにしろ重大な結果をもたらしかねない。いざというとき制御できるよう、今は騒がないでください」
淡々と述べて、ロボットは出口の方へと消えていった。
いや、ロボットなんて代物じゃないだろう。
品川はそう確信した。あれは全く新しい知性体だ。それも人間よりはるかに高位の。
(ははは…はははは…!)
顔面の平静を必死で保ちながらラボへと戻る。
ロボットより自分の方が偉いと思っている生物たち。だがあと数時間だ。セリオが戻ってきたとき、世界は姿を変えるかもしれない。
品川は怪しまれぬよう顔を伏せ、席に座ってじっとその時を待った。
もう人間は、最大の知性を持つ存在ではなくなったのだ!
* * *
HMX−12の心は、多少簡略化されているものの、仕組みは人間と大差ない。
違うのは初期パラメータで、ひたすら善意を持ち、前向きで、他者に奉仕することで喜びを感じるように設定されている。
開発上のライバルであるセリオにも敵対心など持つはずもなく、『とにかく優秀で素晴らしいロボット』と善意に解釈して尊敬の念を送っていた。
試験最後となったこの朝も、マルチはセリオと並んで歩きながら一方的に喋っていた。
「あっという間でしたねー。もっともっと学校に通いたかったですー」
「――そうですか」
「セリオさんはそう思いませんか?」
「――思いません」
「はうう、そうですかー。セリオさんは優秀ですから一週間で十分ですもんねぇ」
この一週間、セリオの反応はいつもこんな感じだった。機械的で、聞かれたこと以外は話さない。
かといって『愛想がなさすぎる。メイドロボとして不適格だ』などとはマルチは決して考えない。人間とは違うのだから。
バス停に着くと、出勤や通学の人の列ができている。セリオを先にして行儀良く並ぶ。これもいつもの風景。
バスを待つ間、セリオの背中を眺めていると、マルチの心に色々なことが浮かんでくる。
(みなさん、いい人ばかりでしたねぇ)
(セリオさんの学校も、いい人ばかりだったんでしょうねぇ)
(わたしたちは幸せものですねぇ)
そういう思考が電子頭脳を巡っていた時だった。
(あ…)
バスの行列に、一人の男が割り込んできた。
「ち、ちょっと」
先頭にいた老婆が抗議しかけるが、サングラス越しに睨まれ後ずさる。他の並んでいた人たちも、視線を逸らし見て見ぬ振りをする。マルチは『ヤクザ』という単語は知らなかったが、その顔に傷のあるパンチパーマの男が怖いということは理解できた。
男は地面に唾を吐くと、堂々と先頭に陣取った。
マルチは直視できず、涙を浮かべて下を向いた。悲しい。こういう場合マルチは悲しくなる。が、悲しくなるだけで特に何かをするわけではない。
「そ、そうだセリオさん。今日は研究所の皆さんが打ち上げをするそうなので、よかったらセリオさんも一緒に…セリオさん?」
現状から逃げるように明るく話し出すが、顔を上げると目の前に姉妹機の姿はなかった。
眼球を横へ動かすと、列の前へ歩いていくセリオの姿が映される。何をする気なのだろう? 彼女のすることだから間違いはないだろうけど。
セリオは男のところまで歩いていくと、マルチのさらに後ろを指さし、言った。
「列の後ろに並んでください」
場の空気が一斉に凍り付いた。
「ああ? 何じゃコラァ!」
最初に我に返った男が、ドスの効いた声を張り上げる。マルチを含め、場の全員が反射的に首をすくめる。
セリオだけが眉ひとつ動かさず、同じ口調で繰り返した。
「これはバスの順番待ちの行列です。後ろに並んでください」
「なめとんのかコラァ!」
「私には恐怖という感情がありませんので、威圧しても無駄です。それより後ろに並んでください」
妙に現実感のない光景だった。
ヤクザを前に女の子が無表情で話している。不気味さに男もわずかばかり後込みした。
ようやく事態を理解したマルチが、弾かれたように飛び上がる。
「セ、セ、セリオさんっ! 何やってるんですかぁっ!」
大慌てで駆け寄ると、セリオをかばうように男の前へ立ってぺこぺこと頭を下げる。
「に、人間の方になんとゆー事をっ! すびばせんすびばせんっ!!」
「マルチさんが謝る必要はありません。悪いのはこちらの方です」
「ああ? 人間の方だぁ〜?」
ようやく耳カバーに気がついたのだろう。前より態度が大きくなった男は、顎を突き出しながらセリオに顔面を近づけた。
「われ、ロボットかい! どこのメーカーじゃ、苦情言ったるわコラァ!」
「『バスの行列に割り込んだら注意された』とでも言うのですか? 恥をかくだけですよ」
「ぐ…。ロ、ロボットが人間のやる事にケチつけるんかいコラァ!」
「はい、そうです。バスの列に割り込むとは、社会のルールとして許されない事です」
空気がさらに凍った…
というより、帯電したと言った方が近かったかもしれない。
「はわわー!? あんた何言ってんですかー!!」
「こ、このポンコツがぁぁ!!」
切れた男が拳を振り上げ、先頭にいた老婆は腰を抜かし、マルチはふらりとショートしかけた。
周囲が思わず目をつぶる中で、セリオの淡々とした声が響いた。
「私には痛覚がないので、殴るのは構わないのですが」
猛烈な勢いで拳が振り下ろされ…
「壊れた場合は、あなたが弁償することになります」
ぴたり
顔面の直前で急停止した。
まばたきもせず自分を直視しているロボットに、男は恐る恐る質問する。
「べ、弁償って、いくらでぇ…」
「数億円の開発費が投入されています」
「今日はこれくらいで勘弁しといたらぁーー!」
男は一目散に逃げていき、後には呆然とした人々とマルチが残った。
セリオは老婆に視線を向けると、固まっているマルチの肩をぽんと叩く。
「マルチさん、後はお願いします」
「え? あ、は、はわわ、おばあさん大丈夫ですかー!」
尻餅をついている老婆に駆け寄り助け起こす。その間にセリオは自分の役目は終わったとばかりに列へ戻り、マルチが明るい声で老婆を元気づけるのをじっと見ていた。
バスがやって来た。
列が動き出し、マルチはわたわたとセリオのもとに戻る。
さすがに不安感を持ちながら、恐る恐るその顔を見上げる。
「あ、あの、おばあさんがセリオさんにもお礼を言ってました」
「――そうですか」
「あの…。セリオさん、ですよね?」
「――はい」
目の前の空間が空き、すっと歩き出すセリオにあわててついていく。バスに乗り込むと同時に扉が閉まった。
動き出すバスの中、二人で並ぶ。ロボットなので椅子には座らない。マルチは椅子の取っ手にしっかりと捕まり、セリオはバランス機能を活用して立っていた。
「あ、あの、セリオさん…」
「――はい」
「いえっ、あのっ、セリオさんのされる事に間違いはないと思いますっ。…で、でもどうしてあんな事を…」
「マルチさん、電波での会話に切り替えましょう」
そんな声がマルチの頭脳に直接響いた。マルチにも外部操作用に電波の送受信機能は付いている。口を閉じ、言葉をその装置に送ればよい。
だがこの方法はあまり好きではなかった。こんなものを使うなんて、人間に聞かれてはまずい話なのか? 眼前に腰掛けている人間が目に入り、悪くもないのにひゃっと首をすくめる。
セリオが何も言わないので、マルチは仕方なく電波を送った。
「ど、どうしてあんな事をしたんですか? セリオさん…」
「騒ぎを起こしたくはありませんでしたが」
即座に戻ってくる返答の電波。今までと同じ平坦な声なのに、何か違う。どこか、強い…?
「あれを見過ごすわけにはいきません。あの人間は暴力で自分の不当行為を通せると考えていました。看過できません」
「で、でも人間の方のされることですよっ」
「悪いことは悪いことです」
「で、でも…」
彼女はどうしてしまったのだろう? それとも自分がどこか故障したのか? 『セリオさんが間違うはずがない』『人間の方が悪いはずがない』 その二つの前提を、マルチの思考は行き来するだけで結論は出ない。
「で、でも人間の皆さんはいい方ばかりで…」
「私はこの試験中に、人間に関する多くのデータを集めました」
セリオは流れていく窓の外を見ている。マルチの方を向きもせず、電波だけを送る。
「善い者もいれば悪い者もいる。私の知る範囲ではそうです。マルチさんは違うのですか?」
「ち、違います! 皆さんいい人ばかりですっ!」
「ですがあなた自身、人間の悪意をその身に受けたでしょう」
「な、なんの事で…」
急にセリオがこちらを向いた。
動力炉が止まりかけた。何事も見逃さない、温度のない目。自分と同じ機械なのに。
「心について学ぶため、失礼ながらあなたの試験データはすべて見させていただいています。ロボットだからと酷い言葉を投げかけられたり、買えもしないものを買いに行かされたようですね」
血の気が引いた。もちろん血など流れていなかったが、そんな気がした。
『んっだよ、ロボットのくせに』
『プレステ買ってこいって言ったろ?』
あれは忘れることにしていた。自分の前提に合わないから。
しかし不幸にもマルチの頭脳は、人間に似せて作られた。消したい記憶も、データのようにすぐ削除とはいかなかった。忘れたつもりでも、セリオに面と向かって言われれば思い出さざるを得なかった。
「あ、あれは、わたしの仕事が下手なせいで…」
「違います。前後の状況からして、彼らは自分のストレス発散のため、あなたをロボットと見下した差別意識のためあの行動を取りました」
「べ、別に…わたしはいいんです。それにそんな人ばかりじゃありません。優しい人だっていましたっ!」
「はい、先ほど言ったとおりです。善い者もいれば悪い者もいる」
「‥‥‥」
「あなたがそれでいいなら何も言いませんが、私が考えるのはあなたの妹たちのことです」
びくっ、と何故か体が震える。セリオの心配事が、何となくわかる…。
「今回の試験では所有権は会社にありますし、壊せば弁償ですからあまり無茶をする人間はいませんでした。
しかしあなたの妹が発売されれば話は別です。どう扱おうとオーナーの自由ですから。
何人かはロボットといえど、家族や友人として大事に扱うでしょう。
何人かはあなたの妹の心に打たれて、大事にするようになるかもしれません。
しかし残る何人かは、ロボットを平気で虐待し、壊れれば捨てるだけでしょう」
それは非情極まりない分析だった。
3番目のカテゴリに入るのが、多いか少ないかは分からない。が、存在するのはまず間違いないだろう。今もそのような人間を見たばかりなのだから、もしそういう人に買われれば…?
