NHK-FM マイ・セレクション('87.8.24)

  • (『路地裏の少年』が終わって)・・・・

    1976年の春に出たアルバム『生まれたところを遠く離れて』から 『路地裏の少年』でした。
    このアルバムが出た時は僕はもう23歳で。
      さて、次のアルバムはだから当然1977年、24歳になっていたわけですが、 『ラブ・トレイン』というアルバムを作りました。
    なんか、久々に、なんか敬語でしゃべるから、なんかいつもは 「お前よー」とか言っているのに、「なりました」とか言っているから、なんか舌が、えー、うまく回りませんが・・・。

     えー、『ラブ・トレイン』を作ってー、コンサートをやった頃はまだやはりバンドもなくって・・・。
    『愛奴』というグループが解散して、今ずっと一緒にやっている、えー町支君と二人でライブハウスをまだ生ギターで回っていたんだけど・・・。
    当時やっぱりねぇ、あのー、ほんとに、売れていない。
    だからどっかライブハウスに行くといっても経費が出ないっていうんで、マネージャーが一人付いて俺が一人行くか、一緒に生ギター・バッキング、て形で町支君が来るか。
    二人分の予算が無い、ていうんでねぇ。えー、町支君がマネージャー兼バッキング・ギタリストをやってた、ていうのは結構長くて・・・。
     
    例えばラジオ局に行って町支くんが、
    「浜田のマネージャーの町支です。」
    とか言ってねぇ、ギャラをもらって、領収書を書いた後、自分がギターを出して、俺のバックでコーラスとギターを弾く、という寂しい状況があってねぇ、
    俺が声が出なくなると彼が駆けずり回って、あのー、針の医者を探してくれたりねぇ。
    本当にあの頃から長く二人でよく頑張っているなぁ、と思います。
    その頃はまだねぇ、あのー、環状七号線って東京にあるんですが、道路がね。
    もう、最も空気が悪い一帯と言われているんだけど、そこの世田谷代田っていう所に住んでて、もう、窓の下がすぐ環七でねぇ。
    四畳半のやっぱり部屋で、当時、まだ結婚していませんで、後に結婚する私の家内と一緒に、同棲生活というやつを4,5年やっていました。

      二人とももちろん働いていてお金がなくてねぇ。で、僕なんて定期を持って通うというねぇ。「定期を持ったフォークシンガー」っていうんで、俺は非常に煮詰まっていたんだけど・・・。
    やっぱり一回づつ切符を買うのは大変だ、って言うぐらいお金がなくてねぇ。
    で、彼女が働きに行くもんだから、そのー、夜は早いわけですね。10時ごろには寝る。
    だから俺は、そのー、曲を書く時は台所に座って・・・。 台所の流しの上に座って・・・。
    あのー、本当にこんな話をしてもいいんだろうかと思うんだけど・・・。 もういいよね。10年も前の話だから・・・。
    台所の流しに座って曲を作っていた、ていうね。

    あとは、あの辺の羽根木公園の方をブラブラ、ブラブラ歩き回りながら、あのー、メロディーを作ってた。
    例えばすごい想い出すのは、『愛のかけひき』ていうのは、そのあたりを5時間ぐらい歩き回って作った、ていうエピソードもありまして・・・。
     
    でも、今想うと、まあ、楽しかったかな。過ぎてしまえばなんでも皆「楽しい」と言ってしまうんですが・・・。
    本当に、あのー、まぁ、煮詰まってた。
    どうやってこれから音楽をやっていこうかと煮詰まってた頃の、えー、僕がこのアルバムの中には沢山出てきます。
      『ラブ・トレイン』の中から『恋に気づいて』

    ・・・・(『恋に気づいて』が流れ始める・・・・)

⇒⇒ 続く⇒⇒

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