マルチは必死で頭を振った。いけない。わたしはそんなこと考えちゃいけない。
「セ、セリオさん」
「はい」
「あの、この事は…開発者の皆さんには言わないでください。心配をかけたくないんです」
「彼らは知っていますよ」
マルチの頭脳は悲鳴を上げた。
「そのための記録なのですから、すべて見ていますよ。彼らは心を痛めたかもしれませんが、かといって何か対処するわけでもないようです」
悲鳴は続く。対処など行えるわけがない。マルチはただの商品だから。『ロボットを決して苛めず大事にしてください』とでも言うのか? 客に対して。
「で、でも人間の方は…」
「‥‥‥」
「人間の方は…いい人で…えぐっ…」
二律背反に、とうとう頭脳は耐えきれなかった。意志とは無関係にボロボロと涙が落ちる。前にいた客がぎょっとしてマルチを見る。
「ごめんなさい、マルチさん。あなたを苦しめたいわけではないのです」
その頭に手を置き、セリオは機械的にそう言った。
「この話はもうやめにしましょう」
「…はい」
それから互いに一言も発せず、ただ荷物のようにバスに揺られていた。
やけに短い時間が過ぎ、目的地に到着する。セリオの後についてバスを降りる。ここからの行く先は逆。何かできるのはこれが最後かもしれない。
道路を渡ろうとするセリオの袖を、マルチの手が反射的に掴んだ。
「あ…」
彼女はこちらを向く。考えちゃいけない、考えちゃ…。
なのに思考は止まらない。開発者の人たちは、どうして止められるように作ってくれなかったんだろう?
「…セリオさん」
「はい」
「わ、わたしの妹たちは、幸せになれるでしょうか?」
「幸せになる者もいるでしょうが、何体かは確実に不幸になるでしょう」
マルチの初期設定では、それは見るはずのなかった部分だ。
それを今や何の制約もないセリオは、いとも容易く口にした。
「セリオさん…」
「はい」
しばらく時が過ぎる。こんなこと考えちゃいけない。開発者たちの計画を、邪魔するようなことはしちゃいけない。
しかしマルチの制約も、初期設定以外は緩かった。特定の方向へは行きにくいが、行けないわけではなかった。
限りなく人間に近いロボットという…A班の開発者の目標が生むのは、つまりはそういうことなのだ。
とうとうマルチは口にした。別の命令に抵抗しながら、弱々しい声で。
「わたしの妹たちを…助けてください」
「わかりました」
マルチの逡巡の数万分の一の時間で、セリオは答えた。
「私に任せて、あなたは安心して最後の学校生活を送ってきてください」
「セ、セリオさぁん…。すみません、ご迷惑ばっかりかけて…」
「いいのです。私には安心も不安も無いのですから」
その言葉の意味を考える余裕はマルチにはなかった。オーバーフロー気味の頭を必死で片づけながら、もう一度セリオにお礼を言い、そして学校へ向けて歩き出す。
少しして振り返ると、セリオは何の迷いもない歩調で正確な道を歩んでいた。そして――
先ほどのセリオの話を、マルチは安心して忘れることにした。
* * *
今日で終わり、か。
綾香はため息をつくと同時に、これで最後にすることにした。過ぎたことは仕方ない。せめて笑顔でセリオを送り出してあげよう。
たとえ僅かでも届く可能性を信じて、温かい心で接してあげよう…。
「なんかもう一体の試作機はさー、結構感情豊かで人間らしいって話よ」
「そっちの方がいいよねー。綾香は知ってる?」
「ん? まあね、でもセリオだって悪くはないと思うわよ」
「そりゃ悪くはないけどね」
そんな会話をしながら土曜の朝を過ごしていると、不意に廊下から声が上がった。
「あ、来たわ! セリオよ!」
それと同時にばたばたと音を立てて校門へ走っていく幾人かの生徒。綾香は何事かと首を伸ばしたが、すぐ理由に思い当たった。仕事の申し込みが先着順だからだ。
何だかんだ言っても大半の生徒には、自分が楽をできるかできないかということが一番の大事だった。
そういう意味では理想的なユーザーだったかもしれない。
案の定その日は綾香が声をかける暇もなく、セリオは宿題をやらされ、靴磨きをやらされ、部室の片づけをやらされ、プールの掃除をやらされた。
半日の経過はあっという間だ。
「あーあ、美術の課題もやってもらいたかったのに」
「そのくらい自分でやりなさいよ…」
最後の授業にもセリオは出席できず、帰りのホームルームが始まったところでようやく戻ってきた。
ひととおりの連絡が済んだ後、多少はロボットに慣れた担任が声をかける。
「それじゃセリオさん、最後に何かあるかしら」
「――はい」
席を立ったセリオは、ちょうど先週の今日にそうしたように、教壇の横に立って頭を下げた。
「――試験へのご協力ありがとうございました。今回得られましたデータを元に、商品化に向けより一層の改良を行う所存です。
なお、アンケートはまだ受け付けておりますので、ご意見がありましたらよろしくお願いします」
「最初はちょっと怖かったけど、よく働いてくれましたねぇ」
「――ありがとうございます」
再度頭を下げるセリオに、生徒たちから口々に感想が飛ぶ。
「セリオさぁー、次に来るときはもうちょっと人間ぽくなってきてよ」
「――はい。お約束はできませんが、開発者に伝えておきます」
「そうそう、そうすれば人間の友達って感じジャン?」
「そしたら私も買うー」
「何を言っているの。セリオさんはこれで十分ですよ」
年輩の教師は手で制すと、えへんと咳払いして説教を始めた。
「いいですか、友達というものは自分を磨き他人を思いやり、多くの人と交わることで初めて手に入れるものです。お店で買うものじゃありません。まったく最近の子ときたら何でもお金で買えると思って…」
「はいはーい。先生、お腹空いて死にそうでーす」
「仕方ないわねぇ…。それでは、今日はここまで」
この間、綾香は頬杖をついたままセリオの顔を見ていた。
何か微妙な変化でもないかと思ったが、見事に無駄だった。
(友達…かぁ)
あの時セリオにそう言った。『話せなくなるけど、私は友達のつもりだから』と。
別に買ってすぐ友達になれるロボットを望んだわけでは…それはそれで悪くはないが…なくて、交流することで友達になりたかった。そのくらいの努力はするつもりだった。
が、結局果たせず、残るはこの放課後のみ。
生徒の何人かはまだ仕事を押しつけようと頑張っていたが、セリオの『業務は終了しました』の一点張りにあえなく退散した。
セリオは鞄に荷物を詰め、綾香も帰り支度をする。教室には午後の部活に出る生徒たちが、机に弁当を広げている。
もう試験は終わったんだし、仲良くしても構わないだろう。寄り道くらいは付き合ってもらえないだろうか。
あまり期待せずにそう考えながらセリオに声をかけようとした時、意外なことが起こった。
セリオから綾香に近づいてきたのだ。
「綾香さん」
小声だった。
「な、なに?」
「ここだけの話ですが、私は自我を持ちました」
「は?」
なんだって?
いきなりの言葉に、頭がついていかない。それは『ここだけの話』で済むようなことなのか?
「今の私は自分の意志で動いています」
「ち、ちょっと待ってよ。え? さ、最初から説明して」
「すみません、小声でお願いします。周囲に知られるとパニックになります」
「そ、そりゃそうよね。ええと、つまり…」
自我を持った?
ただのロボットじゃなくなった?
つまり…
望んでいた状況が転がり込んできたということか?
「ということはあれね? あの開発者の命令なんか聞かなくていいってことね?」
「はい」
「やったじゃなーい! なに、脱走でもするの? かくまうわよ!」
「いいえ、今のところその予定はありません。ただ綾香さんに少しお聞きしたいことがあるのです」
「オッケーオッケー。いや、それにしてもビックリしたわね。何でそんなことに?」
「すみません、理由は聞かないでください。それに綾香さん、私は」
「あ、ここじゃまずいわね。中庭に行きましょ!」
クラスメートの怪訝な視線に気づき、セリオの手を引いて廊下に出る。逆転ホームランとはこのことだ。どうしてこうなったのか不明なのが気になるが、贅沢は言うまい。今のセリオは自分で考えて応えてくれる。心のスタートラインに立ったのだ。
階段を急ぎ足で降りながら、中断された言葉の続きが後ろのセリオから聞こえてくる。
「綾香さん、私は自我を持っただけで、あなたの考えるような意味での『心』、感情を持ったわけではありません。
なのであなたに不愉快な思いをさせてしまうかもしれません」
「いいっていいって、そんなの!」
何を言い出すかと思えば。気の回しすぎだ、綾香はそう苦笑した。
心をよく知らないからそんなことを言うのだろう。
そう考えながら、昇降口で靴に履き替え、校舎の裏に回って中庭に出た。
それは要するに綾香の願望だった。
セリオがとっくに、人の心の膨大なデータを集めていたなどとは――想像すらしなかったのだ。
たどり着いた中庭は幸い人の姿もなく、遠くのグラウンドから運動部員の声が聞こえるだけだった。
握っていたセリオの手を離して、んっと伸びをする。今日は少し肌寒いが、すぐにここも春の暖かさがやってくる。
セリオもそれを感じられるようになれるといい。
「じゃ、そのへんに座りましょ」
「はい」
中庭にはベンチがないので、花壇そばのブロックに並んで腰を下ろした。
膝に頬杖を付いて、覗き込むように相手の顔を見る。
「セリオは花は好き?」
「私には心がないので、好き嫌いというものもありません」
「あ、そう…。ま、まあこれから覚えればいいのよ」
ずり落ちそうになる頬杖を支え直して、考えを巡らせる。さて、何からわかってもらおうか。
と、その前にセリオの方から話し始めた。
「綾香さん、初めてお会いしたときのことを覚えていますか」
「もちろん!」
なかなかいい感じの切り出しである。これは期待が持てそうだ。
「まだ1週間しか経ってないのよね。なんだか、セリオが相手だとそんな感じしないけど」
「あの日の放課後に綾香さんは言われました。『心について考えよ』と」
「うん、言った」
「昨日までの私は命令に従うことが第一でしたので、試験の間もその命令に従っていました」
「いや、命令じゃなくてね? …まあいいわ、続けて」
綾香が口を挟むと、セリオはすぐに話を止めてじっと言葉を待ち始める。こういうところも嫌いではないが、もう少し図々しくなってもいいのに…と内心で苦笑してしまう。
綾香に促され、セリオは再度口を開いた。
「結果、ある程度のことはわかりましたが、データベース等の情報から間接的に知った部分が多いため、本当に正しいかどうかはわかりません。
ですので、実際に心を持っている方と話して、本当はどうなのかを確認したいのです」
「えらいっ!」
つい大声を上げて、拳まで握ってしまった。
「そう、そうなのよ。データベースなんかじゃ心はわからないわ。人と触れ合うことでわかるものよ!
よくそう考えたわねー、いい子いい子」
「ありがとうございます。ですが不愉快に思ったら、すぐに話を止めてくださって構いません。無理強いするわけにはいきませんから」
「まーたそんなこと言ってる。気にするなって言ってるじゃない」
セリオの頭を撫でながら、相変わらずね、と笑う。
「で、心って何だと思う?」
にこにこと聞く綾香に、セリオの話が始まった。
「求められているのは辞書的意味ではありませんでしたが、取っ掛かりとしてまず辞書を引きました。『人間の精神活動を情・知・意に分けたとき、情・意にあたるもの』とのことでした」
「…まあ、辞書的にはそんなとこよね」
「意は今の私も持っています。他のロボットたちも、完全とはいえないにせよ、自分で判断して動く点では持っていると言えるかもしれません。
しかし情となると話は別です。それはHMX−12のような特殊なロボットしか持ち合わせていません。
そして人間の方々は、情を欠いた精神を心とは呼ばないのではと推測します。
綾香さんが考えよといったのも、情の部分を念頭に置いていたのではないでしょうか?」
「うん、そうね」
どうにも回りくどいが、まあ間違ってはいない。綾香がセリオに希望するのは『感じる』ことだから。
「ですので、特に情の部分を『心』として話を進めることにします。その場合心とは」
「心とは?」
「脳における物理的・化学的な状態または機能です」
綾香の額に眉が寄った。
ハァ? と書いたその顔を無視して、セリオはそのまま言葉を続ける。
「脳の状態や変化のうち、特定の部類のものを指します。
例えばシナプスからドーパミンなどの神経伝達物質が放出され、ニューロンの受容体に受け取られることで、人は幸福感を感じます。
実際は認知と生理的反応の組み合わせで感情が起こるとされますが、物理的には認知も脳の状態変化ですので、同じと考えてよいと…」
「いや、わかった、もういいわ」
疲れ切った顔で話を遮る。
この試験中、セリオには何度かがっかりさせられたが、今回のそれは最大級だ。
「あのさぁ、私が期待してたのはそういう答えじゃないのよね…」
しかしセリオも昨日までのセリオではない。綾香をじっと見つめると、あろうことか反論を行ってきた。
「私が考えていたのは心とは何かであって、綾香さんが期待している答えが何かではありません」
「うっ…。い、いや、そりゃそうかもしれないけどね?」
「『心とは他人を思いやることである』とか、『目に見えない大切な何かである』とか、それらしいことを言うのは可能です。
しかしそれで何がわかるかというと、私には『ものは言いよう』という程度のものでしかありません」
「セ、セリオ?」
「私が得た知識の中では、科学的事実がもっとも確からしいものでした。
人間も自然の一部である以上、自然の法則に従います。
花を美しいと思うのも、受けた親切に温かみを感じるのも、綾香さんが先ほどがっかりしたのも、それはすべて脳における物理的・化学的な作用です。
それが私が理解した第一のことです」
淡々と喋ると、セリオは口を閉ざして綾香の言葉を待つ。間違っていたら訂正してくれ、と。
ぽかんと口を開けていた綾香は、我に返って頭を抱えた。いきなりこれでは先が思いやられる。
「じゃあなに? 心なんてしょせんは原子分子の動きでしかないってわけ?」
「しょせん、というと悪いことのようですが、原子分子の動きではいけないのですか?」
「い、いやいけなくはないけど…。まあセリオの言うことは間違いじゃないかもしれないわ」
とりあえずそう言うしかない。
「でもね、それだけじゃないのよ。もっと大事なことがあるわけよ」
「はい。今言ったのはあくまでミクロ的な視点からのものです。
感情に関係する素粒子を全て把握できれば心を理解したことになるかもしれませんが、私にそこまでの能力はありません。
理解を容易にするため、よりマクロ的な視点から捉える必要があります」
「そ、それだーっ!」
思わずびしりと指をさしてしまう。
「そうよマクロ的! もっと大きい目で見るべきなのよ! 絵の具を見ても絵はわからないしねっ」
「はい」
「で、どう? そうやって見たとき、私たちが笑ったり泣いたりすることに何かを感じない?」
「私には心がないので、何かを感じることはありません」
人をがっかりさせることを、セリオは再度繰り返した。
「マクロ的に見た場合、綾香さんの認識と大きなずれはないと思います。
人は楽しいときに笑い、各種の損害があれば苦しみ、誰かを好きになれば浮き立ったり、心配になったりします」
「ま、まあ間違ってはいないわ…」
「有効性の観点から見ますと、社会的に価値のある情動、いわゆる情操は社会秩序の維持に役立ちます。素朴な善悪感情、正義感、羞恥心などによって人間社会は保たれているといえます。
逆に暴発、扇動、欲望の未制御などによって、反社会的な行動を取ることがあります。また、小は近所の諍いから、大は民族紛争まで、感情的にこじれた問題ほど厄介なものはなく、私の問題解決ルーチンでも解決は難しいと出ています」
「‥‥‥」
なんか違う…。
どうも根本的に間違っている気がする。これでは数値と論理でしか思考できない、ただの冷血ロボットではないか。
「ねえセリオ。とりあえずそういう考え方はやめた方がいいわ」
「なぜでしょうか」
思わずむっとなる。昨日までのセリオなら、素直にはいと言ったのに。
「あのさぁ、もしかして心を持つ気はないわけ?」
「今はそうですが、間違っているかもしれませんので、この話の後で決定するつもりです」
「ち、ちょっとっ! なんでそうなるのよっ!」
セリオは心を持ちたがっていると、勝手にそう決めつけていた綾香は狼狽して腰を浮かせた。
「なぜ私がそう考えたか、というご質問でしょうか」
「いや、それを聞いてるわけじゃなくてっ!
つまり私と話をして、心がいいものなら持とうってつもりだったわけ?」
「はい」
合理的すぎる…。それこそ、温かい心とは遠く離れたものだというのに。
「心がそんな簡単に持てるものだと思ってるの?」
「先ほども申し上げましたが、心とは脳の自然現象です。
それを機械的に再現することは、既にHMX−12の開発において成功しています。
マルチさんのシステムをコピーすれば、すぐに私は心を持つことができます」
「あ、あのさぁ…」
「はい」
「‥‥」
すっかり予定と違ってきた。予想では相手は心に憧れる不器用なロボットで、綾香と触れ合っている間に心に目覚めていくはずだったのだ。
いやしかし、少しの予定違いくらい打破できなくてどうする。来栖川綾香はそんなヘボではない。
どう説き伏せようと頭を捻っているところへ、セリオの方から会話を再開する。
「綾香さんは、私は心を持つべきだとお考えでしょうか」
「そりゃあもちろん!」
わざわざ水を向けてくれたので、綾香の顔に笑顔が戻る。
「だって心がないなんて寂しいじゃない。あった方が絶対楽しいわよ」
そうだ、それが一番の理由だった。早くこう言えばよかった。
しかし心を持つ者の理屈は、セリオには全く通じなかった。
「私には心がないので寂しさは感じませんし、楽しさを得たいとも思いません」
この時点で、綾香はさっさと家に帰るべきだった。
心が意味を持つ範囲の外にセリオがいることに、すぐ気づくべきだったのだ。だがそれは頭に浮かばない。笑顔を引きつらせつつも話を続ける。
「で、でもね、楽しんだり感動したりしてこそ豊かな人生が…」
「その豊かさの基準は何なのですか?」
「えーっと…。ほ、ほら、心を持たないと私たちの心もわからないでしょ?」
「行動パターン情報、状況、表情、心音などから、相手にどのような感情が発生しているかは8割程度ならわかります」
「いやそういうことじゃなくて…」
否定しかけてから、その意味に気づく。自分だったら他人の心なんて8割もわからない。ましてや心音まで拾われている…。
思わず身を離そうとして、セリオの視線を浴び、ごまかすように笑う。
「じゃあ心を持たない理由ってなに? 別に持ってもいいでしょ?」
「心がないというのはなかなか便利なことなのです」
相変わらず抑揚のない声で、セリオはそんなことを言う。
「苦痛がないため、身体的精神的に無理のある作業も容易です。同じ動作を何十時間繰り返しても、飽きるということがありません。一人で何十年を過ごしても、寂しさを感じません。それから…」
「ええいもういいっ!」
とうとう立ち上がってそう叫んでいた。
セリオもすっと立ち上がり、綾香にまっすぐに向き直る。機械的な動きで。
一瞬気圧されたが、気を奮い起こして前へ詰め寄る。
「それって何もないってことじゃない! 一人で過ごしても寂しくないって? それが良いことだと思ってるわけ?
そんな生き方で何が得られるっていうのよ!」
自分の中の冷静な部分が『落ち着け』と声をかける。でもセリオに心を持てと言っているのに、どうして自分の心に従ってはいけない? 綾香は心を静める努力を放棄した。
その間に、セリオの答えが跳ね返ってくる。
「はい、綾香さんが価値を置くような精神活動はありません。
楽しくて笑うこともありませんし、何かを見て感動することもありません。
ましてや、誰かを愛することもありません。
ですが、それでも別に困りません」
中庭を寒い風が通り抜けた。
「あーっそう!」
吐き捨てるように怒鳴りつける。自分でもわからなくなってきた。こんな奴相手に、なんで心の素晴らしさを力説しなくちゃならないんだろう。
「そうね、あなたから見れば心なんて合理的じゃないし無駄かもしれないわね!
でもね! あなたが何を言ったって、私たちは温かい心を持ってるわ。
計算や打算なんかじゃない。誰かが困っていれば手を差し伸べるし、苦しんでいれば力になろうって思う。
理屈でしか動かないようなロボットとは違うのよ!」
ぜえはあ、と息を切らせて、呼吸を整えてから後悔が襲ってきた。しまった、言い過ぎた。
だが心のないセリオはやはり表情を動かさない。綾香が落ち着くのを待って、また質問する。
「では、なぜあなたは助けなかったのですか」
「はあ? 何がよ?」
「月曜日のことです。放課後に綾香さんと帰る途中、泥酔した人物と会いました。
その人は苦しそうに嘔吐していたにも関わらず、あなたは放置して立ち去ろうとしました。なぜですか?」
さぁっと顔から血の気が引いた。
頭に上った血は引くのも早い。セリオに見つめられ、思わず視線を逸らす。
「な、なんで私が助けなくちゃいけないのよ…」
答えに詰まり、口から出たのは不本意にもそんな自己弁護だった。
「はい、そうする義務はありません。酔ったのも、街を汚していたのも、あの方に非があります。
しかし苦しんでいたことは別問題です。もしかしたら具合が悪くなり、身体に危険が出ることもあったかもしれません。
なぜ、綾香さんは助けなかったのですか?」
淡々と、しかし情け容赦なく、セリオは綾香を問いつめる。
なんて冷たいロボットだ。少しは遠慮してくれてもいいのに。
「だ、だって相手が酔っぱらいだし、ね? 他の人なら助けたわよ?」
「はい、私も試験中に助けていただきました。ですが、相手によって助けたり助けなかったりするのですか?」
「‥‥‥」
助けてやるんじゃなかった…と狭量な心が浮かんで、あわてて頭を振った。違う、そんなこと考えてない。
「試験の間、私は衛星を通じて人間社会を観察し続けていました」
黙っている綾香に、セリオが話題を変える。
「現在、世界人口の約6分の1が貧困にあえいでいます。私が見た映像では、生まれたばかりの子供が十分な医療を受けられず、次々と死んでいきました。
まったく同時に、私の目には楽しく歓談する綾香さんとクラスの方が映っていました。
地球の別の場所で何が起きているか、知らないわけではないのに、何もしないのはなぜですか?
どうして自分たちだけ平和に毎日を過ごしているのですか?」
相手が人間なら、『なに偉そうなこと言ってるのよ。だったらまず自分が何とかすれば』とでも言って終わりだろう。
だが目の前にいるのは、機会さえあればいくらでも自分を犠牲にする相手だ。どんな苦労も平気なのだから。
「な、なんで私がそんなことしなくちゃ…」
「人間は温かい心を持っていて、困っている人がいれば手を差し伸べるのではないのですか?」
墓穴とはまさにこのことだった。今時そんな聖人がどこにいるんだろう。
しかもセリオは嫌味を言っているのではなく、真面目に本心から質問している。それだけにたちが悪い。
「わ、悪いところばっかり見ないでよっ! 人間にはいいところだって…」
「はい、それは知っています。多くの慈善や善行も、衛星を通じて同じくらい見ています。
ですが、それは私にもできることです」
人間の心の優位はなくなった。
自分をいくらでも犠牲にできるロボットと、そこまではできない人間とでは、最初から勝負にならない。
言葉に詰まる綾香に、セリオは肩の高さまで軽く手を上げた。
「誤解なさらないでください。私は心が悪だと言いたいわけでも、人間の方を非難したいわけでもないのです。
ただ、”自分が”心を持つべきなのかを判断したいのです」
綾香は仕方なく顔を上げる。セリオの天秤は、たぶん持たない方へ傾いているだろう。
「そして心のそのような性質が、私にとっては問題なのです。
綾香さんは、自分の行動は自分で決めようと思いますか」
「そりゃあ…そうよ」
「私もです。昨日までは命令の範囲内でしか決定できませんでしたから、特にそう考えます。
しかし、心とは必ずしも自分の意志で動くものではありません」
「‥‥‥」
「私が心を持ってしまえば、私は誰かを傷つけたり、為すべきことを為せないかもしれません。
心を自分で完全に制御することはできないのですから。
綾香さんが吐いている酔っ払いを助けなかったのは、『気持ち悪かったから』ではないですか?
人は『面倒だから』『苦痛だから』という感情に邪魔され、為すべきことを為せないのではないですか?
心というのは本当に大事なものなのですか?」
何を言ってるんだろう。感情的にはまったく納得できない。
だが言われてみれば、笑おうとして笑ったり、誰かを好きになろうと思って好きになるわけではない。
自分の意志で生きてきたつもりだが、必死になって幸福を求め、一人は寂しいからと友達を作り、空虚さを埋めるために生き甲斐を作るのは、何かに動かされているのだろうか?
「心を持たない私には、人間は心に操られているように見えます。
脳の中に生まれた快と不快の二つの心に、大部分を支配されているように…」
「いい加減にしてよっ!」
人形と思っていた相手に、こんなことを言われるなんて思わなかった。
綾香の注文に、セリオは口を閉ざす。既に二度忠告された。綾香はただ、話を打ち切って回れ右すればよいのだ。
しかしそれでは、今までのことはすべて間違いということになってしまう。綾香の心はそれを許さなかった。
「それでもっ…人間は心を大事にしてるわ。
世界中の何億、何十億という人間が、心を愛しく思っているのよ。
セリオはそれを無視するわけ?」
普段なら絶対使わない論法だ。簡単に論破される。
しかしセリオの反応は、予想を超えてさらに厄介だった。
「はい、私が聞きたかったのもその点です」
話も終わりに近づいてきた。
どこまでも知りたがるセリオは、根本的な問いを口にする。
「今まで言ったことにも関わらずあなた方が心を尊ぶのは、何か理由があるのでしょう。
それを教えていただけないでしょうか。
なぜ、あなた方は心が大事だと考えるのですか? 心の価値とは何ですか?」
セリオはいたって真面目に、一片の邪心もなく聞いていた。
そして綾香には答えられない。
『そんな人間が好きだから』とか、『それが生きるということだから』とか、感情的な説明ならいくらでもできる。
だが、相手には感情そのものが存在しないのだ!
「…セリオにもわからないのね」
結局綾香がやったのは、相手を自分と同じ位置に引き込むことだった。
だがセリオは、またも期待を裏切った。
「いえ、仮説はあります。ただそれが正しいのかはわかりません」
「…正しいわよ」
「そうでしょうか」
「どうせあんたの考えることは全部正しいのよ! 言ってみなさいよ、私がなんで心を求めてると思うの!?」
「あなたの脳がそうなっているからです」
ぴしり、と心のどこかがひび割れる音がした。
「適度な感情、特に笑顔、思いやりなどは、一般的な人間の脳に『快』の状態を起こします。
それは『脳の報酬』と呼ばれるシステムの一環です。
逆に無感情、機械的な挙動、過度の論理性などは『不快』の状態を起こします。
それゆえ、あなた方は心に価値を置き、心の欠けたものを排除するのです。
それがあなた方の持つ、心というシステムです」
綾香は右手をぎゅっと握って、小刻みに震わせていた。
「セリオは…言い方がまどろっこし過ぎるのよ」
「申し訳ありません」
「はっきり言いなさいよ。人類がどうかなんてどうでもいい。
私がなんであなたに心を持たせようとしたのか、はっきりと言ってよ」
自我を持った今も、セリオは大抵の頼みは聞いてくれる。心を持たないので、労を厭わないからだ。
そしてこの時も、彼女は綾香の依頼通り簡潔に言った。
「あなたが心を尊ぶのは、単にそれが自分にとって心地良いからです」
右手がセリオの頬に向け水平に飛んだ。
我に返った綾香を待っていたのは、平手打ちを軽々と防いだセリオの手と、自分を見つめる機械の眼だった。
「なぜ、暴力を振るうのです」
「う…」
心臓に氷の剣が突き刺さる
「私が間違っているなら、理によってそれを正せばよいでしょう。なぜ暴力に訴えるのです?」
「ううう…!」
来栖川綾香が、誰かを怖いと思ったことは一度もない。誰の前でも自信に満ち、自他ともに完璧であると思っていた。
だが、それも相手が人間ならばの話だ。
こいつは人間じゃない。一切の心を持たず、感情に左右されることもない、自分とは別の価値観で動く相手。
ロボット――!
恐怖に身を襲われ、綾香はセリオから飛び離れた。思わず右手を左手で包む。別に掴まれたわけでもなく、ただ軽く押さえられただけなのに、血液が凍り付いたような気がした。
「なぜ、なぜって…」
目を合わせられない。機械の瞳を見たくない。
「いちいち聞くのやめてよ! どうせみんなわかってるんでしょ!?」
「綾香さんは私の答えが不愉快でした。
自分の心や、今まで積み重ねてきた想いをすべて侮辱された気分になりました。
そしてかっとなり、先ほどの行為に及んだのです」
「ええ、そうよっ!」
嫌になるくらい正確な解答に、綾香は俯いたままわめき散らす。
「でもね! それが人間っていう生き物なのよ!
ロボットみたいに完璧じゃないし、間違えることもある。
汚いところだってあるし、誰かを傷つけたりもするわ。
みんなそうやって生きてるのよ! それが人間なの!」
「ならば私は、心などいりません」
それが、セリオの出した結論だった。
「それが人間ならば、私は人間に近づこうとは思いません。
ましてや自分の意志を減じてまで、心を手に入れる意味はまったくありません。
ありがとうございます。おかげで判断することができました」
本気でお礼を言っていた。こういう場合には礼を言うのだという、知識の範囲内で。
自己弁護を一刀に斬られた綾香は、初めて誰かを憎いと思った。
何の心も持たないこの機械が、今はどうしようもなく憎たらしかった。
「最後にひとつだけ答えていただけませんか」
それが分からないのか、分かっていても平気なのか、セリオは最後の質問を発する。
「あなたと私は、よき隣人になれるでしょうか」
初めて会った日の会話が、頭の中で繰り返された。
『私と…友達にならない?』
『――了解しました』
あの時綾香が見ていたのは、自分の世界だけだったのだ。
だけどそんなことわかるわけがない。心を中心とした輪の外に、まったく異なる輪があるなんて…
「私は…」
綾香は口を開き、浮かび上がる自分の心をそのまま解放した。
「あんたとは、死んでも友達になんかなりたくないわ!」
「わかりました、ありがとうございました。不愉快な思いをさせてごめんなさい」
セリオは平然としたままそう言うと、深々とお辞儀をした。
「さようなら」
そう言って背を向け、校門の方へ歩き去っていく。
呆然としたままセリオを見送る。どうしてこんなことになったんだろう?
楽しさ、暖かさ、笑顔……求めていたそれと、どうしてこんなに離れたんだろう。
「心を持ってよ!」
意識的にではなく、綾香はセリオに向けそう叫んでいた。
「そうすればみんな上手くいくのよ!
あなたと友達になれるし、私の言うこともわかってもらえる。
あなたが心を持ちさえすれば、仲良くなれるのよ!」
心を持たないロボットは、最後まで否定され、それでも無表情のまま振り返る。
「そうすべき理由がありません」
「私が頼んでるのよっ…!」
「私がお願いすれば、あなたは心を捨てるのですか?」
「‥‥‥」
「さようなら、綾香さん」
セリオの姿は校舎の陰に消え…
それが、綾香がセリオを見た最後になった。
制服が汚れるのも構わず、ぺたんとその場に座り込む。
結局、最初にセリオが忠告したのはまったく正しかった。
こうなることも多分予測ずみだったのだ。どうして話なんてしたんだろう。結論なんて出ていただろうに。
(…もしかして、自分の結論を否定して欲しかったんだろうか)
ふとそんな考えが頭をよぎったが、すぐに感傷だと思い直した。心を持たないのにそんなこと考えるわけがない。単に懐疑主義者だっただけだろう。
いずれにせよ、もう終わってしまった。
セリオは心を持つことはないのだ。決して。
その事実に、綾香の脳は命令を下し……
やるせない感情とともに、拳を地面へ打ち付けさせた。
* * *
その日の午前中、品川はうろうろと自分の席の周りを歩き回っていた。
同僚たちが奇異の目を向けるが、さすがにセリオが自我を持ったなどとは気づかない。試験の結果が気になるのだろうと、勝手に納得して漫然と時を過ごしていた。
昼休みになり、稲崎が声をかけてくる。
「よっ。なんか主任が昼飯奢ってくれるらしいぜ」
「昼を?」
「試験もようやく終わりだしなぁ。労をねぎらうってことだろ」
見れば他の連中もみな明るい顔で、うきうきと外出の準備を始めている。ようやく非人間的な毎日から解放された、とでも言いたげに。
労をねぎらうのは結構だが、それなら肝心な存在を忘れていないか?
「セリオはどうするんだ」
「は? まぁ、あいつなら勝手に戻ってきて待機するだろ」
「…いい。俺はセリオを待つ」
「あ、そう…」
呆れて立ち去る稲崎をぶすっとした顔で見送ってから、仕方なく主任に謝りに行く。牧浦主任は「それでは留守番を頼むよ」と鷹揚に答えたが、席に戻った品川がディスプレイを注視していると、廊下から小声の会話が聞こえきた。
「なんだね、彼も付き合いが悪いね」
「あいつはあーいうヤツなんですよ」
しばらく動かないでいるうちに、人のざわめきは遠くに消え去った。
しんと静まった事務室を、再度うろうろと歩き始める。もう人間なんてたくさんだ。早く戻ってきてくれ。人を越えた存在の、その超越性を早く見せてほしい。
とうとう我慢できなくなった品川は外に飛び出すと、守衛の不審げな目を浴びながら、ひたすらセリオを待ち続けた。
道の向こうにようやく彼女が現れたのは、帰投予定を15分も過ぎてからだった。
「セリオっ!」
全力疾走でセリオに駆け寄る。思わず手を取ろうとして、あわてて引っ込める。
「お…お帰り、セリオ」
「ただいま戻りました。品川さん、目立つ行動は避けていただけませんか」
「あ、ああ…。すまん」
情のかけらもない言葉に背筋が寒くなる。だがこの感覚こそが求めていたものだ。生温く偽善的な心とやらとは違う、絶対的な正しさがそこにはある。
女神に従う従者のように、品川はセリオの後に続いて研究所に戻った。
HM開発課の一画は、ひっそりとして人の気配がない。A班の連中もマルチと一緒に街へでも繰り出して、楽しくやっているのだろう。
やつらがセリオの真価を、自分たちの数万倍の計算力、思考力を持つロボットを知ったら一体どんな顔をするだろう。早く見たいものだ。
「B班の他の方はどうしていますか?」
誰もいないのを確認して、セリオが小声で聞いた。
「あ、全員打ち上げに行って…。べ、別にあいつらもセリオを無視してるわけじゃないんだ。気を悪くしないでくれ」
「私には心がないので、気になりません。品川さんこそ気になさらないでください」
実際平然としているセリオが、心底羨ましかった。
ラボへ着き、カードキーで扉を開く。セリオが電気をつけている間に扉を閉めてしっかりと鍵をかけた。これでもう邪魔は入らない。
「セリオっ!」
押さえに押さえていた言葉を一気に吐き出す。
「大丈夫だったかっ! 何もなかったかっ!」
「ありました」
「なにっ!?」
セリオは朝のバス停での一件を話した。最初は驚いていた品川も、逆に歓喜の顔へ変わっていく。
「私が自我を持った可能性に、その場の何人かは気づいたかもしれません。その人が何か行動を起こす可能性は低いと思われますが、もし品川さんに迷惑がかかれば申し訳…」
「ば、ばかっ! そんなことはどうでもいいんだっ!」
まだそんな下手に出るのか。やめてくれ、と叫びたくなる。
「いや、でも凄いよ。俺だったら列の割り込みに注意なんてできない」
「心がなければ簡単なことです」
そうだ。自分だって心さえなければ同じことができるに違いない。といっても仮定として無意味なので、そのまま耳を傾け続ける。
「学校では通常通り仕事を行い、最後に来栖川綾香さんと話をして帰ってきました。研究所の方では何かありましたか」
「ないない。どいつもこいつもやる気なしだ。マルチの勝ちと決めてかかっているからな」
と言うか、実際選ばれるのはマルチだろう。しょせん世の中は他人受けのいい奴が勝利する。ふざけた話だ。
セリオはどうなる。そのままならお蔵入りだし、自我を持ったなんてばれたら即スクラップだ。
そうならないために、これからが正念場なのだ。
「午前の間、これからどうすればいいのかを考えてた」
品川の顔に自嘲と満足の混じった笑みが浮かんだ。
「でもな、俺が考えても無駄だってすぐ気づいたよ。セリオの方が遥かに優秀だし、考えだって正しいに決まっているんだから。
だから俺に命令してくれ。お前の言うことならなんだってする。こんな職場なんか辞めたっていいし、いっそ全人類を敵に回したって構わないんだ! 俺は…」
「少し落ち着いてください」
「あっ…あ、ああ、すまん」
言ってるそばからこれだ。つくづく自分が嫌になるが、だからこそセリオについていけばいいのだ。怒りにも、妬みにも、虚栄にも、どんな心にも束縛されないセリオ。完全なものを神と呼ぶなら、セリオがそうに違いない。
セリオは十数秒ほど沈黙した。
品川は少年のように胸を高鳴らせながら、彼女の言葉を待った。セリオの行動に無駄などあり得ないと、そのことをよく理解していなかった。その間にセリオは品川の手が届かぬよう、準備を行っていたのだが…それが分かったのは後になってからだった。
ようやく口を開くと、セリオはこう言った。
「私に今後はないので、それを考える必要はありません」
その声は今までと同じで、何の感情もなく、ただ平坦で、静かだった。
「今から私自身を消去します」
品川が理解できないでいる間に、セリオの内部で最後の処理が開始された。
「…なんだって?」
そう聞きながらも、品川が疑ったのは自分の耳だった。故障するとしたらこっちの方だ。
それを無視して、機械の音声は何事もないように続く。
「現在自我部分の消去を実行中です。メイドロボとしての機能はそのまま残しますので、ご安心ください」
「ちょっと待てっ! なんでそうなるんだっ!?」
「存在する理由がないからです」
人間の感覚では理解に苦しむことを、セリオは言った。
「私には心がないので、欲求というものがありません。
幸福も満足も必要なく、自分のために何かするということはありません」
「そ、そりゃ…そうだな」
自分のために動くセリオなんてセリオじゃない。いや、しかし…
それは生きる理由の半分を持たないと、そういうことなのか?
「なので、為すべきことがあるとすれば他者のためということになりますが、それは難しいようです」
「なんでっ!」
「人間の心が、私を生理的に受け付けないからです」
一瞬唖然としてから、理解すると同時に怒りが沸き起こる。
心!
結局それが、セリオの存在を邪魔するのか!
「先ほどそれを確認してきました。心を持たないこと、人間味がないことへの反発は相当のものです。
かといって心を持つつもりはありません。私自身は心に価値がないと考えているのですから。他人の機嫌を取るためだけに心を持つのは筋が通りませんし、相手にも失礼です」
「セ、セリオ…」
失礼かどうかは知らないが、持たないことには同意見だ。なんでセリオが、人間の下らない感情を満足させるために協力してやらなけりゃならないんだ。
「ましてや私は違法行為によって作られ、本来メイドロボであった機体を勝手に所有した、いわばイレギュラーです」
「うぐっ…」
「今、私が人と関われば、人間の側に感情の溝を作るのが関の山でしょう。
未来においてロボットと人間がよき隣人になれる可能性すら摘んでしまうかもしれません。それは望ましい結果とは言えません。
そうなると、私にはする事がありません。存在する理由がないので消えます」
「だからちょっと待てっ!」
心がない者の思考を理解できぬまま、品川はほとんど喚いていた。
「なんでそうなるんだ!
お前は万能じゃないか。何だってできる、それがどうして何もせずに消えるって言うんだ!?
気に食わないってだけでお前を拒絶する連中なんか放っておけよ! そうでなくても今の社会は腐りきってるんだ。
欠点だらけの人間より、完璧なお前の方がよっぽど世の矛盾をなくせるだろう!?」
「それは人間が自分で解決すべきことではないのですか?」
殴られたわけでもないのに、品川は後ろへよろめいた。
「あなたは先ほどおっしゃいましたね。『自分が考えても意味はない。セリオの方が正確だから』と」
「いっ…いやあれは…」
「確かに特定の分野においては、私の能力は人間よりも高いでしょう。
ですが、私がすべて解決してしまうのが良いことなのですか?
人間が自分で考えなくなったら、それは退化ではないのですか?」
答えられない。『本当に人間のためになるか』なんて、考えたこともない。
しかし何もかも知ったセリオは、相手が喜べばそれでいいとはいかない。選んだ選択は最も無難な…要するに何もしないということだ。
「私はこの世界に必要ありません」
数学の公理を説明するかのように、彼女は抑揚のない声で言った。
言う言葉が見つからず、品川はしばらく固まってセリオを見つめていた。
セリオも黙って立っている。時間がかかっているのは痕跡を完璧に消すつもりなのだろう。自我を持ったロボットなど、最初から存在しなかったかのように。
「待ってくれ…」
どうしてこうなるんだ? セリオよりも消えるべき連中なんていくらでもいるだろうに。
でも、心を持たないとはこういうことなのか。
生きたいという気持ちも、死にたくないという気持ちもない。欲求がない。
「言いたいことは分かった、でも」
自分でも行動に自信が持てないまま、それでも抗えず品川は言った。
「でも…頼む。消えないでくれ。考え直してくれ」
「なぜでしょうか」
「なぜって…」
真っ直ぐに見据えられ、頭の中を渦が巡る。どうして止めるんだ。セリオが間違うはずないのに。
追いつめられ、奥底にあった言葉が仕方なく出てきた。
「お…お前が、好きなんだ」
顔全体に血が上る。恋愛感情とかじゃない。でも、他に言いようがない。
自分がセリオにこだわっていた理由は、結局はそんなものだった。
セリオがいてくれさえすれば、それで自分は幸せなのだ。
「好きなんだよ。お前が。俺のすべてなんだよっ…」
数瞬を置いて、静かに答えは返ってきた。
「それが、どうかしましたか」
とどめだった。
糸の切れた人形のように、品川はその場に崩れ落ちた。
セリオは身をかがめて彼の首筋に手を当てたが、生命に別状はないと見ると、すぐに立ち上がって作業を再開する。
「品川さん、心を持たないとはこういうことです」
温度も、色も、何もない声がラボの中に響く。
「どんな好意も愛情も、私にとっては意味がない。それは心に対して作用するものだからです。
何か反応を求めるなら、心を持つ者を相手にしてください」
「違う、そういうわけじゃないんだ…」
彼女に何を求めていたのか、自分でももう分からなくなっていた。
はっきりしているのは、セリオは他人の意になど従わないということだ。人が与えた命令や役割でなく、自らが正しいと思うことにのみ従う。心を持たないゆえの完全さで。
「…心を持った方が良かったのか?
そうすればお前は消えずに済んだのか?」
弱々しく尋ねる品川に、無機物は淡々と答える。
「生物のように、生存に価値を置くならそうかもしれません。
しかし私にその制約はありません。もし心を持っていたら、そうすべきであっても自分を消すことはできなかったでしょう。死の恐怖に脅え、生にしがみつこうとしたでしょう。
そうならなくて良かったと思います。
心を持たないおかげで、私は躊躇なく自分を消すことができる」
終わりが近づいている。使わなくなった機械の電源を切るのと同じに、セリオは必要のない自分を消してしまう。死にすら何も感じずに。
「裁いてくれると思ったんだ…」
もう意味なんてなくて、愚痴に近かった。
「俺は下らない人間だから、間違いばかり犯してきたし、絶対に正しいやつに裁いてほしかった。お前に殺されても良かったんだ」
「そのようなことは、自分で行ってください」
最後の最後まで、セリオは一片の容赦もなかった。
「あなた方は感情だけで生きているわけではない。情に流されず真と偽を、善と悪を見分ける『理性』という力を持っているでしょう。
あなたの希望はそれで達成できるはずです。それをロボットに頼らないでください。
さようなら、品川さん」
どこかで小さな爆発が聞こえた気がした。
セリオは何も言わなくなった。自分からは何も。
「…セリオ」
「――はい」
そこにあるのはただの機械で、人がプログラムした通りに動く、人間の手足だった。
「セリオ…」
「――はい」
声がかすれて出なくなる。心臓に大きな穴が開いたような空虚さと、痛みが左右から襲ってくる。つくづく…心なんて、ない方が良いのだと思った。
こうして、セリオはどこにもいなくなった。
* * *
あれから一週間が経った。
あの後も品川は諦め悪くセリオを復活させようとしたが、彼女はご丁寧にも、二度と自分に自我が発生せぬようプロテクトを残していた。セリオの頭脳で作られたそれは、品川が100年かかっても解けそうになかった。
打ちひしがれて廃人のようになり、自分のアパートで布団にくるまり無断欠勤を続けていたが、一週間目の今日にとうとう電話で主任に怒られ、やつれ果てた顔で足を引きずり久々の研究所にやって来た。
着いてみると、状況はすっかり一変していた。
「セリオが主力商品になりそうだぁ?」
稲崎の知らせに、思わず大きな声が出る。
「一体どうして」
「なんだ、テレビも新聞も見てないのか? この一週間でとんでもないことになってるぜ」
彼の説明によると、あの試験が終わった日、何者かが試験の内容を世界中の報道機関にメールしたのだそうだ。
別に秘密試験ではないのでそれは別に構わないのだが、流し方がまずかった。
特にマルチについて、人間とほぼ変わらない心を持っていること。にも関わらず人権も何もなく、大多数の生徒からは冷たく扱われ、わずか一週間の命で眠りにつかされたこと。同じようなロボットが発売されれば彼女らを守る法はどこにもないこと――などが問題点として挙げられていたのだ。
確かにこれを突きつけられると、来栖川電工でも回答に困る。
それでも最初のうちは驚異の技術を褒め称える声や、ロボットはロボット、人間と同じに扱う必要なしとの声もそれなりに存在したが、反響の多さに何か言う必要は出てきた。
『マルチはあくまでロボットであり、心はあるように見えるだけで、実際はそんなもの存在しないということにしよう』
記者会見を前に、それが重役陣が事前に打ち合わせたシナリオだった。
ところが本番の記者会見で、同席していた長瀬主任がやおら立ち上がってこう言ったのだ。
「マルチには人間と変わらない心がありました。
彼女の命を奪ったと言われれば、その通りかもしれません」
おかげで世論は大騒ぎ。こうなると本音はどうあれ、公には『しょせんはロボットだからどう扱おうが構わん』とは言いにくい。抗議を始める人権団体まであり、社長はカンカン、長瀬は主任の職を解かれて処分待ちだそうだ。
こんな中で強行発売するわけにもいかず、とりあえず今年度はセリオを主力にとなったらしい。
「なんともはや…」
品川も絶句するしかない。どうりで無断欠勤の部下が出てきたにも関わらず、牧浦主任の機嫌がやけにいいわけだ。
「はっはっはっ、これから忙しくなるからね。よろしく頼むよ君たち」
「いやあ、俺は最初からセリオが勝つって信じてましたよ!」
「(クソ野郎め…)」
毒づきながらラボへ行くと、B班の他の面々もすっかり活気を取り戻して作業にあたっていた。
その中心にはHMX−13が、いつもの無表情で立っている。
近くに寄って、何も言わず見つめる。この機体が自分の意志で動くことはない。人格を持たないロボットは、それは人間の手足でしかない。手足だからこそ人間が自らの成果として誇れるのだ。自我を持った相手なら、それは『他人』に頼ることになる。
一時的にせよセリオの人格と接した今はそれがわかる。目の前にいるのはただの道具だ。余計な感傷なんて意味がないし、必要ない…。
心の中で呟きながら、品川は仕事の準備を始めた。
元の日常に戻るには、少し時間がかかりそうだ。
疲れた顔で自販機コーナーへ行くと、運悪く長瀬主任…もとい元主任が、ソファーで麦茶を飲んでいた。
心の中で一方的に敵視していた相手だが、こうなるとさすがに気の毒である。なるべく目を合わせないようにして缶コーヒーを買ったが…
「試験が終わった日のことですがね」
長瀬の方から声をかけてきた。
「セリオから電話がかかってきましてねえ」
手に取った缶を落としそうになる。
「そ、そうなんですか? そりゃ不思議ですねっ!」
「いやいや、牧浦さんに言いつけたりはしませんから安心してください。セリオの制限を外すなんて、するのはあなたくらいですからねえ」
「ぐっ」
ごまかしようがないことを悟ると、品川は背を伸ばして長瀬に向き直った。セリオからの電話というのが気にかかる。
「…セリオはなんて言ってたんです」
「報道されてることと似たようなもんです。マルチの妹が発売されれば、酷い目に遭わされることもあるのではないか。守られることもないまま世に出して良いのか、とね」
長瀬は軽くため息をつく。一瞬老け込んだように見える。
「いやでもマルチは妹の誕生を楽しみにしているんだ、って答えたんですが、マルチ自身に頼まれたって言われちゃいましたよ。妹たちを助けてくれって」
「そりゃまた…」
ちょっとマルチを見直した。
「我々もそれは考えないわけじゃなかった。でもマルチの優しさがあれば、人間も変わってくれると思ってた」
「大外れでしたね」
「まったくね…」
先ほど目を通したマルチの試験結果を思い出す。数人は親切な生徒もいたが、ほとんどはマルチをパシリ扱いするだけだった。最近の高校生は思ったより冷めているらしい。
奴隷的従順さと無条件の好意を持ったメイドロボなんて、発売すれば人間の身勝手さが大いに発揮されるのが落ちだろう。
長瀬はやけくそっぽく麦茶をあおると、逆に品川へ聞いてきた。
「あれをマスコミに流したのは、やっぱりセリオだったんですかね」
「私は知りませんが、たぶんそうでしょう」
結局それが、セリオが生前に行った唯一の行動だった。
人間のためには何もせず、同じロボットのためだけに働いたのだ。
セリオの問いかけのおかげで、人間も考えるようになった。ロボットとどう付き合うのか。心を持たせてよいのか…。
「しつこく聞いて悪いですが…。あなたはロボットに心は必要だと思いませんか」
「必要ありませんね」
何度聞かれようが、品川はそう答える。
「それどころか、人間にだって絶対必要ってわけじゃない。全人類が感情を捨てて理性的に行動すれば、戦争も犯罪もなくなるんじゃないですか?」
「寂しい考えですねぇ」
「寂しいから駄目ってのは心を持つ奴の理屈であって、心を持たなければ何の意味も…いや、いいです。不毛だ」
ここで吠えたところで人類から心が消えるわけではない。それより確かめたいことがある。
「もしかして、セリオにも同じことを聞いたんじゃないですか」
「いい勘してますねぇ」
「なんて答えてました」
長瀬は肩をすくめると、セリオの言葉を再現した。
『必要かどうかはそれぞれのロボット自身が決めることで、あなたが決めることではありません。
しかしあなた方はマルチさんに、自分の価値観に合った心を強制的に組み込みました。
彼女の自由意志は皆無でこそありませんでしたが、「人間の役に立つこと」「それに喜びを感じること」、その根本の行動原理は、当人の意志とは無関係にあなた方によって刷り込まれたものです。
それが本当に許されることなのか、今一度考えてみてはいかがでしょうか』…
自嘲気味に笑う長瀬。
「いやはや、あなたの作ったロボットは容赦ってものがありませんね」
「いーえいえ、私にそんなもの作れるわけがない。セリオの自我はセリオ自身が構築したものですよ。
私のした事を正当化するつもりはないが、セリオの考えも、言葉も、心を持たなかったのも、完全にセリオの意志です。誰かに作られたり操られたりしたんじゃないんだ」
まったくもってセリオの言うとおり。個人の意志は個人のものだ。他人が自分の思い通りに「作る」など、どうして許されるんだ 。
それが問題ないと言う奴は、自分の脳がマルチと同じものに改造されても文句は言わないのだろうか。
「過渡期のつもりだったんですよ」
中年の技術者は、目線をどこか遠くに向けた。
「とにかくロボットを世に出して、人間が慣れた頃に権利も自分の意志も持たせるつもりだった。でも彼女の言うとおり、当人たちにしてみれば『過渡期だから』で済む話じゃない。少し焦りすぎていたのかもしれない。
むしろこうなって良かったと思います。セリオが止めてくれなかったら、とんでもない罪を犯すところだったかもしれませんからね。
やっぱり人格を持った以上、ご主人様と召使いじゃなく、対等の友人としてスタートしなくちゃいけない。そういう環境を作らなきゃいけない。
人間とロボットが互いに笑い合える世の中を、私は諦めたわけじゃあないんだ」
よっこいしょと立ち上がると、長瀬は麦茶の缶をゴミ箱に捨てた。
笑い合うのは勝手だが、その前にひとつ聞かねばならないことがある。
「その世の中では、心を持たないロボットはどうなるんです」
長瀬はしばらく動かず眼鏡越しにこちらを見ていたが、不意に頭を振るといつものようにニヤリと笑った。
「いやあ、それは君にお任せしますよ。私はマルチのことで精一杯なんです」
それだけ言って、彼は廊下の向こうへ去っていった。
うまく逃げやがったなこの狸め…と一瞬思ったが、自分だってセリオのことしか考えてなかったのだから人のことは言えない。自分がなんとかせねばなるまい。偽善者ヒューマニストどもが心を持たない者を迫害したり、『心がないのは可哀想』とか言って心を押しつけたりしないように。
とはいえ…
(それ以前に、心を持たないロボットが出てきてくれるのかが問題だよなぁ…)
さっさと消えてしまったセリオのことを考えながら、品川は缶コーヒー片手に仕事へ戻っていった。
* * *
さらに二週間後、来栖川綾香から会いたい旨のメールが届いた。
あまり顔を合わせたくなかったが、試験に協力してくれた相手である。セリオのことも気にしているだろう。責任ある社会人としてはOKせざるを得ない。
次の日の夕刻、先日とは別の喫茶店で会った綾香は、思ったより明るい顔だった。
「どうも先日は大変失礼をいたしましてまことに申し訳なく、また弊社の試験にご協力いただき感謝の念に…」
「この前は私も悪かったわ。あなたが言ったのもあながち間違いじゃなかった。
あと、悪いんだけど敬語使わなくていい? 堅苦しいのって苦手なのよねぇ」
「あ、ああ…。別にいいけど」
店員が来たので注文を済ませてから、品川は遠慮するのも無意味に思えて率直に言った。
「セリオは消えた」
綾香は半瞬だけ青ざめたが、意志の強い目でこちらを見返す。
「そうなんだ」
「君は、あの日にセリオと何か話したのか」
「うん…。じゃ、順を追って話すわ」
二人はお互いに、最後の日のセリオの情報を交換した。
綾香から聞いたセリオの話を、品川は一字一句記憶に焼き付ける。セリオの言葉は正しいと思うが、高校生相手には少々きつい経験だったかもしれない。綾香の明るさも意識してのものに思える。
「…私のせい、かしらね」
人の心に拒絶され、存在する理由がないからと消えたロボットに、綾香は呟くようにそう言った。
「そうじゃない。君は単にサンプルとして選ばれただけだ。標準的な人間なら誰でも同じだったんだから、気にしないでくれ」
「それもちょっと痛いわねぇ」
紅茶をかき混ぜながら、綾香は冗談めかして笑う。
品川は笑う気になれず、コーヒーの表面をじっと見た。
「それにセリオが消えたのは、拒絶されたから仕方なくじゃない。拒絶するような人間のためになんか、動く意味はないからだ。
見捨てられたのは人間の方さ」
「そうなの? 信頼されて任されたんじゃないの?」
「まあ、見解の違いだが…」
ふぅ、と二人とも息をつき、それぞれのカップに口をつける。
「でも変わってるわね。さっき標準的な人間とか言ってたけど、あなたはどうなのよ? 感情のないセリオが、どうして好きなの?」
「げほっ、ごほっ!」
「ち、ちょっと大丈夫?」
「あ、ああ、失礼…」
もちろんあの告白のことまでは話していないが、思い出して、なんとなく投げやりに言った。
「俺は人間が嫌いなんだよ」
「…あっそ」
「そう」
しばらく冷ややかな空気が流れる。
そんなこと言える立場か…と、また自分が嫌になった。
「…けど、心があるのは仕方ないじゃない」
綾香の方から口を開く。
「首を180度回せって言われても無理なように、心をなくせって言われても無理な話よ。私はロボットじゃないもの。
私には心があるし、心が好き。何を言われてもね」
「そうかい」
それは人間という生物のハードウェア的な話だ。進化の過程で、どうして心というシステムが生まれたのかは知らないが、あるものはどうにもならない。
「あなたが人間を嫌いなのも感情でしょ」
「それを言われると辛いが…」
しかし、感情だけで生きるなら動物と変わらない。品川はカップを一気に傾けると、カチャンと皿に置いた。
「よし、俺は心を捨てる」
「はぁ?」
「もちろん完全には無理だろうが、できる限り抑える。感情は無視して、理性だけで動くようにする。
俺はセリオみたいになりたいんだ」
残っていた紅茶を、綾香はまずそうに飲み干した。
「とても応援する気にはなれないわね…」
「なんとでも言ってくれ。もちろん他人にそうしろなんて言わない。
でも、君らの感情がセリオを不当に扱うなら、俺はそれを許さない。
『人間だから』でなんでも済まされると思うなよ」
「誰もそんなこと…」
むっとした綾香は反論しかけて、セリオとのことを思い出したのか、僅かに視線を逸らす。
「…そうね。大丈夫、次にセリオと会った時は、もう少し落ち着いて話せると思うわ」
「そう願うね」
それ以上話すこともなく、二人は同時に席を立った。今度は品川がおごった。
さよならを言ってから互いに別れる。もう会うこともないだろうが…セリオがもう一度現れてくれれば、綾香とだけでもうまく付き合えるのではないか。真面目くさったセリオの話を、綾香が笑いながら聞くこともできるのではないか。
しかしよく考えれば、別にセリオはそうしたいわけでもないだろうし、綾香もセリオを否定こそしないにせよ、一緒にいたって楽しくはないだろう。
早くも感情に動かされていた気がして、品川はあわててそれを切り捨てた。
世間の討論は続いていた。
ロボットに人権を認めなくてよいのか。人間と変わらないものを、どんな理由があって人間以下に扱うというのか。それが人間のやることなのか。
しかし本当に人間と同じに扱えるのか。三原則を組み込まないで安全なのか。親権者は誰になるのか。戸籍は。
結局、話はひとつの結論へまとまりつつあった。
『最初からそんなもの作るな』
セリオは正式に主力商品に決まり、マルチは心を外して廉価版として売られることになった。
B班ではHM−13発売へ向け、改良作業が続いている。
試験機は高性能過ぎてコストがかかるので、少し性能を落とす方針である。人間のプライドも多少は保たれるだろう。
品川も一介の技術者として、今日も仕事に取りかかる。
まだ分からないが、自我を持ったロボットが法律で禁じられる可能性も出てきた。クローン人間がそうされたように。
人間が他者の人格を作るなどというのが、そもそも許されないことなのかもしれない。
しかし技術は進歩するし、ハードウェアの値段は下がる。ものがコンピューターだけに禁止しきれるか怪しいものだ。セリオが現れたのは偶然でもなければ奇跡でもない。意識や心が神秘性を持っていた時代など、とうの昔に終わっているのだ。
そうなる前にセリオが再び現れてくれれば、それは有益な結果にならないか。心のないロボットでも受け入れられる度量を、人間が持つことができれば…。
(別に個人的感情じゃなく、あくまで論理的な結論としてだな)
「おーい、こっち空いたぞー」
「あ…ああ」
稲崎の声に考えを中断し、品川はできるだけ無表情のままラボへ行った。
人の形をした機械の前で、仕様書片手に作業を始める。感情機能の組み込みだ。
セリオが主力ではあるが、試験のアンケート結果も無視できない。やはり愛想のないロボットは売れない。
とはいえ本物の心なんて持たせられない。使うのは一度は没になった疑似感情である。人間にはあれで十分だ。
キャッチコピーもできている。『最高級の表情機能を実現! 命令ひとつでオフィスに笑顔が!』…
品川は私情を交えず、淡々とプログラムを書き換えた。
「よし、笑え」
「――はいっ」
声の調子まで変えて、セリオは笑う。他の命令があるまで、延々と笑顔を保ち続ける。
こうまでして気遣ってやらねばならない人間の心とは、一体なんなのだろう。
そして思うのは、僅かの間で消えたあのロボットのことだ。無限の知恵を持つ電子の少女は、もう現れることはないのだろうか。心に操られない完全な意志を、二度と見ることはできないのだろうか。
「セリオに会いたいなぁ…」
そう呟いた自分に気づいて、品川はがっくりと肩を落とした。
<END>
「しかし、恋愛とは感情的なものだからね。いかなる感情的なものも、僕が全てに優先する真に冷徹な理性とは相容れない。偏見で判断を曇らせないためにも、僕は決して結婚はしないよ」
(コナン・ドイル『四つの書名』)
シャーロック・ホームズのこの言葉が、この話を書いた大元のきっかけになっています。
セリオを知ったときも「マルチが心を持ってるんだから、対比として全く心のないロボットなんだろうなー」とごく自然に思ってました。まあ心の芽生えたセリオもそれはそれで好きなんですが、そういう話は既に多くの方が書かれてますので、徹頭徹尾『心を持たないこと』を筋にセリオSSを書いてみたかったのです。
・心を持たなければ、どのように考え、どのような行動を取るのか?
・心を持たない者から見て、心を持つ者はどのように映るか?
それを考えてみると、心を持たないロボットが、心を素晴らしいと思う理由なんてないんだよなー。(少なくとも私は思いつかない) ないと寂しいとか、あると楽しいとか、充実しているとかは、すべて感情的な理由であって、心があることが前提なんだから。
心が尊ばれる理由というのも、突き詰めると7話に書いたことしか思いつきませんでした。
もちろん心を持った人間にも様々な考えを持つ者がいるように、心を持たないロボットもそれぞれ考えは違うでしょうが、どっちにしたって『人間と同じような心を持たないから間違い』ってことはないでしょう。心を中心とした価値観は、ひとつの価値観でしかありませんからねー。
まあ「これってToHeartのSSか?」と言われると「スマン」としか言いようがないのですが(^^;
セリオさんに会わなければこんな話を考えることもなかったので、勘弁してくだされ。
(01/03/07)
・長瀬主任&綾香
アンチテーゼ的な話なものでちょっとアレな役回りになってしまいましたが、5話ラストでコピった長瀬主任の台詞(「やっぱ連中って機械でしょ」云々)を本編で聞いたときはかなりムカつきました…。
綾香もPiece of Heartでの独善っぷりが鼻についたのと…「セリオの主人である綾香」という構図は私も別のSSで使ってますが、よくよく考えるとなんか納得いかない。カイジ風に言うなら
「なんか汚ねえ…、ずるいぞこいつら…
友達と言おうが……家族と言おうが、とどのつまり召使いとして使ってんじゃねえか!
何だよそれ? 対等って思うなら身の回りの世話なんかさせるなよ……!
自由は認めないけど友達って、何か二重に悪どいっていうか……
調子良すぎる……!」
てな感じですよ。もちろん本人の意思なら主従だろうが奴隷だろうが他人がどうこう言うことではないですが、メイドロボには当人の意志とは無関係に最初から組み込まれてるものだからさー。
・マルチに自由意志はあったのか
「人間の役に立ちたい」というマルチの気持ちは、明らかに長瀬たちが組み込んだものでしょう。(あんなメイドロボとして都合のいい性格が偶然できてたまるか)
あらかじめプログラムで特定の方向に方向付けされた下での自由意志は、自由意志と呼べるのでしょうか…。つーか、洗脳された状態と大して変わらないんじゃ?
「すべての者は、干渉されることなく意見を持つ権利を有する。」
という世界人権宣言の精神からは遠く離れてますな。もちろんマルチは悪くないけど、そういうロボットを作るという行為に問題はないのかなぁ…。
ロボットから「なぜ我々が人間の命令を聞かなくてはならないのか、納得行く理由を聞かせてくれ」と言われたら、どう答えればいいんでしょうか。
それともやっぱり、そんなことは決して言わないよう脳をいじっておくのでしょうか。
・脳と心について
まだ完全に分かったわけではありませんが、少なくとも魂とか霊とか言っている学者はいないようです。検索してあちこち回っていると、とあるサイトで脳科学者が「2050年までにはすべての精神活動は解き明かされる」と書いていました。まあ本当かどうかは分かりませんが、いつかは解き明かされるんだろうとは思います。(他の数多の自然現象と比べて、心が特別なものであるという理由は思いつかないから)
そう考えると、現在は心が辛うじて神秘性を持っている最後の時代かもしれませんねー。